2009年9月22日火曜日

ゼロから学ぶ超ひも理論 を読みました。

竹内薫 著ゼロから学ぶ超ひも理論 (ゼロから学ぶシリーズ)(2007.12発行)を読みました。

この本は、狙いは「難しい教科書への橋渡し」とあり、先日読んだ、イラスト「超ひも理論」のように数式を使わずトピックを紹介した概説本とは異なり、イメージを伝える助けに数式を用いているものの、一般初心者向けに超ひも理論を説明した本です。

構成は、
最初の章は超ひも理論の概説となっていて、2章でひも理論に入る準備としての、ローレンツ変換と質量エネルギー式(相対性理論)、不確定性原理の適用(量子化)、およびプランク長さについて、3章でひも理論の導出過程を、4章で超対称性を考慮した超ひも理論について、5章ではDブレーンとひもの関わりで説明する素粒子のモデルやブラックホールとの関係などが説明されています。

超ひも理論について、基礎となる相対論や量子論との関わりや導出過程の説明には、簡略化した式を用いて説明されていて、文章だけよりも正確なイメージがつかめるような気がするし、対話形式での補足説明などもあり、丁寧さと正確さを兼ね備えた説明となっているように思うものの、交換関係の演算処理や、特に4章での超対称性の部分や調和振動子の量子化などはイメージがつかめなくて、良くわかりませんでした。
しかし、くりこみの話や、ひも理論から超ひも理論、Dブレーンの導入により実際の素粒子との関連付けがされることなどは、よりイメージが深まり理解が深まったような気がするので、十分読む価値はあったと思います。

内容についてもう少し詳しく書くと、
1章では、物質の成り立ちを点ではなくひもとして捉え、その挙動が物理現象を表すように特殊相対性理論や量子論と整合をとることで出来ることが説明され、
対称性と物理量の対応(ネーターの定理)により重力など様々な物理量がひもから導出できることや、ひもの境界条件がむしろ重要でDブレーンと呼ばれる平面もにひもがつながったような状態により電子やクォークが表現されること、超ひも理論はホログラフィー原理で次元が落ちたものがクォークを記述する量子色力学と対応すること、力を伝えるボソンがDブレーンから出て戻るひもで、物質の素であるフェルミオンがDブレーン同士をひもでつないだ状態であることなど、超ひも理論により力の統一的枠組みが可能になりさまざま現象が説明できることや、
一方で、超ひも理論が様々な可能性を予測してしまうため、これまでわかっている現象を説明できるものの、実験的に検証可能な予測ができていないため、検証された理論とはいえないことや、可能性としては無限の閉口宇宙を予測してしまうことなどの課題、
さらに、最近は重力理論を量子化する方向から導かれるループ量子重力理論が提唱され、ブラックホールのホーキング放射などの問題について結論が一致していることなどが紹介されています。
2章では、
まず光速不変とローレンツ変換で表される時空間の現象(特殊相対性理論)について、時空図を用いて観測者ごとに時間の進み方が異なり観測者ごとに同時が異なることや、質量とエネルギーの等価などが説明され、
次に不確定性原理と量子化を当てはめることの数学的表現や、ひもに当てはめたとき測定精度に最小値が存在すること、
さらにひもの時空図上での振舞いやひもの境界条件となるDブレーンについて説明され、Dブレーンとひもとの関係性から様々なものが表現されることが解説されています。
続く3章は、
まず、ひもの方程式を時空間上で表現して、振動をフーリエ展開して分解することで、ひもの挙動が記述され、開いたひもの場合にエネルギー保存則を満たす境界条件としてDブレーンが説明されています。
そして、不確定性を導入して量子化し、振動部分についての交換関係を表す生成演算子と消滅演算子が導出され、ひもの解をエネルギーと質量の関係式に適用して、くりこみ処理により無限級数の解を求め、相対性理論と整合性をとると、時空の次元が26次元となることが説明されています。
そして4章が、超ひも理論の説明部分で、最初に複素解析の解析接続という概念でオーバーラップしている関数系は同じ関数となることから、級数展開の定義域によって関数を変えることで無限を有限にくりこむことができ、ひもの質量とエネルギーの式に用いられるζ関数のくりこみについて説明され、次に、フェルミオンに掛けるとボソンになりボソンに掛けるとフェルミオンになる演算子Qを考え、この演算操作が超対称性を表していて、ひも理論にフェルミオンの状態を対応させるために超対称性を組み込むことで、5つの10次元の超ひも理論ができるようです。
5章はDブレーンにより、実際の世界を構成している素粒子モデルを説明するもので、Dブレーンの交差する付近に素粒子が存在すること、10次元のうちの6次元が極小のトーラス状にまとめられていること、2つのD6ブレーンが交差することで、交差点が3箇所生まれ3世代の素粒子が生じていることなど、Dブレーンとそれにつながるひもから素粒子の生成が説明され、超ひもがブラックホールの性質を持つこと、超ひもの状態量の取りうる範囲から算出したエントロピーが熱力学的に算出したブラックホールのエントロピーと一致することなどが説明されています。

