2008年12月29日月曜日

年収防衛 を呼んだ

森永卓郎著、年収防衛―大恐慌時代に「自分防衛力」をつける (角川SSC新書)(2008.11発行)を読んだ。

年収崩壊に続いて角川SSCから出版された本。基本的にまじめでいい人そうだし、ニュースなどにだまされないようにという観点でテレビとかで話を聞く分にはいいんだけど、新版 年収300万円時代を生き抜く経済学 (知恵の森文庫)など、いくつか本を出しているのは知っていたけど、本の内容としては、感覚的な話でいい加減な感じがしたので、買ってまで読もうとは思わなかったのだけど、友達が貸してくれたので読んでみた。

タイトルは年収防衛だとか、自分防衛力をつけるとかとなっていて、
章立てとしては、年収崩壊から年収防衛へ、年収防衛時代の働き方、モリタク流発想術、資産運用術、節約術、といった感じ。

どちらも、特に目新しいことが書かれているわけでもないし、章立てと内容の対応が明確でないというか、現状と自分の考えと方法がごちゃごちゃになっていて、全体的に、思いついたことをただ並べて関連するものをまとめているだけのように感じた。
この本自体が、ネットや雑誌に連載した記事を加筆修正してまとめているからだともおもうけど。

とはいえ、主張としては、
経済的合理性を追求し、弱肉強食の社会を勝ち抜こうとするのではなくて、
適当な距離感を保ち、お互いの愛情に満ちた社会を目指し、そこそこ働きそこそこ稼げばいい
ということのよう。

年収防衛とか、自分防衛力っているのは、年収防衛時代の働き方のところで、距離感を磨けとか、新卒で正社員になれとか、転職のペナルティを知らせているところや、後半の、モリタク流発想術でビジネスチャンスを見つけて、モリタク流資産運用術や節約術で、現状を乗り切れということ?という感じ。

本を売るために編集者などの意見が反映されるのだろうけど、売れそうなタイトルをつけて、他での連載記事をまとめて本にしましょうといわれて、かかれた本のように思い、気楽に引き受けてタイトルも気楽に決めてしまっている感じがするし、タイトルから期待される内容と中身があっていないのではないかと思った。

とはいえ、基本的な主張や、
バブルがはじけこれからの方向は、まじめに働く人が報われるまっとうな時代、
一生懸命働きたい人は働けばいいけど、多くの人はそこまで望まない、
金融業の給料は、海賊のような略奪行為で儲けていて、まじめに働き、互いに利益を配分していたら、ありえない金額で、バブルの崩壊と共に正常化していくべき、
芸術が技術に結びついて付加価値を生み出すようにする、
などの考えは賛成。

ただ、それを実行する手段については、自分を首相にしてもらえればそういう社会を実現するなど、あまりに楽天的過ぎて、実現性が感じられないと思った。
ようは、みんながお互いを助けあう幸せな社会を作ろうというのと同じで、だれも反対しないけど、どうするのという感じ。
もっとも、雇用を切るのではなく、ワークシェアし、トップの給料や配当を増やさずに、痛みを分け合うようにすればいいというような、方法も提案しているけど、そうなるようにみんなの考えが変わるように、法案を作る必要があるだろうし、考えを変えていく必要があるから、そうい考えを広めていいこうという話ならいいのだけど、それは年収防衛とか自分防衛力という話ではないし、そういう社会が本当に望まれるのかも、また別問題だと思った。

それに、年収300万円でも、十分生活を楽しめ、それには、ちょっとした工夫や節約も必要といっていて、
夢はある程度までやってみて、無理ならさっさとあきらめるとか、
こつこつ節約したり、無駄を省いたり、小銭を稼ぐなどして、必要なだけのお金を得る方法などをあげている。

そもそも、そういうことがみんな出来れば問題ないが、夢をあきらめきれない人や、こつこつとした節約ができない人がほとんどだと思うし、ある意味お金はいろいろなことの尺度になるから、要領よく稼いでいる人がいれば自分もと思いがちで、結局、みんながそこそこ働いてそこそこ幸せに生きるというのは難しいと思う。

イタリアやオランダのようにワークシェアして、働く時間を減らすように政治が持っていくというのも意見としてはあると思うけど、本当にそのような社会で機能できるかは、文化や宗教的な背景や価値観が異なるので、日本の社会の方向が本当にそれでいいかはわからないとも思う。

それでも、基本的な主張のようなことを、みんなが思えば幸せになるんだから、この考えを広めたいっていうのもあるのかもしれないけど、それって宗教の押し付けと構造は一緒で、やはり無理があると思った。

個人的には、好きなことを出来る範囲で自由にやっていくという、私の考えとほぼ同じ方向なので、いい意見だとは思うし、文中で参照された本、優雅な暮らしにおカネは要らない―貴族式シンプルライフのすすめのような価値観はいいと思う。
こちらの本のほうが、下手に年収防衛などといったタイトルではなくて、直接的でいいし、身の丈にあったお金(少ないお金)で生活を楽しむという価値観に主眼が置かれていていい本だと思う。
ちなみに、この本は森永卓郎氏が賞賛していて、特別序文を寄せていて、特に気にはなならなかったけど、先にこの年収防衛の本を読んでいたら、読まなかったかもしれないので、順番が逆でよかったと思う。


ニコンサロン

先日、蜷川実花展を見た後、新宿にでてニコンサロンによってきた。

ニコンサロンでは、大丸 剛史「東京タワー」、ニコンサロンbisでは谷井 隆太「ものみゆさん」というタイトルで展示を行っていた。

ショールーム側から入ったので、先に、「ものみゆさん」の方をみた。
こちらは、行楽地を撮影したもので、名所や代表的な場所をそのまま、全体的に遠景で露出をオーバー気味で撮影しているのか、明るくて軽やかな、平和で朗らかな感じのする写真だった。
東京国立博物館の本館や、皇居の二重橋、などの名所や、鶴岡八幡宮や横須賀など、私の良く知っている地域が多かったので、写真のよしあし以前に親しみを持てた。
(こちらは日本カメラ12月号にも掲載されているらしいです。)

「東京タワー」のほうは、写真展のタイトルを知らず、展示順から考えると逆方向に観ていったので、東京タワーというタイトルだとは知らず、都内のビルやマンションが作る光景を切り取っている写真だなと思いながら観ていた。
最後に、展覧会にあいさつを読んで、タイトルが東京タワーと知り、断片や写りこみでも、東京タワー全体をイメージできるほど、
東京タワーが日本や東京のシンボルとして強くイメージが培われていることなど、頭の中でのイメージとの関連などを意識した作品らしく、
東京タワーをタイトルとしながら、直接撮るのではなく、ビルの隙間から一部見えていたり、ビルの窓への映り込みなどで、東京タワーをイメージさせることで、部分や影から東京タワーの持つイメージが頭の中で再構成されることを狙った写真ということのようだった。
そこで、改めて観てみると、先ほどはわからなかったけど、窓に東京タワーの一部が映りこんでいたり、ビルが鏡のようになって東京タワーを写していることがわかって、面白かった。
でも、タイトルをみないと東京タワーが写真の中にあることに気づかないものが多かったので、写真家の意図を写真だけからは、汲み取れなかったということにもなるけど。



