2009年1月20日火曜日

芸術の神様が降りてくる瞬間 を読んだ。

茂木健一郎 他、芸術の神様が降りてくる瞬間(2007.10発行)を読んだ。


アートと脳の関係などに興味があるので、先日読んだクオリア降臨と一緒に図書館で借りていたので読んでみた。

内容は、BS日テレで2006年4月から9月まで放送された「ニューロンの回廊 ~潜在能力の開拓者たち~」の一部を再構成して書籍化したものだそうで、ミュージシャンで作家の町田康氏、ダンサーで演出振付家の金森穣氏、ジャズピアニストで作曲家の山下洋輔氏、落語家でタレントの立川志の輔氏、コーデノロジスト(芸術、哲学、科学の総合に向かい、その実践を推し進める創業家だそうです。)の荒川修作の5人の、芸術といっても幅の広い分野の第一人者ともいえる人との対談が収められていて、創造の過程やそれぞれの物事に対する感じ方や捉え方などが披露されている。

一般向けの番組での対談が元になっているので、先日読んだクオリア降臨とは違って、読みやすいし面白かった。もっとも、言葉に表しにくいものを表現しようする面がたぶんにあるので、なんとなくイメージが浮かぶだけで、よく考えるとわからなかったり難しかったりする部分も多々あった。
特に、荒川修作氏との対談のように、生命の構築とか有機体や位相に分身、哲学や科学や芸術を現代のように狭いものではなく枠組みを取っ払うような身体感覚に基づいた世界を築こうというような、訳わからない対談もあるけど、それはそれで、荒川修作氏という人のパワーというか人となりが感じられるように思った。

絵を見るのは好きなものの、ダンスとかジャズや落語など、普段はあまり興味を持たない分野の人の対談が多かったが、第一人者ともいえる人の話は、物事の感じ方や捉え方などに日ごろ注意深く観察しているようなところが多く、個性的である一方で共通するようなところもあり、いろいろな見方というか考えを聞けたように思った。

例えば、小説の場合に言葉を配置する技術があったり、共通の認識領域とその外側を縫うようなものを考えたり、ダンスの場合には肉体の動作を思い通り動かす技術や、どこかから見るように連続的に意識することなど、他の分野でも、芸術の創造にはベースとしての技術や経験の蓄積が必要だったり、それを外部やいろいろな視点から見るようなことが重要なのだろうというのを改めて思った。

他にも、オリジナルかどうかより、今やる価値があって、自分たちにとって新しいかを模索するだけ、という意見など、いろいろと考えると面白い見方があったり、ミラーニューロンや報酬系の話など、脳科学の観点からみるとどうなるかという話も適宜混じり、芸術を創造することについての手がかりのようなものが感じられるような気がして良かった。

2009年1月17日土曜日

クオリア降臨 を読んだ。

茂木健一郎著、クオリア降臨(2005.11発行)を読んだ。

このところ、読書量が少ないので久しぶりになってしまったけど、引き続き興味のある脳関係ということで、数年前の発行だから中身はさらに古いけど、茂木健一郎氏が書いたものということで、読んでみた。

内容は雑誌、文學界での2004年4月号から1年半近く連載された「脳の中の文学」を順番や一部加筆修正して、まとめたものだそうです。

文学の味わいも無数の神経細胞の活動からなる脳内現象として、意識内にクオリアとして立ち上がるものといった概念が全体を通して感じられるものの、この本では、脳科学という観点はそれほど明確ではなく、有限な生のなかで無限を想起することや、愛情や体験、笑い、現代の文化状況、感情の衝突といった様々なことがらについて、芸術作品や漱石やドストエフスキーなどの文学、小林秀雄などの評論などを参照しながら、文学や芸術を表現することや認識することに関する様々なエッセイといった感じだった。

言葉や色などの共通認識も互いに同じように思っているだろうという前提のうえで、解釈や批評が行われるけど、そもそもクオリアは私秘的で一致しているとは限らないし、芸術のような立ち上がるクオリアの1回性に関する話は、そのように思うし興味深かったものの、前提としている文学や芸術的知識が足りないこともあって、言っていることが理解できない部分が多々あった。
そのため、読み終えたときになんとなく、いろいろな考えに対する新たな観点を得られたような気がしたものの、こういう考えもあるのかとかといった具体的な印象が残らなかった。
私の文章の理解力の足りなさによるところだろうが、、、

2009年1月13日火曜日

奇蹟のエコ集落 ガビオタス を読んだ。

アラン・ワイズマン著、奇跡のエコ集落 ガビオタス(2008.12発行)を読んだ。

このところの流行に乗っているような気がして少し嫌なのだけど、農業などの自給自足や、太陽エネルギーなど環境にやさしい、持続可能な生活に興味が向いていて、環境分野のところで新刊を観ているうち、コロンビアの不毛な土地で、食物からエネルギーまで自給自足を目指し、環境技術を開発しながら、持続的生活を目指した集落についてのこの本に興味を持った。また、著者のアラン・ワイズマンは、人類が消えた世界という、人類が突然いなくなったとしたら、建物や文化的なもののほとんどは数万年のうちに消えるが、化学物質や放射性物質などは影響を与え続け、そのような環境下で生態系はどうなっていくかといった、人類がいなくなった未来を予測した本を書いて世界的ベストセラーになっているようで、読んでないのでわからないけど、そのような著者が書いた本でもあるので、読むことにした。