巻末には、さらに正確にあるいは詳しく知る人のために、相対論や量子力学、素粒子論、超ひも理論とDブレーン、などに関する本が紹介されているので、参考になるのではないかと思います。

2009年9月11日金曜日

イラスト「超ひも理論」 を読んだ。

イラスト「超ひも」理論-図解でいっきにわかる!宇宙論の最先端(2002.9)発行を読みました。

すべてのものの基本が「ひも」から出来ているといった「超ひも理論」は、量子論や宇宙論に関わっているし、昨年関連する内容で日本人がノーベル賞をもらったこともあって、以前にも簡単な入門書を読んだり、雑誌やドキュメンタリー番組などで取り上げられたのを見聞きしたこともあったものの、改めてどんなものだったかと思いながらも調べることなくそのままになっていました。先日、何か本でも借りようと思って図書館にいって、ひも理論のことを思い出してもう少し中身を知りたいと思い、関連の入門書などをいくつか借りることにしました。この本は借りてきた本のなかでも超入門といった感じの本です。

この本の構成は、
見開きで1トピックになっていて、どの見開きもページの半分以上はイラストでイメージが表現されていて、下1/3くらいに文章で超ひも理論やそれに関係する話題について説明(紹介)されています。

入門書とはいえ、内容は非常に多岐にわたっていて、
超ひも理論の誕生まで、素粒子論、宇宙論、超ひも理論で宇宙の謎を読み解く、といった4つPartにわかれています。
最初のPartは、超ひも理論とはどんな感じのものかが説明され、
超ひも理論にいたるまでに発見された量子力学が説明する物理学現象(光の波と粒、光電効果、不確定性原理、トンネル効果など)や相対性理論について、
次に、物質を構成する素粒子をつくるクォークやレプトン、バリオンや中間子、さらに、4つの力の概略や、ゲージ粒子に、力の統一論を目指している、現在の標準理論モデルや、理論の状況について、
Part3では、宇宙論として、宇宙の構造や星の一生、定常宇宙論やビッグバン理論、平坦性問題やインフレーション理論を、
最後のPart4では、ダークマターやダークエネルギー、現在膨張が加速しているという第2のインフレーションや無限の宇宙生成、26次元のひも理論に超対称性を取り入れた10次元の超ひも理論やコンパクト化された次元、超ひも理論を用いた宇宙創生期やブラックホール蒸発時の様子、さらに高次元の膜を用いて超ひも理論を統合するM理論まで、

といったように、量子論や宇宙論の主要なトピックが網羅されています。

数式はなくイラストを用いて説明されているので、素粒子とか宇宙とかに興味はあるけど、数学は苦手だし、難しい話は良くわからないといって敬遠してしまいそうな人にも、読み物として楽しめるのではないかと思います。