2008年12月27日土曜日

蜷川実花展を観てきた

先日、森山大道とミゲル・リオ=ブランコの写真展をみて、大判の写真の迫力や、鮮やかな色彩の写真もいいと思って、行かずに終わってしまいそうだった蜷川実花展を、昨日(12/26)観に行ってきた。(東京オペラシティーアートギャラリーで12/28まで、その後、岩手、鹿児島、西宮、高知を巡回)

最近、名前を聞くというか、さくらんで監督デビューしてたし、春先のアートフェアでも人気があったようだし、確か蜷川幸雄の娘だったような気もするし、なんか流行りに乗っかる感じだけど、まあ、写真そのものは、見た目が鮮やかな色彩にあふれてて綺麗だったの良かった。


展示は、エントランス、花、初期、金魚、
人、旅、造花、新作、ポートレートの9つのコーナーに分かれていた。
エントランスから受付を過ぎると花の部屋で、代表的な作風ともいえる、花の写真が飾られていた。大きく引き伸ばされた花は、一部の拡大だったりもするけど、花弁や空が作る、赤、黄、緑、青を基調として微妙に変化した色合いで、どれも、綺麗だった。
次の部屋はモノクロのセルフポートレートなど、比較的初期(といっても95年以降だからまだまだ新しいかも)のもので、この中に初めて蜷川実花という人を知った写真集Pink rose suite(写真集の名前は忘れていたけど、写真のほうで見覚えがあった)からの写真などがあり、
金魚の部屋では、照明を落とした部屋にひとつの壁面には金魚の映像が流れ、残る部分も金魚などを写したものが展示されていた。
旅の部屋では、いろいろな場所で取った風景や子供などが展示されていた。フィルムくらいの小さいサイズの写真がたくさんテーブルの上においてあったりもした。
人のコーナーでは、壁面にキャノンのプリンターで打ち出した写真が貼られていたり、いろいろな写真集などの写真が飾られていて、こちらも、鮮やかなものが多く綺麗。
造花のコーナーは照明を落とした暗い部屋で、壁面に大きめのスライド(ガラスに印刷?)をバックライトで照らした展示で、暗闇の中で、墓標に供えられた決して枯れない花という、鮮やかな色彩と死の対比を強調しているような感じ。
新作のコーナーは、いろいろな大きさで、いろいろな主題の写真が壁面に多数展示されていて、少し雑多な印象。
最後に通路沿いに、多数(200名を超えるそう)のモデルや役者、アーティストなどの写真が通路の片側を埋め尽くすように張られていた。

写真というには、大判のポスター状のものや、壁面にもプリンターで打ち出したものが貼られていたり、裏から光を当てたスライド状のものやビデオ作品が流れて いたり、多数の小さな作品がおかれたもの、暗い部屋で光らせた展示など、通常(通常が良くわからないの私の持つ写真展のイメージ)とは異なった演出のされ た展覧会だった。

大きく引き伸ばしているために、鮮明さにかけるものもあったけど、全体的に、色彩が鮮やかで、人物も飾りつけというか演出された感じのものが多く、綺麗なものが多かった。

ただ、ゆっくりと鑑賞したくなるような作品はあまりないような気がした。

色は鮮やかだし、綺麗なので、ビビッドな内装のダイニングバーみたいなところの壁を飾るにはいい感じ(ビビッドな空間は、なんか疲れるからくつろげるような雰囲気ではないけど)。

ぱっと目を引くものは多いのだけど、じっくり見たくなるようなものは少ないのが残念だった。
じっくり観たくなるかとうい点では、花や金魚は目を引くしその色彩の迫力に圧倒されるものの、じっくり見たいという感じではなくて、旅先での人や風景が個人的にはいいと思った。

全体として、写真そのものから、何か訴えかけられるというか、何か印象深く惹きつけられるものは少なくて、時代を超えて残るようなものなのかはよくわからないというか、将来的にはどうなのかいう感じもした。
ファッション誌などで良く取り上げられたりするからというわけではないと思うけど、見た目の奇抜さ(奇抜というには、綺麗なので綺麗さ?)とかでなにかに惹きつけられるのと同じ感じを受け、見映えはいいし、目にした時に飛び込む印象は強いと思うので、さらに引き込まれるような味わい深さというか、奥深さが感じられると、いいのにと思った。
多少、黒いものをいれたりとか
とげのようななにかをかくし持っているようなものも感じられるけど、少しわざとらしかったり、なにか不自然さも同時に感じるので、それがなければ、味わいぶかくなるのかもしれないけど。

そんな感じで、けちつけながらも、それなりに綺麗な写真がみれてよかった。



2008年12月23日火曜日

森山大道 ミゲル・リオ=ブランコ 写真展を観てきた

東京都現代美術館に、「ネオ・トロピカリア:ブラジルの創造力」を観たあと、同時期に行われている企画展示、「森山大道 ミゲル・リオ=ブランコ 写真展」を観てきた。

こちらも、日本ブラジル交流年の関連事業だそうで、森山大道がサンパウロを、ブラジルを拠点に活動するミゲル・リオ=ブランコが東京を撮影し、その写真および、ビデオ作品が展示されていた。

写真は興味があるものの、あまり詳しくなく、森山大道の名前は聞いたことがあるというか、写真美術館で展覧会があるのを見かけたりしたことがあり、きっと有名な写真家なのだろうと思うくらいで、どういうところがいいのかとか特徴も知らないし、ミゲル・リオ=ブランコについては何も知らなかったので、ほとんど予見のない状態で素直に見れたように思う。

森山大道はサンパウロの街中やそこを行き交う人や棲む人などを撮影していて、白黒の写真はサンパウロの雑多な雰囲気や、人々の思いなどをある瞬間切り取った感じのする作品だと思った。

一方、ミゲル・リオ=ブランコは日本的?というか、変わったものをアップで撮影したり、いろいろなものをコラージュしたような写真で、非常に鮮やかな色にプリントされ、その大きさと共に圧倒される感じの作品が多かった。魚や、よろい、神社のような外から見た日本的なものなどもあるが、形それ自身造形的に綺麗だったり不可思議だったりするものを、非常に鮮やかに捉えている写真だと思った。