内容は、理想的な文明を設計しようと、人類の増加により今後厳しい土地にも住むことになる可能性が高いことと、条件の厳しい土地に作れれば他でも可能だろうということで、コロンビアの首都ボゴタから東に離れた、政情も不安定で不毛な土地に、科学者や学生などを巻き込み、水耕栽培や太陽エネルギーを活用する環境技術を試行錯誤で生み出しながら、持続的で自立的な社会を目指す集落ガビオタスを形成しコミュニティとして維持してきたことについて書かれている。
ガビオタスの成り立ちや、機能し続けるために必要な資金の獲得などの現実的な問題、製造時のエネルギーやコストに保守の必要性なども含めた環境技術の検討の様子、国連やNPOなどとの関わりなど、維持していく上での困難などを乗り越えながら、設立者や関わった人々の努力やなどが書かれたノンフィクション。

自然と共生しつつ、技術を排斥するのではなく、サスティナブルな技術を開発しながら広げていくエコ集落、このところの経済破綻やエネルギーや環境問題から、こういった集落は再び注目を浴びるだろうし、私もそういう生活は興味がある。しかも、条件の悪いところで出来たのなら他ではもっと用意に持続的な社会ができるのではないかとも思えるし、現状の急ぎすぎて、規則やお金などで縛られ精神性が失われてしまっている社会ではなく、人がもっと幸福感を感じながら生活できる社会を実現するうえでも、参考になるような気もする。

ただ、技術開発は試行錯誤的で、自前で何でも行いいろいろ工夫するのは楽しいとは思うけど、発展途上国の文明化への寄与という点ではなく、人類が必要とする将来の文明形態がどうなるかという観点で考えると、例えば、量子力学の実験的検証設備を作るような先端科学技術とはかなりの開きがあるし、つながっていく方向性も見えなくて、人類全体の発展という点ではそのような社会でいいのかとも思ったりした。(最も、そういう比較をするつもりはないのだろうが)
現在の科学技術の発展速度が、環境などを無視していて破綻するから、破綻しない範囲で技術進歩を進めていけばいいという考えや、人口の多くは日々の生活を楽しめればいいのだから、自然と共生した穏やかな生活をするような社会を少しでも増やしていけばいいという考えもあるのだろうけど、なんか、完全には賞賛し切れない気がした。
ただ、いろいろな価値観が世界に伝わるくらいに確固として成立するのは、いいことだと思うので、これまでと同様、人的、金銭的、政治的危機を乗り越えて、ガビオタスの社会が持続していくことは重要だとは思った。

2009年1月12日月曜日

光の指で触れよ を読んだ。

池澤夏樹著、光の指で触れよ(2008.1発行)を読んだ。

大きな電機会社で風力発電の専門家として働き、高校生の息子森介は離れた寮でくらしていて、小学校に入る前くらいの娘がいる林太郎。彼の不倫を知って、その妻アユミが娘をつれてヨーロッパに行ってしまい、互いに子供のことや、生活ひいては仕事や人生そのものについて、農業やパーマカルチャーなど、入ってくるお金で縛られるのではなく、もっと持続的な生活や精神性の高い生活を目指し始めるといった感じの内容。

最近の金融危機で、農業の重要性が、LOHAS的な意味からだけでなく、経済効果も含めて語られ始めていて、かなり流行りの様相を呈し始めていて、逆に将来うまく広がらなかったりして、反動がくるような感じもするけど、お金でいろいろなものを計ってしまいがちな世の中に対し、もっと、他にあわせるのではなく、個性を発揮しつつ互いを認め合えるような、やわらかいつながりのコミュニティー的な生活や、精神性を高めあえるような生活、何も与えず何も増やさず植物などの協調で、持続的に自給自足するパーマカルチャーなど、人昔流行ったニューエイジ的な考えが、かなり入った小説だと思う。

自給自足って、社会を信用しないでうちに引きこもっているみたいとか、パーマカルチャーをわがままな農業と言ってみたり、単に心の開放や個性の発揮や精神性の向上などのような考えに迎合するのではなく、お金はそもそも、物々交換の不便さを解消する手段として出てきたことや、コミュニティが始めた地域通貨が結局周辺に広がらずうまくいかなかったことなど、常識的な考えからの見方や、現実的な問題も含めて語られていて、理想的すぎて話しにならないという感じではなかった。(小説なので理想的だったり空想的だったりしてもいいのだろうけど)