ただ、トピックスを集めているだけという感じになってしまうのも仕方ないところだとは思いますが、個人的な感想としては、超ひも理論から考える宇宙の始まりやM理論など知らないトピックスもありましたが、これまでに読んだ宇宙論の本などで聞きかじったことを改めて確認したものの、知らないトピックスはそういうものがあるというのわかっただけという感じです。

とはいえ、
この本は、なぜそうなるのか、とか、どのように理論的に導かれ証明されたかということは置いといて、物質や宇宙の成り立ちに関連して、どんなことになっているか、どんな不思議な点があり、物理学者の間でどのように考えられているかといった、キーワードや様々なトピックを知るにはいい本だと思います。

出版社が宝島社で、いろんな分野をざっと捉えるような本や雑誌などを多数出している宝島社らしい本とも思いました。

2009年9月5日土曜日

音楽は自由にする を読んだ。

特に理由これといった理由はないのですが、前回まで月に何回かは観に行った展覧会などの感想と何冊かの読んだ本の感想を書いていたのに、今回は、4ヶ月以上という間隔が空いてしまい、久しぶりのブログ書きです。

坂本龍一著、音楽は自由にする(2009.2発行)を読みました。

内容は、雑誌「エンジン」の企画に基づいていて、編集長によるインタビューで坂本龍一が自ら人生を振り返った、2年以上にわたる27回の連載をまとめたものです。
幼稚園の頃から始まり、育った環境やその頃の様子、さらに、現在につながる出来事や最近のことまで、順を追って書かれています。
人との関わりや出来事への関心などについて、実際には気難しそうな人のようなので、いろいろもめたこともあっただろうと思われるようなことも、淡々と書かれていて、最後には年表まで載せてある坂本龍一の自分史です。
音楽のバックボーンをしっかりと身に付ける一方、ポップの領域でも活躍し、最近では環境関連の活動など多方面で活躍するアーティストの自分史として、そういうものに興味ある人には面白い本なのではないかと思いました。

全体としては、自伝なので、淡々と様々な記憶に残っている出来事が書かれていて、特に訴えかけてきたり、いろいろと考えることを促すようなも感じではない本だと思いますが、
坂本龍一の活動や交友範囲が広がっていく80年代の部分は、その時代のアーティストや文化人との関わりで出てくる人に、私もよく読んだ思想家や作家が出てきて、20世紀の芸術運動ともいえる芸術自身や概念に対する見直しなどといった興味のある部分が重なって、そのような分野の人と関わることは私にはなかったので、うらやましい気もしました。
また、後半では、ニューヨークで9.11テロに遭遇した時のことなどは、かなり極端な印象を受ける部分もありましたが、恐怖がまさに身近におそい、その後もどうなるかわからないといった緊迫感に包まれたときの人の状況について書かれていて、出来事が人に感情や考えに与える影響について、ニュースなどで見聞きしたときのものとは別の見方というか感覚が伝わってくる感じがしました。

坂本龍一はこんな自分史を出すようなことはしたがらないように思っていたので、最初に、あまり気が進まないと書いてありましたが、57才という年齢にもなって、丸くなったように思いました。

2009年4月23日木曜日

真贋 を読んだ。

吉本隆明著、真贋(2007.1発行)を読んだ。

戦後最大の思想家とか、思想界の巨人といわれる吉本隆明氏の本は学生の頃に少し読んだけど、ほとんど覚えていないくて、難解な印象だけど、図書館のエッセイ書のコーナーでみかけ、たまには、そういう人の考えにふれるのもいいかと思いよんでみることにした。

内容は、「善悪二元論の限界」「批評眼について」、「本物と贋物」、「生き方は顔に出る」、「才能とコンプレックス」、「今の見方、未来の見方」の6つに分かれ、

いい面と悪い面は見方により異なるが、明るいのはいい、暗いのは駄目などのように単純に結び付けられて、価値が強制されてしまいがちで、何事にも利と毒があること、一方的な視点で見る危険性などといったことから、