それぞれの写真を撮った場所などをビデオ作品としてまとめられていて、それも興味深く見ることが出来てよかった。

展覧会カタログは完売していて、写真に興味がある人には人気のある展覧会だったのだろうと思う。


ネオ・トロピカリア ブラジルの創造力 を観てきた

東京都現代美術館で、1/12まで行われている展覧会、「ネオ・トロピカリア:ブラジルの創造力」を観てきた。

BRICSなど経済面での発展で近年注目されていて、ブラジル移民100年ということもあって、書籍、雑誌、テレビ番組などで、移民の苦労や、その後のことなどの情報を耳にする機会が最近多かったように思う。この展覧会も、移民100周年、日本ブラジル交流年を記念して開催されているよう。

カーニバルやサンバとかサッカー、熱帯雨林、などといった、他の要素から、明るくて陽気なイメージはあるものの、ブラジルのアートは、まったくといってよいほどイメージがなく、展覧会の概要などをチラシやWebで見て、明るい感じのブラジルアートをみてみようかと思って、観に行ってきた。

ブラジルでは60年代から、独自の文化創造を目指し「熱帯に住む者の文化のオリジナリティ」をうたった、トロピカリアという芸術運動が興り、トロピカルな色彩や生きることはアートそのものといった考えが反映したような、陽気な感じの作品が見られた。

ただ、そのような背景に加えて、最近のアーティストが多いこともあって、体験そのものがアートというような作品が多く、参加して楽しめる人はいいけど、遠慮がちというか離れて見てしまうし、なにかのイベントやパフォーマンスとなにが違うんだろうとか思ってしまい、あまり興味が持てないものも多かった。

個人的な好みが平面作品なので、あまり、インスタレーションとかビデオ作品には興味を持たないのだけど、今回は、あまりにいろいろな作品を見たこともあって、アトリウムに設置されたインスタレーションやビデオ作品が印象的だった。

アトリウムのインスタレーションは、エルネスト・ネロの作品で、天井からぶら下げた薄いストッキングみたいな布の中に、ソバがらやスチロールの粒のようなものを入れて、途中の重みで垂れ下がったようなものが多数ある作品で、大掛かりだけど有機的な柔らかなものが空間を侵食しているような感じで、不思議な空間を作っていた。
まあ、イベントなどで一時的に作られる変わった空間デザインとなにが違うっていう話もあるけど、2Fや3Fから見下ろしたり、B1Fから見上げたりすることが出来て、その雰囲気から伝わってくるイメージなどがなかなか印象的だった。

ビデオ作品ではアナ・マリア・タヴァレスという作家の作品で、細い柱の周りをスチールの穴あき板が多数、工事現場の足場のような感じで宙に浮いているような映像が続くもので、部屋に入ると両サイドの大きなスクリーンがあって、その両者に遠くまで続くような映像が流れていて、水中にいるような、宙にうかんだような感覚がする作品。
ビデオ作品は大抵、映像の示す内容や時間的変化とか物語性があって、全体を見なくてはいけない感じのものが多いので、平面作品が好きな私としては、あまり好きになれないのだけど、純粋に映像が綺麗だと思えるものや、視覚から伝わる感覚に訴えかけるようなものは、わりと楽しいかもしれないと思った。

他には、日系1世のトミエ・オオタケの青い火の玉みたいなものなど、抽象的な絵はなかなかいいと思った。個人的には好きなものではないけど、オスジェメオスの作品がなんとも不気味な感じもするのだけど、印象に残った。

2008年12月12日金曜日

近代美術館の 小松誠 展

近代美術館に展覧会を観に行った感想の続き(2Fのスペースでの展覧会の感想)です。

近代美術館の2Fのギャラリー部分では「小松誠 デザイン+ユーモア」展が行われていた。

小松誠は、磁器をはじめとするクラフトデザイナーだそうで、名前は知らなかったのだけど、
紙袋をそのまま形にした磁器や、くしゃくしゃっとしたタンブラーなどは、なにかで見かけたこともあり、似たようなものかもしれないけど、時々セレクトショップみたいなところで見かけるように思う。

ちなみに、楽天でも同様の小松誠デザインの製品を売っていた。
クランプルワイン-S 


インテリアショップや器などの店でときどき、いい感じのデザインのものとかを見かけることもあるけど、こうして、美術館でまとめて展示されると、また別の美術品の趣。
実際、デザイン的にいいと思っても実用には不便なものとかも多いから、その場合オブジェとして美術品の正確が強いと思うけど。

くしゃくしゃとした、代表作らしい、クリンクル・シリーズの磁器やガラス作品以外にも、ティーポットやカップ、一輪挿し、ドアハンドルなど、いろいろなものが展示されていた。
どれも、磁器やガラスの持つ、滑らかで繊細な感じで、シンプルな造詣。

ミニマルなデザインが冷たい感じになりやすいところ、クリンクル・シリーズは皺が寄ったような造詣で、柔らかいイメージになって、欲しくなる感じ。

他にも、木の根をイメージした一輪挿しや、何に使うか良くわからない、小さい枕のようなものや、マグリットやダリの作品をモチーフにしたものなど、副題にあるデザイン+ユーモアというのがわかるような作品が展示されていて、面白かった。

ここは、美術館の中の一部のスペースなので、それほど広くはないけど、前回来たときは、ここで、「壁と大地の際で」という展覧会を行っていて、その展覧会も結構よかったし、スペースが限られている分、テーマが明確になるのか、あるいは企画展ほど収入を気にする必要がないからか、入場料に対して満足感が高い。(ここ2回だけで判断できるわけはないのだけど)

小松誠デザインもの

Lemnos(レムノス)「CRINKLE(クリンクル)」


ceramic japanNEW CRINKLE SUPER BAGMサイズ


【一人でも美味しい酒の飲み方があります】遊器・盃(S)


【高級な国産セミクリスタル製品です】小松誠/ポ-セ8タンブラー

近代美術館に行ってきた。

国立近代美術館に、展覧会を観に行ってきた。

今回は、展覧会を見逃さないように出かけたというより、何か観に行こうと思っていて、近代美術館で行っている展覧会は見てなかったので、所蔵作品もいいものが多いから、前回のときとは展示も入れ替わっているだろうと思い観に行ってきた。

行われている展覧会は、企画展「沖縄・プリズム 1872-2008」、所蔵作品展「近代日本の美術」で、2Fでは「小松誠 デザイン+ユーモア」展を行っていた。

企画展は、琉球王朝として独自の文化を持つ沖縄、今回は沖縄の独特な文化というよりは、1872年に琉球藩設置によって、日本に編入されて以降の近代のうねりのなかで、この地に誕生し、生成しつつある造形芸術を検証する試みだそうで、沖縄出身の作家と本土から沖縄に向かった作家を織り交ぜ、内側の視点と外からの視点の違いを意識しつつ、様々なジャンルの作家の「沖縄」の作品により、沖縄という場所の意味と潜在力を問い、発信される未来の創造活動へのつなげることを目指しているそうです。