林太郎とアユミは、二人とも離れた別々のところで、それまでの会社から給料を受け取り生活していく価値観から、自給自足など農業的な価値観を大切にするような方向に変わっていくが、
林太郎は技術者で(もともと風力発電など環境に関係していたが)、考えも理知的で論理的、妻のアユミは、より精神性が高い。・そのため、同じような価値観にいたる仮定での周囲とのやり取りの様子が異なり、単なるLOHAS思考の賛美に陥っていかない感じがして良かったと思う。(最終的にはシュタイナー教育やパーマカルチャー賛美の方向なのだけど)

この人の本は、これまで読んだものは、もっと詩的な感じがしていたけど、今回は精神性という点で目指す方向は詩的だけど、文章的にはいままでよりは固い感じがした。(読みにくいわけではなくて、これまでの詩的で情緒的な文章から、もう少ししっかりした描写をする文章という感じ)

基本的に技術者というか研究者で、会社で働いてそれなりに地位を作り金をもらうという生活にどうも気が乗らない私にとっては、かなり共感する部分の多い小説だった。

レオナール・フジタ展

年末年始とブログの更新を怠っていたので、昨年のことになってしまったけど、12/30に、上野の森美術館で行われている、「レオナール・フジタ展」(上野での会期は1/15まで、この後福岡と仙台を巡回)を観てきた。

展示構成は、4つに区分され、建物の1階部分でに第1章として、1910年代後半のフランスに渡った頃の初期の作品からスタイルを確立した20年代後半頃までの人物画や風景などが、
第2章として、今回のメインともいえる大作、「ライオンのいる構図」「犬のいる構図」「争闘I」「争闘II]の連作2つと関連する習作、人物や動物に構図の共通性がみられるパリの建物内の壁画に使われていたものや、未完の作品「馬とライオン」など、大作に関連した作品が展示があり、他に猫や動物の絵も展示されていた。
続く建物の2階からが第3章として、晩年をすごしたアトリエを中心に、フレスコ画をはじめとしたいくつかの作品に加えて、アトリエの様子が再現されていたり、パレットや筆などから、アトリエで使用された箱や皿などの雑貨を自分で作ったり装飾したものなども展示されていた。最後の4章では、洗礼を受けキリスト教徒にまでなった、レオナールフジタの宗教画を中心に、普段はギャラリーとして使用している隣?の建物には、フレスコ画からステンドグラスや細部の装飾まで自分で手がけた平和の聖母礼拝堂の模型や、ステンドグラス、壁画やそのための習作などが、展示されていた。

フランスに渡って数年後の初期の人物像は、輪郭線がはっきりした装飾的というか面的な作風だし、風景は色調の抑えられた、さびしくて憂鬱な感じで、中にはムンクの絵のような空や地面が揺らいでいるような感じの絵もあり、藤田嗣治としても、レオナールフジタとしても、まとまった展覧会を観たのは初めてだったので、初期はこのような絵を描いていたことを始めて知った。
もっとも、その数年後には、細い描線と乳白色の宇宙人のような顔をした作品を描いていて、大作を描いた20年代後半につながる作風が見られ、晩年の本の挿絵のような感じの、カラフルな幻想的な細密画(個人的な印象)まで続く、細い線と白っぽい印象の独特の画風の作品がほとんどのようだけど。

個人的には、晩年のものよりも、人物や猫などの代表的な作品も展示されていた、20年代後半から40年代頃の人物や動物の絵がいいように思った。晩年の作品は、細かく書き込まれる一方で肌などは滑らかに塗られ、シュールレアリストっぽい感じもして、面白いのだけど、絵としての見ごたえというか、ひきつけられるような独特の感じというのが弱いように感じた。それと、どことなく不気味で幻想的な感じの人物像はフィニーの絵を思い起こすような感じがした。
最も、今回、いろいろな作風が展示されているものの、他にもいろいろな絵があるだろうから、なんともいえないが・・・

この美術館はそれほど広くはないものの、空間を有効に使って展示されていて、隣のギャラリーも今回は会場の一部となっており、初期の作品から、今回の目玉とも言える、争闘や構図といった大作と関連した習作などや、晩年すごしたアトリエの様子、フレスコ画から装飾まで手がけた、聖母礼拝堂の様子などが模型や、再現したものを含めて展示され、興味深い構成となっていたのに加え、初期から晩年のさまざまな作風の作品が見られて良い展覧会だった。

最も、今回の展示は、宣伝用のチラシやWebページからは、初公開を含む2大連作を目玉に、資料や関連する作品の展示がされているようだったが、他に作品の紹介があまりされていなかったので、資料や習作が多いだろうと思い、大作以外の完成した良品を見ることをそれほど期待していなかった分、いい印象を持ったところもあるかもしれない。

今回、ブログに感想を整理するのが観に行ってから10日ほど経ってしまって、見た直後に比べると、だいぶ印象が薄れてまった感じがした。図録を買っていたので、観ていると、いろんなことを思い出せたけど、最近はすぐに印象が薄れてしまいがちて、細かいことはすぐに思い浮かんでこなくなる。
記憶だけを頼りにしているので、Webをみて思い出しながら書いたものの、整理するならやはり早めにするようにしようと思った。