いい作品と悪い作品の見分け方、歩くなどからだの動きを伴う思考が、文章に強弱をつけよいものとなること、身近な感覚を重視することや起源をみて本質を理解することなど批評眼の鍛えかたや、批評する上で心がけているようなこと、日本人の精神活動を考える上では起源は神道にあり、前思春期までの成長過程が性格や人となりに大きく影響するという考え、

いい人悪い人とか好き嫌いはある主題を限定した上ではあって、そこから全人格を判定するようなことをしないようにしたほうがいいこと、人の偉さと役職の偉さが日本では一緒になってしまっている人が多いこと、現代は日常のスピードと円熟のスピードがずれてしまって、才能や感覚の磨かれかたに人間性の円熟味が付いていかず、どっしりした大家というタイプがうまれにくくなっていること、善意の押し売りや相手の状況も考えず、悪いことを指摘しせめるような状況はよくないこと、

外見や性格や気風でも常識的に美点とされる見た目を気にするのは動物性の名残でないかとか、

戦争中は社会事態は国家全体がある倫理観や正義感で戦っている一方、庶民は戦争の緊張感から身近な凶悪犯罪はなくて倫理的だったこと、その倫理や健康というのが押し付けになり極端にすぎるととんでもない事態になってしまうこと。

などのようなことが述べられていた。

あとがきを読むと、ふだん考えたこともない視角からという注文をつけて、問いを提起してもらい、それに呼応することに心がけたインタビューを取りまとめたもののようで、マルクスをはじめいろんなことが言及されたりしているものの、文章自体は読みやすく、深く考えるとなにを言っているかわからない部分も多いが、吉本隆明の考えがわかりやすく説明されているように感じられる本だと思った。

最後のところで、
物事がいろいろな面や角度からみることが、正しく物事をとらえる上では重要だということ、
衣食住足りて、基本的欲求にみたされた現代において、閉塞感があったり人間として劣化しているように思われ、道徳の回復がよのなかを良くするというのは正しいかもしれないけど、そんなことが出来るくらいなら既にできているだろうから、今の状況を越えられるところを考え見つける必要があって、思想や政治システムというものより、人間性や人間の本質が生みだすものがとわれ、いいことをいいというのではなく、考え方の筋道を追って本質をみていき、人間とはなにかを根源的にかんがえる必要があるのではないかというようなことがかかれているが、
漠然とはそのように思っている人は多い一方、いい面悪い面併せ持つ不完全な人間が、現状は悪い面で指弾されてしまい、なぜ、悪いことをしたかとかが深く考えない状況になっていて、閉塞感がただよってしまっているように思った。
基本的な欲望がみたされた、夢のような時代ともいえる状況になったというのに、また悩み始めている人間自身について考えていくことは重要に思い、そのようなことが無意識下で作用して、脳や意識に対する興味や、一方で、芸術への感動、日本人として特に宗教観を持っていないものの、神道から来る歴史の中にいることもあって神社仏閣や仏像に惹かれるのかと思ったりさせられた本だった。

2009年4月22日水曜日

阿修羅展をみてきました。

先日(4/17)東京国立博物館で開催されている「興福寺創建1300年記念 阿修羅展」を見てきました。

その憂いのある少年の顔と三面六臂の独特の姿でとても有名な阿修羅像は、私も好きな仏像のひとつ。その仏像が見られ、同時に興福寺にある八部衆と十大弟子の仏像が露出展示されるとのことで、普段は興福寺までいってもガラスケース越しに、ほぼ正面からしか見ることが出来ない仏像たちを良くみることができるそうなのと、知り合いからチケットをもらったこともあったのでで観に行ってきました。