展示構成は3つに分かれていて、

第1章 異国趣味(エキゾティシズム)と郷愁(ノスタルジア) 1872-1945
 日本の版図に入ってからの沖縄がどのように見られ表現されたかを見せるもの
第2章 第2章 「同化」と「異化」のはざま 1945-1975
壊滅的な被害を受けたあと、米軍統治したでの軍事基地化、それに対する抵抗と復帰運動などを経て、日本復帰と沖縄博に象徴される本土資本流入など新たな日本化の仮定で、再度の日本への同化を異質性のもとに捉えなおすようなもの。
第3章 「沖縄」の喚起力
歴史・社会的な文脈ではなく、沖縄という場所の意味や可能性を、時間・空間的な枠組みを取り払って、より開放的な、多様な視点を織り交ぜたもの。

となっていて、
近代以降現在に至る歴史の上で、米国の支配下にあったり、本土復帰後も、軍事基地問題が続いていたり、いろいろな文化が否応なく入ってくることによって、互いを異質なものとした衝突は当然大きいのだと思うし、そういう衝突から新たな価値観や感覚の芸術は生まれてくるので、単に独自の文化を紹介するのではない視点はいいと思った。

ただ、個人的には、歴史自体にはあまり興味がなくて、絵画でもそうだけど物語性とかより、そこに描かれた形や色などに感動しがちなので、書籍や雑誌などの社会的あるいは文化的資料のような展示はあまり興味を持てなかったし、様々なジャンルを見られるのはよいけど、写真や映像作品が単なる記録ではなく、芸術作品としてどの程度すばらしいのかが良くわからず(木村伊兵衛の写真などもあるので、見る人がみればわかるのだろうけど)、沖縄に関連したものが集まっているという点では、流れがあるものの、企画展をみているというより、どこかの美術展を観に行ったときのような、ここのつながりのわかりにくい展覧会に思えた。

作品的には、鳥海青児、藤田嗣治、岡本太郎、木村伊兵衛、東松照明といった有名作家の作品もあったけど、個人的に良いと思ったのは、

与那覇大智の作品。

与那覇大智の作品は大画面に赤紫から青っぽい感じの光の大きなうねりというか波のような感じの作品で、抽象表現主義的な大画面に色がうごめく感じだけど、なかなか良い感じだった。

安谷屋正義の塔や、陶器の作品で、國吉清尚の華器や世紀末の卵
圓井義典の地面を拡大撮影して、緯度と経度がサブタイトルになっているものとか、
山城知佳子のビデオと写真?からなる作品も、ビデオで延々と流れる息遣いの音と共に印象的だった。ただ、写真のほうで口の周りに藻(アーサだと思う)がへばりついているところは気持ち悪くて、なければもっと良かった。(タイトルが「アーサ女」だし、それが重要なのかもしれないけど)

安谷屋正義の作品以外はどれも最近のもので、普段コンテンポラリーアートとかは、良くわからないのが多いのだけど、沖縄に関連したものでは、コンテンポラリーといえるくらい最近のものが感覚があう感じがした。

企画展を見終えると、アンケートをお願いしますということで、展覧会の内容や美術館の開館時間や料金などに答える比較的簡単なもの。
特に断る理由もないので、回答したら、粗品がもらえて、近代美術館の特製?鉛筆3本だった。
鉛筆を使うことなんて、最近めったにないけど、良かった。

2008年12月1日月曜日

セザンヌ主義 を観てきた

横浜美術館1/25まで行われている展覧会、「セザンヌ主義 父と呼ばれる画家への礼賛」を観に行ってきた。

象徴主義やナビ派、フォーヴィズム、キュビズム、エコール・ド・パリの画家たちに影響が見られるセザンヌ。日本の洋画家にも大きな影響を与えている。
人物画、風景画、静物画などに分けて、影響をみてとれる画家たちの絵とセザンヌの絵を並べ、比較したり、セザンヌのいろいろな作品の特徴を見られる展覧会だった。

あまり、セザンヌの絵をまとめて見たことはなくて、
セザンヌというと、サント=ヴィクトワール山などの風景画や、りんごなどの果物や水差しがテーブルの上に載った静物画の印象が強く、乾いた感じの色彩で面的な配色で立体感を感じさせる風景画や、バランスよく配置された果物などが、淡い感じながらはっきりとした輪郭や色彩の静物画のイメージが強く、実際、水色っぽい色合いの中にアクセント的に赤みが買った色が使われているような、私の持つセザンヌのイメージと一致したものが多く展示されていた。一方、森や水浴の絵では、鮮やかな緑が使われていたり、印象派のような筆が細かく流れるように描かれている作品などもあって、少し新鮮な感じがした。

20世紀の画家として、いろいろな画家の作品と一緒に見ることはあっても、日本人の画家とセザンヌの絵を一緒に見た覚えはあまりなく、改めて見ると、安井曾太郎や有島生馬などの日本人画家とセザンヌの絵にとても似たものがあることがわかり興味深かった。

また、近代絵画の父とも呼ばれるだけあって、並置される作品は、シャガールやキスリング、モディリアーニ、ブラマンク、ピカソ、ブラック、ゴーギャンなどといった、20世紀の巨匠の作品であり、そのような影響がある作家の似た構図の作品を並べてみることで、似た点や相違が感じられて興味深く、比較することで、セザンヌの特徴が改めて明確になったような気がした。

これまで、セザンヌのどこが偉大なのかどうもよくわからなかったのだけど、セザンヌの特徴や、絵を書いていた頃の時代背景などをおもうと、その画風は、印象派の枠に留まらず、色彩や構図、面的配色や対象の幾何学的な構造の抽出などに、20世紀の様々な画風の萌芽が見られるように思え、そのあたりが偉大なのだろう思った。

2008年11月26日水曜日

ピカソ展(サントリー美術館のほう)を観てきた

サントリー美術館で12/14まで開催されている、「巨匠ピカソ 魂のポートレート」展覧会をみてきた。
同時開催の新美術館のほうの展覧会を見てから1ヶ月以上経ってしまって、開催期間も後半になってきたから、今日、都内に行く用事があったので、六本木まで足を伸ばして観に行くことにした。

こちらの展覧会は、自画像や少年の絵、男の頭部、画家や彫刻家、モデル、それにミノタウロスの絵などの展示となっている。
副題の「ポートレート」というには範囲が広いような気もするけど、基本的に人物が主題となっている作品を初期の青の時代から、キュビズムやシュールレアリズム的なものや晩年のものまで、いろいろな作風の作品がみられ、写真なども展示されていた。
こちらも、新美術館と同様、作風の変化がみてとれ、彫刻が作られたり、ミノタウロスが描かれるようになるなどの主題の変化もみられ、興味深い展示となっていた。

ただ、好みの問題なんだけど、今回は気に入った作品が少なくて、墨で書かれた男の頭部のキュビズム作品と晩年の奔放な感じの作品ぐらいで、新美術館のときもあまり気に入ったのがなかったものの、肖像画とキュビズム作品などに気に入ったのがいくつかあったけど、今回はじっくり見たくなるものがあまりなかった。

ピカソの絵は、一人でいろいろな変化をしていったように思うので、美術史的観点からは偉大な作家であることは間違いないとは思う。しかし、私の好みの問題なんだけど、どうも、人の顔にしたって、鼻筋がすっと通ったギリシア風?の顔立ちで、手足が大きかったりする絵が今ひとつ好きになれないし、絵として、じっと見ていたいと思えるような作品が少ないし、どうも訳わからないというか、なんかすきになれない作品が多い。

そういいながら、今回のなかで気に入ったもののひとつが、キュビズム作品であまり原形をとどめていない、訳わからないものなので、矛盾するし、パリのピカソ美術館も、バルセロナのピカソ美術館も観に行ってたりするのだけど、、、

まあ、ピカソ展ということで、絵を見るのが好きな私としては、観に行っておかないと、観に行っとけば良かったかなと思ってしまうだろうから、やっぱり観に行ったのだし、後悔するほど気に入らないわけではないというか、ピカソ作品の本物を年代の変遷と共にみれたのはよかった。

あと、新美術館のときはそれほど感じなかったけど、今回の絵を見ていて、ピカソって本当に絵を書くのが好きというか描かずにはいられなかったんだろうなっていう感じがして、純粋というか無邪気な人だったんではないだろうかって思ったりした。
特に晩年は奔放に描いている感じがするし、あまり、ストイックに細かく描きこむのとかって好きじゃなくって、感じるままにというか、書きたいように書いていったんではないかなという感じがした。

それと、展示内容とは関係ないのだけど、新美術館と場所的には近いかも知れないけど、そもそも、新美術館は貸しギャラリーみたいなもので、しかもあの展示スペースの広さがあれば、まとめて出来たのではないかと思うので、なぜ2つで同時開催の形にしたのかって気がする。
サントリー美術館がこれまでもピカソの作品や近代美術に関わってきていて、新美術館の企画にあわせて、実施することにしたというなら、わかるけど、サントリー美術館といえば、工芸品をはじめとする日本の美術や、日本との関係の深いものを中心とした、収集や企画展を開催してきたようなところだと思うので、なぜピカソ展って感じがする。

一方を見るともう一方の入場料が200円引きになるから少しは許せるけど。

会期も後半だったからか、平日だというのに、結構、混んでいたのも少し残念だった。

2008年11月25日火曜日

7月24日通り を読んだ

吉田修一著、7月24日通り(2004.12発行)を読んだ。

港のある地味な日本の地方都市に住み、リスボンの町並みに町のつくりを例えながら、日々を過ごしている地味な女性が、同窓生などに振り回されたり、少し自慢の格好よくてモテル弟が付き合っている地味な女に腹をたてる一方、同窓会で久しぶりにあった格好のいい同級生との出来事などの話。

自分は地味であまり人気がないのに、ぱっとしない人と付き合うのは嫌といったことや、逆に、格好よくて人気がある人が、一緒にいて安心するとかいって地味な人を好きになりながらも、格好いい人気者に気持ちが動くことなど、自分勝手だけど、ありがちな感覚が、素直にかかれている感じがした。
最後には、殻を破って、間違うことを恐れずに好きなほうに進んだのは、いい感じがした。

龍の棲む家 を読んだ

玄侑宗久著、龍の棲む家、(2007.10発行)を読んだ。

主人公が、公園で出会った介護福祉の経験のある女性に助けてもらいながら、痴呆症の父親と一緒に暮らしていく日々の話。

痴呆症の症状らしいが、そのときそのときで、父親の認識している状況がなんども繰り返したり、あるときは、子供の頃だったり、あるときは市役所で働いていたときだったり、いろんな状況の変化に、寄り添うように介護する様子などが描かれていて、痴呆症の症状の背後にある無意識だったりその人なりの考えの表出という見方をしないと、やりきれない様子が感じられ、痴呆症の介護のつらさも感じられた。

そもそも、今認識している自分は連続した自己認識のなかにあるけど、痴呆症になると、その連続性が失われたようになるのかとか、痴呆によってかえって表れる純粋さなんかについて考えさせられるお話だった。

2008年11月22日土曜日

TCAF2008に行ってきた。

この3連休に、東京美術倶楽部3・4Fで開かれている、東京コンテンポラリーアートフェア2008を観に行ってきた。

今年は、こういったフェアに行くのはは、春先のアートフェア東京、秋口のGEISAI#11に引き続き3回目。

コンテンポラリーアートに絞ったフェアで、40ほどのギャラリーが出展している。
アートフェアとしての規模はそれほど大きくない(国内でのアートフェア自身があまりないから、これだけ集まって、コンテンポラリーに絞っていることを考えると、大きいといえるのかもしれないけど)が、一度に多数のギャラリーを覗くようなものなので、いろいろな作品をみることが出来る数少ない機会とも思えるの。

普段、美術館などの展覧会は良く行くものの、ギャラリーに入るのは、ちょっと敷居が高い感じがして、せいぜいデパートの美術品売り場とかにあるギャラリーを見るくらいなので、こういうアートフェアは個性豊かなさまざまな作品を見ることができていい。

ただ、美術館での展示と違って、TCAF2008はコンテンポラリーという分野としての共通点はあるものの、ギャラリーごとというか作家ごとに、当然だけど特徴が異なるって、コンテンポラリーは基本的に評価が定まってない作品が多いから、好き嫌いの判断はできても、それぞれがどのくらいの価値なのかが、よくわからない。最も値段がでているので、ある意味、現時点での世間的評価が明確という話もあるが・・・

まだまだ、評価の定まっていない若手の作品も多く、そういった作家の小品であれば、数万円で売っているものも、ちらほら見かけるので、好き嫌いで家などに飾るアートを買うことを考えると良い機会だと思う。とはいっても、それなりの大きさの物は若手でも10万程度はするから、気に入ったものを選ぼうと思うと、そのくらいの予算は必要で、普通のサラリーマンの収入では気軽に購入出来る金額とはいえない。