展示は、3章構成。
第1章は「興福寺創建と中金堂鎮壇具」、興福寺の中金堂基檀中から出土した、創建時に地鎮のために埋納されたと考えられる鎮壇具類を最近の発掘調査での出土品も含めて展示されていて、ケース越しの展示と、水晶筒や唐草文鋺などいくつかのものは、薄型テレビによりハイビジョンでの説明もありました。
第2章が「国宝 阿修羅とその世界」、第1章の展示室から移動していくと途中に、国宝の法隆寺阿弥陀三尊像とその厨子、華原磬(金鼓)、などがあって、次の部屋に入ると右側に十大弟子像が、左側に八部衆像が並んで展示され、その部屋を出ると、阿修羅像がスライドショーされている手のひらサイズの画面画並んだトンネルがあり、それを抜けて進むと阿修羅像を拝顔できます。阿修羅像は高めの位置と、像の近くを回りこんでみることが出来るようになっていました。
第3章は「中金堂再建と仏像」、展示室に入ると、 見上げる大きさの持国天をはじめとする四天王像があり、その先に、さらに大きな薬王菩薩像。その隣には薬上菩薩像があって、他に、釈迦如来像頭部などが展示されています。最後の部屋では、VRシアターとなっていて、興福寺中金堂を再現した場合の様子や、阿修羅像を大型スクリーンで上映していました。

最初の宝物類は国宝だらけで、資料的にもきっと非常に価値の高いもののように思われます。しかし、奈良時代といった昔に、水晶を緻密に切り出したり、装飾を施した杯などをどのように作ったかなど、考えると興味深いところもありますが、展示品自体はそのような技術や歴史的背景などを知らない私には価値がよくわかりませんでした。

法隆寺の所有する阿弥陀三尊像は伝橘夫人念持仏ということで、八部衆や十大弟子像、華原磬は光明皇后が亡き母橘三千代の一周忌供養のために作ったものだそうで、橘夫人とのつながりで特別出品されているようです。
この三尊像は比較的小さいのでケース越しで近寄れないこともあり良く見えませんでしたが、面長で角ばった顔の仏像で、背景などが細かく装飾されているような感じで、隣に展示されていた華原磬も竜の彫刻が優美な感じのする見事な鳴物だと思いました。

八部衆像はもともとはインドの神様なので、阿修羅像の三面六臂をはじめ、角や牙など人とは違った特徴を持っているものが多く、特に迦楼羅像は伝説上の鳥が神格化したものらしく、嘴や鶏冠を持っていて、とても変わった仏像で、この像は以前なにかでみて気になっていたので、見ることができてよかったです。
十大弟子はどれが誰かとかは書いてあるけど覚えられないのですが、それぞれ幼い顔をしたものから落ち着いた感じのものなど異なった顔立ちで、それぞれ、仏の道を歩む仏弟子たちらしい徳の高い僧といった感じがしました。
どちらも台の上に載せられて露出展示されているため、横に回り込んでみることができ、正面のほうからだけでなく、横や斜め後ろからもみることができ、普段はみることのできない方向からもみることができ、よりお近づきになれる感じでした。

阿修羅像は特に今回の目玉でもあり、阿修羅像のみで一つの展示室になっていて、部屋の片側のスロープを下りながら、部屋の中ほどに展示された阿修羅像に近づくようになっていて、やや高めの位置からみることができ、さらに、像の周囲どの方向からもみることが出来るため特に背面など普段見られないし写真等でもあまり見かけない方向からみると、像から受ける印象も異なり、いろいろな感じを受けました。
また、三面の顔は違っていて、正面の憂いのある少年の顔と比較して、両側の顔は表情が抑えられた感じですが緊張感のあるような顔に感じられました。
阿修羅像をはじめとするこれらの仏像はどれも、天平年間に作られたもので、表情が写実的で人間味が感じられました。(八部衆は人間ではないですし、鶏の顔していたりしますが)