また、ギャラリーの人などになにか聞かない限り、作者名と価格以外の情報はほとんど得られないけど、かといって、なにを聞いてみればいいのかって感じもして、結局、ざっと眺めるだけになってしまった。
そんな感じなので、見た目でいい感じか、そうでないかくらいしか、判断基準がないんだけど、逆に、いいと思う絵に共通点を見出したりすると、自分の好みが段々明確になっていくような気もしてきた。
その一方、ぱっと見好きなものではないんだけど、なにか気にかかる感じがするものや、気持ち悪い感じのものなども、印象の深さという点では、大きいものもあるので、どういう絵がいいのか逆にわからなくなる感じもする。

とはいうものの、いろいろな絵をみて、いろいろな感じがするのは楽しいので、他にもこういうフェアがあれば観に行ったり、ギャラリーめぐりをしてみようと思う。

2008年11月21日金曜日

星に降る雪/修道院 を読んだ

池澤夏樹著、星に降る雪,修道院(2008.3発行)を読んだ。

星に降る雪は、望遠鏡などの観測機器のエンジニアとして、神岡で働いている主人公のところに、過去に一緒に雪崩に巻き込まれた友人の彼女が、山の中の天文台などにいる理由や、それは雪崩に関係あるのか、その時になにがあったかを聞きに来る。そのときのことで心を少し閉ざした感じの二人が、温泉で一晩を過ごし、そのときのことを思い返し、星のメッセージとでもいうようなものを知人や主人公は受け取ったと感じていて、星に近いところに来たかったといった、不思議なことをいう主人公。彼女は、そんな空や星に向かわず、地面を這いつくばって生きるのが人生といい、思い出した以前の恋愛について語る彼女。
といった感じの話

さらりとした感じの文章に、星からのメッセージを受け取るという不思議な感覚を、宇宙探査の望遠鏡やカミオカンデが、電波やニュートリノを捉える様子に重ね合わせて表現される一方、対比として彼女の話がされていて、読みやすく、それでいて、なんとなく心にくる作品。
宇宙からのメッセージとか、そういった人智を超えたようなものをさらりと入れながらも、やみくもに信じるのでもないといった感じがして、よかった。

修道院は、数週間の休みができたのでクレタ島に休暇にきた主人公が、寂れた修道院の礼拝所の中を覗き、イコンを観ようとしたときに足をくじき、宿屋をかねたカフェのようなところで過ごすことになる。その店のおばあさんが、旅行者が足をくじいて宿屋にとまるのは、丁度50年前の出来事との関連を感じ、語りはじめる話が中心。
その話は、そのおばあさんの小さい頃、旅行者がやってきて町で過ごし、あるときから、なにかの償いのように、主人公がけがすることになった礼拝所を一人で整備して、その後、彼を訪ねてきた人との間で起きた出来事で、その弔いを知らせに神様が主人公をよこしたのだろうという話

こちらも全体としては、淡々とした感じで語られ、やはり過去の出来事をひきづりながら静かに生きる人の様子が描かれ、礼拝所を整備するところの話が少し冗長な感じがするのと、過去になにがあったかが、明かされるまでが少しじれったく、最後の方の話の展開は急な感じがした。
罪にさいなまれて生じた幻聴が、礼拝所の整備につれて、主の声のようなものになっていったこと、しかし、そのときの当事者である彼女が探し当ててきたことによって、悲劇になるが、店のおばさんとその弟以外には誰もしらず、静かに潜んでいて、それで主人公が使わされたというような、偶然といってしまえばそれまで、でもなにか運命もあるのではないかといったようなことを感じるものだったけど、こちらより、星に降る雪のほうが私の感覚にはあう感じがした。

2008年11月17日月曜日

その絵、いくら? を読んだ

小山登美夫著、その絵、いくら? 現代アートの相場がわかる (セオリーBOOKS)(2008.8発行)を読んだ。

著者の小山氏は、村上隆や奈良美智を扱って広めたギャラリストとしても有名な人。
はじめに、で、運慶の大日如来像が約13億で落札された話と、村上隆のマイ・ロンサム・カウボーイが約16億で落札された話から始まり、アートについて価格という点から、絵の流通方法や、市場の形成、価格の形成などについてや、価値あるアートの成り立ち、日本の状況、コレクターの存在や投機や投資という側面、アートブームのことなどについて説明?されている。

多少、まとまりに欠ける感じもするけど、シンワアートオークション社長との対談や、日本の代表的な現代アート作家を扱っている、小柳ギャラリー、オオタファインアーツの小柳氏、大田氏との対談などを交え、アートの価格形成や市場形成について、日本の状況などが語られていて、読みがいはあった。

結局、アートの価値って、アートを飾ったり、所有する文化的な背景にもよるし、アートをどのように捉えるかや、そもそも、アートの価値は見る人の好き嫌いだけでなく、アートそのものに対する社会的な位置づけや、取り巻く背景などに左右されることを改めて感じ、真の価値ってあるのか?わかるのか?って思った。

また、アートを買うことが、見栄だったりする側面や、そういう見栄の張り方が、欧米には文化としてあるようなところから、価格が決まり、村上隆の作品が16億とかになるという見方もわかるし、美術史のなかでの新たな価値創造という点で高い値段となるという見方もわかる。その一方で、まだ、比較的手ごろな価格があるのもわかる。
そうはいっても、年収が4~6百万くらいの普通のサラリーマンにとっては、コレクションしていくには絵はやはり高い。
かといって、それなりの値段がしないとアーティストも生活できないのもわかるから、価格って難しい問題だと思った。

2008年11月15日土曜日

アンドリュー・ワイエス展を観てきた

先日、Bunkamura ザ・ミュージアムで、11/8から12/23まで開かれている、展覧会「アンドリュー・ワイエス 創造への道程」を観てきた。

初期の自画像や、クリスティーナの世界といった代表作の習作(クリスティーナの世界の完成品は写真が小さめのパネルで展示されているのみ)が展示されていて、完成するまでに描かれた部分習作や、構図の変遷などがみられるような展示構成となっていた。
ひとつの完成作品に対し、素描や水彩で描かれた部分習作や、構図が異なるものや、完成品と同等の構成の習作などが展示してあって、副題にあるように、創造にいたるプロセスがわかるような展示となっていて、そういう点では貴重な展覧会だと思った。

ただ、展示されている総点数は150点ほどで、それなりの規模の展示なのだけど、前述のように習作が多く、ワイエスらしさが感じられる完成品としては10点ほどなため、ネットやチラシで展覧会の内容をよく読まないで、アンドリュー・ワイエス展が始まったということで、ワイエスらしい、精緻で、どこか寂寥感を感じるような風景画などをたくさん観られるかと思っていったので、少し期待はずれに感じてしまった。