中金堂を再建した際に移される予定の仏像たちは、鎌倉時代の作で顔立ちは私のもともとある仏像のイメージに近く、見慣れた顔つきの仏像だと思いました。
四天王は康慶作で、邪鬼を踏みつけ懲らしめている像はその大きさもあって迫力があるものでした。また、薬王・薬上の両菩薩像は3mの大きさとのことでしたが、台座の上に載っていることもあり、かなり大きい印象を受け、2対を並べてみると、薬師寺展でみた日光・月光菩薩像を思い出しました。今回のものは、木製で漆や金箔で仕上げているので、年数をへた痛み方や仏像としての印象はかなり異なりますが、控えめの照明のなかで見上げるほど大きい仏像2対が並んで配置されていて、どちらも荘厳な印象を受け敬虔な気持ちになります。

阿修羅像をVR技術によりデジタル化したものや、現存しない中金堂を再現したものを、ハイビジョンの4倍の解像度を持つシステムを用いて、300インチの大きいスクリーンで紹介していて、画像でみると阿修羅像の模様や細かい表現がよりわかりやすく紹介されていた。

流されている映像をみるだけだと、この場所を良く見たいと思っても次に写ってしまうところがあるけど、最近は解像度も高く、本物を見るよりも綺麗だったりするし、わかりやすく、しかも本物ではそこまで近寄れないようなところまで近づけたり違った見方ができていいと思った。

最初の展示室の宝物とかも、実際のものはガラスケース越しで良くわからないので、映像の展示のほうが印象に残った。
ただ、映像でみると本物を見るというありがたみが、どうも薄くなってしまうし、展覧会を観に行く醍醐味みたいなものが変わってきてしまうように思うけど、、、

平日の開館時間も延長されるほどなので、混雑状況から比較的好いていそうな時間帯の金曜の夕方を選びましたが、結構な人の数でした。宝物類はガラスケース越しにみるのですが人が多くて、少しずつケース越しに進むとすごく時間がかかりそうなので、仏像を中心にみて、閉館時間に近くなった頃に改めて宝物類をみたりして、結局2時間半ほどかけて、展示を3周してきました。


2009年4月19日日曜日

平泉~みちのくの浄土~展を観てきました。

世田谷美術館で今日(4/19)まで開催の特別展「平泉~みちのくの浄土~」を観てきました。

中尊寺金色堂西北檀の仏像十一体が堂内の配置のままに公開されるのと、みちのくを代表する仏像が展示されるということなので、見ておきたいと思い観に行ってきました。

入り口を入ると、平泉が全盛の頃の建物の配置などがわかる古図や中尊寺建立の願文などがあってその先の部屋に金色堂の仏像たちが置かれ、隣の部屋には、中尊寺の大日如来坐像や、岩手の天台寺のご本尊である聖観音菩薩立像や如来立像など、他にも東北のお寺から四天王などの仏像が展示されていました。
他に、毛越寺の阿弥陀如来坐像もあり、通常は常設展示の場所らしい、2Fの展示室では、入ってすぐのところに中尊寺大長寿院の騎師文殊菩薩半跏像と四眷属が置かれていました。
仏像以外には、藤原氏が築き上げた仏教文化の特に浄土思想に関連する当麻曼荼羅図や阿弥陀浄土図などの展示、金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図や金銅迦陵頻伽文華鬘をはじめとする中尊寺の宝物や、藤原清衡の発願により書写された金銀字一切経といった平安時代後期を中心とした中尊寺ゆかりの宝物や毛越寺や達谷西光寺の宝物、平泉地域の遺跡からみつかった平安時代後期の出土品、桃山時代や江戸時代に描かれたみちのく平定に関わる絵巻や坂上田村麻呂や藤原三代画像、平泉諸寺参詣曼荼羅図、金色堂の柱などの復元模型といった、貴重な資料や宝物が多数展示されていました。
また、中尊寺や毛越寺などに伝わっている宝印や版をはじめ、江戸時代や現代まで引き継がれている行事などに使われる品々や衣装の展示もされていました。

展示数としては、宝物類が多く国宝・重文90点以上を含め200点を越えていて、遺跡や平泉の歴史などに興味があれば、かなり見ごたえがあるように思う。

目的としていた金色堂の仏像は、印象より小さめでしたが、照明の関係か思った以上に保存状態が良く、しかも落ち着いた色合いでした。チラシの写真では金色の色味が強い上、良く光っているところと暗いところのコントラストが強くいかにも歴史を経てきた仏像といった印象でしたが、実物を見ると最近になって複製したような感じがするくらい、金色の輝きは控えめでしかも表面が滑らかで驚きました。金色堂内に安置されているときは、あまり近くまで寄れまないと思いますが、今回はケースに入れられていましたが、それなりに近づくことができ、横から見たりじっくり鑑賞できました。
また、騎師文殊菩薩半跏像と四眷属も、金色堂の仏像以上に保存状態が良く、色もはっきりしていて、まるで最近作られたもののようでした。
他に、天台寺の仏像は比較的大きいことや、ノミの跡を残し独特の風合いを持ったものや、素朴な感じの仏像で印象に残りました。
宝物類や遺跡の出土品はあまり詳しくないため、博物館でいろいろなものを見るのと同じ程度には興味深く見ましたが、どういう点がすごいのかなどは良くわかりませんでしたが、鉄樹や金銅五鈷杵など毛越寺の所蔵するものや、仏像のレリーフのような御正体、金銅迦陵頻伽文華鬘などの金色堂堂内具などはあまり見たことのないもので印象深く、金字宝塔曼荼羅は紺地に金字で一切経が宝塔の形で描かれており、信仰の強さや信仰対象としての曼荼羅のありがたさを感じられ、金銀字一切経は展示数も多く、経を大量に金銀字で書写するといったその信仰心などが印象に残りました。
他には、金色堂の柱を再現したものや、須弥檀も復元模型でしたが螺鈿の装飾がされ見事でした。

金色堂の仏像を見るのが主目的でしたが、天台寺の仏像など、印象深い仏像に拝顔することができてよかったです。

2009年4月11日土曜日

人間科学を読んだ。

養老孟司著、人間科学(2002.4発行)を読んだ。

養老氏の本は、バカの壁などが有名だけど、それよりも少し前に発行された本。
引き続き、脳関係に興味があるので、養老氏の本を図書館で探していて目に付いたので読むことにした。

内容は、1章の「人間科学とはなにか」に始まり、ヒトの情報世界、差異と同一性、都市とはなにか、人とはなにか、シンボルと共通了解、自己と排除、男と女、といった、ヒトとはなにかを情報系として捕らえつつ、脳の特性や進化や発生の過程などを踏まえて、養老氏の見解として、途中補足のような文章を交えながら述べられている。

人が知っていることというのは、自分の脳のなかにある「なにか」だけで、情報系としてヒトを見ると、細胞というシステムが遺伝子という情報を利用するように、脳がシステムとして情報である言葉などを利用し、ヒトは単なる物質とエネルギーの塊ではなく、この2種類の情報系がヒトをなしていること。
情報は固定されたもので、それを使うシステムは変化するものであり、都市化はすべてのものを情報として固定化していく社会で、自然はもともと絶えず変化するものであるから都市において排除されること。
言葉はコミュニケーションをとるために、聴覚と視覚の両方に共通する要素を抽出し、外界のものに共通了解性をもたせ、情報として固定したもの。
というようなことが考えの中心にあるようで、固定と変化、同一性と差異、言語というシンボルが強要する共通了解性とクオリア性、といったことについての養老氏の見方が述べられていて、以前読んだ本にも同様のことが語られていて漠然と把握していたこともあって、言語や意識に対する私なりの漠然とした考えと近い感じがして、文章中に注釈のように入れられた補足説明をしたくなる感じがわかるような気がして面白かった。