とはいうものの、チラシに載っている「火打ち石」をはじめ、「雪まじりの風」、「粉引き小屋」などは、その精緻で写実的な描写でいながら、その場のどこか寂れたような、雰囲気というか空気感が感じられる、素敵な絵がみられ嬉しかった。
それに、習作は絵として完成はされていないものの、部分としては十分すばらしい出来であったり、水彩で流れるような表現なのだけど、より本物らしい印象で描かれているものや、同じものを少し感じを変えて書き直しているようすや、完成作にいたるまでに、人が削除されたり、中心となるものが変わったようなものなどもあり、興味深かった。

2008年11月14日金曜日

池口史子展を観てきた。

松濤美術館で、11/24まで開かれている、「池口史子展 静寂の次」をみてきた。

芸大大学院時代の60年代の初期作品から最近の作品まで100点ほど展示され、画風の変遷などもみることができる展覧会となっていた。

初期の頃の作品は、暗い色調で荒々しいタッチの作品だったが、10年ほど経ったもの以降は、静かな風景や静物画が中心で、最初の頃は流れるような感じの描きかただったものが、輪郭の明確なものが多く、最近のものは、木々などのぼやけたような感じで、建物などは透視法に沿った明確なラインを持ち、画風が組み合わさった感じのものとなっていた。
人のいない風景が多く、そういう点では先日みたハンマースホイと同じように静かな作品が多いが、こちらは、同じ静けさといっても、人がいなくなった感じではなく、アメリカなどの地方のダウンタウンで、朝早い時間や雪の日など人が外を歩いていない瞬間といった感じで、同じ静けさといっても質はまったく違うものと思う。
独特な風景で、色調が、黄土色がかったような、あっさりしたというか乾いた感じの作品が多いが、寂寥感のなかにも暖かく見守る眼差しのようなものがある気がした。

この美術館はBunkamuraから少し先にいったところの、静かなところにあって、あまりメジャーな美術館でないこともあって、料金も300円と安く、ゆっくり絵を観賞できるよい美術館だと思う。

2008年11月8日土曜日

ヴィルヘルム・ハンマースホイ展を観てきた

国立西洋美術館で12/7まで行われている、企画展「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」を観てきた。

知らない作家だし、私の好きな分野の絵でもなさそうなので、9月末から開かれていたものの、気が向いたらいってみようかと思っていた程度だったけど、西洋美術館で企画されるくらいだから良い作家なのだろうし、広告などをみて少し気になったので、観に行ってみた。そんな感じで、あまり期待していなかったのだけど、予想以上にいい感じの絵が多く、観に行ってよかった。

展覧会は、初期の作品、建物と風景、肖像画、人のいる室内、誰もいない室内、同時代のデンマーク画家、といった分類でまとめられていた。

初期の作品とそれ以降の作品とでは、筆調が少し違うものの、モチーフや色調はそのままひきつがれていて、絵から受ける印象も同じ感じで、初期段階からスタイルが変わっていないというか確立されていたよう。
建物と風景では、宮殿など普段人が行き交うような場所を選んでいるにもかかわらず、人は描かれず建物だけが淡くモノトーンに近い印象の色調で描かれた作品が多い。
風景には他の作品と比較すると、少し鮮やかで印象が異なるものもあるが、人は描かれず、静かで少し不穏な感じが共通しているように思った。
肖像画のところは、個人的にはあまりいいと思ったものはなく、本人も肖像画は好んではいなかったようで、書く場合も「モデルのことを良く知る必要がある」そうで、親しい人物しか書いていない。内面を描こうとしたのだと思うし、作品もその人の肖像を書いたものというより、静けさや少し不気味な空間要素として描かれている感じがする。
中心的な作品たちと思える、人のいる室内、誰もいない室内の展示は、どちらも調度品が少なく生活感のない、静かで少し不気味な不思議な感じのする室内画だった。人のいる室内といっても、大半は黒いドレスを着た女性(奥さん)が後ろ向きでたたずんでいるだけで、そのことにより、鑑賞者の視点や観たときの印象が変わってくるものの、基本的には人のいない室内と同じで、これらがハンマースホイの特徴なのだと思う。
他に、ハンマースホイの友人でもある同時代のデンマーク画家の室内画も展示されていて、影響や違いがみられ、興味深かった。

企画展タイトルの副題に、静かなる詩情、とあって、確かに人のいない建物や室内、人がいても後ろ向きだったり、鑑賞者を無視してたたずんでいる感じで、静謐というか静けさを感じる絵が多い。ただ、詩情というとなんとなく、やわらかいような暖かみも感じるけど、ハンマースホイの作品は淡くてモノトーンに近い色調と、不気味な感じの静けさで、キリコの形而上画のような雰囲気で、少し不気味な不穏な感じがして、詩情という感じではないように思った。
ただ、抑えられた色調や構成はホイッスラーを意識しているようで、その意味では、詩情という方向なのかとも思う。

作品の多くは、建物や室内の様子や調度品などが精密に描かれているのだが、どことなく幻想的で、不気味な感じがする。
実際、視点の位置が複数あるというか、場所によってずれているように感じるところや、積極的にずらしていて、実際にはありえない構図になっていたり、室内の調度品の影の方向が違っていたり不自然な部分もみられ、それらが、よけいに幻想的な雰囲気を出しているのかとも思う。
また、家具などは実際より少なく、机や椅子が置かれている程度で、必要最小限というか、少しの家具だけ残し、人がいる場合も黒いドレスで、後ろ姿など表情が読み取れない構成が多く、物語性が排除されている。さらに、人がいない室内は、壁や床と、家具により独特のとても静かな空間が構成されているため、特定の室内を描いているにもかかわらず、部屋というものが抽象化され、色調や空間構成が感性を直接刺激する感じがした。

緻密な具象絵画でありながら、物それ自体の物語性が排除されているために、淡い色彩や室内が持つ壁などの構造からつくられる美意識が前面にでてきて、抽象絵画のような感覚的な把握が中心となる感じで、その感覚がいい感じで、見ていて楽しいというか印象深かい作品が多く、観に行ってよかった展覧会だった。

ハンマースホイの本:

2008年10月30日木曜日

大琳派展を観に行ってきた

東京国立博物館で、11/16まで開かれている、尾形光琳生誕350周年記念 特別展「大淋派ー継承と変奏ー」を観に行ってきた。

9時半の開館時間に合わせて観に行ったのだけど、既に開館前から並んでいる人が結構いて、最初の部屋はかなりの人だったので、順番を無視して、先の方からみて、見終わってから戻ったらさらに人が増えていて、平日でもこんなに混むのかと驚いた。

展示内容は、琳派の代表といえる、本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳、尾形乾山、酒井抱一、鈴木其一、を中心に、楽茶碗や蒔絵すずり箱などの工芸品から、障塀画、絵巻、書などが展示され、国宝や重要文化財もちらほら見られたり、外国の美術館が持っているものなど、おそらくかなり優れた作品といえるものが展示されていて、興味のある人には、非常に良い展示なのではないかと思う。
また、琳派は直接の師弟関係はなく、先行する作家を見本に継承していったそうで、同じ画題のものなども多く、今回の展示では、比較対照を行い、琳派の作家同士の関係などを見て行こうとする展示構成となっていた。

しかし、個人的には、やまと絵などの日本古来の絵については興味が薄く詳しくないので、同じ画題のものを比較してあるものは、直接的な違いはわかるものの、それぞれの作者の特徴とか、表現の違いなどはあまり良くわからなかった。
結局、有名な作品である、風神雷神図屏風や養源院の白象図杉戸絵、蒔絵硯箱、夏秋草図屏風などは印象に残ったものの、他は解説を読んだりしたものの、全体としては、印象に残る作品の少ない展覧会だった。

それでも、鶴下絵和歌巻や、酒井抱一の夏秋草図屏風など、先日、美術検定を受ける際に、知識を得たばかりの淋派の絵の本物を見ることができた点や、たらしこみの技法による木の枝の様子など、いままでは意識しなかった技法の効果を感じることが出来てよかった。俵屋宗達に始まり、尾形光琳、酒井抱一、鈴木其一の4人が描いた4つの風神雷神図屏風や、風神雷神図屏風の裏に、それを意識した図が描かれていたり、敬意など関係を示すものも多いことなどを知れてよかった。

また、西洋の絵画は印象派以前は、比較的見たままを自然に書く絵が多いのに対し、やまと絵?はひとつの画面構成のなかで、視点の位置がさまざまで、木との関係などからほぼ同じ位置にいるように見える鳥があるものは胸の方が見えていて、あるものは背中側の羽模様がみえているものや、他にも、視点の位置から考えるとありえそうにない配置や、花や葉がすべてこちらを向いているなど、自然に書くというより装飾的というか、見るものが強調できるというか、見たままではないイメージを描いている用に感じた。

しかし、金泥を多く使う色彩感覚が描かれる一方、水墨画のような白黒の画面構成があったり、日本古来の絵というのも、よく考えると奥が深いと思った。西洋美術史を基準に考えると、異端な感じになるが、本来どちらが正しいというものでもないので、西洋とは異なる美的感覚、虫や花や鳥は非常に細密に描かれていたりする一方で、他の部分は省略されて図案化されたような背景であったりする作風など、あまり興味を持たなかった日本画も美術検定の勉強などで得た知識や最近の展覧会で得た知識から、新たな見方が出来るようになって、興味深く感じる点もあったので良かった。

2008年10月27日月曜日

美術検定の参考図書

先日、美術検定を受けてきた。
どの程度の難しさかがよくわからなかったこともあって、とりあえず2級を受けてきた。

このところ、その関連の本を読んでいたので、特に感想というものでもないと思って、ブログを書かなかったけど、他に本を読んでなくて、しばらく投稿していなかったから、その関係の本の紹介や感想というか、検定に向けての読書状況です。

夏ごろ、美術検定の存在を知って、今年に入ってから、美術関連の展覧会を良く観に行ったり、本を読むようになったので、関連知識を深めようと思ってモチベーションを高めるのもあって、美術検定を受けることにした。美術検定公式テキスト 西洋・日本美術史の基本を8月半ばに買いながらも、広範囲の西洋美術史や日本美術史について、絵の様子も白黒で良くわからないし、作品や作家名、出来事などがただひたすら並んでいる感じで(テキストだから仕方ないかもしれないが、、、)面白そうではなかったので、そのままになっていて、先月には、美術検定過去問題集 2008―四択マークシートと、美術検定 1級・2級 美術実践キーワード88 改訂版を買ったものの、問題集は試験が近づいたらやろうと思ってそのままで、キーワードのほうを少し読んだけど、こちらはあまり面白そうでなかったので、直前に読めばいいと思ってそのままになっていた。

結局、ときどき、思い出しては、ぱらぱらめくりながらも、2週間くらい前になって、いい加減勉強しようと思って、読み始めたら、公式テキストのほうは、なんか前後関係もなく、いろいろな事項が羅列されているし、索引もなくて、わかりにくいため、前後関係や時代背景を補なおうと、カラー版 西洋美術史を別に買ったけど、こちらも、調べるには良いかもしれないけど、本としては面白いものではないので、相変わらずぱらぱら開いたりっていう感じだった。

さすがに1週間前になって、公式テキストを最後までとりあえず読んで、キーワードも読み、問題集をやってみたところ、全然出来なくて、あわてて、関連書籍にあげられている、ちょっと知りたい美術の常識 (アートクイズ ベーシック編) (アートクイズ ベーシック編)と、もっと知りたい美術の知識―アートクイズ ステップアップ編を読んだり、再度公式テキストや、カラー版西洋美術史を読んだりしながらも、どうも覚えきれないと思って、直前になって、アートクイズの2冊と以前読んで美術検定を受けようと思う機会となったこの絵、誰の絵? 100の名作で西洋・日本美術入門、それに過去問題集の4冊は大部分解けるようにして、あとは、覚えられる範囲で公式テキストの中身を覚えやすいようにカラー版西洋美術史で関連出来事を補いながら、覚えて試験に臨んだ。

2級の試験は選択式と穴埋め(複数の語彙からの選択)問題の2種類があった。
穴埋め式のほうはキーワード集を基準に、美術館のあり方など美術史以外の関連知識を問う問題だったけど、常識的な話にある程度美術の話題が加わった感じで8割がた出来たと思う。
しかし、選択式のほうは、今ひとつというか、感覚的には全然できなかった。
確かに、アートクイズや問題集にあった問題や同じような問題もあったけど、そんなのは少なく、参考書籍にも載っていなかったよううに思われる問題も多く、選択肢を絞れるようなのはまだ良く、絞りようもないくらいまったくわからないものも結構あった。

問題は持ち帰ることができ、
出来が悪かったとはいえ、選択式なので運がよければあたるものもあるから、どんなものか自己採点してみた。
テキストだけでは回答がわからないものも多く、Webなどで問題や回答にある出来事や作家について調べたものの、調べきれず、はっきりしないところもあるものの、きびし目に採点して、正答率60%といったところだった。
採点した結果を見ると、判らなかったところは確率的な正答率を若干下回っていて、2つまで絞れたところはその確率(50%)よりも大きく下回っていたため、ちょっと運がなかった。
合格率は、受験者全体の回答率によって変わるものの60~70%らしく、全体の回答率が例年より低かったら合格できるけど、少し厳しい感じ。

しかし、2級は思った以上に出来なかった(過去問題を初めてやったときにある程度予測はできたが、、、)ので、不合格だったとしたら、来年も受けて、今度は日本美術史も本を買って読み、もう少し関連知識も増やして、出来たと思えるくらいで合格したいと思う。

参考にした図書たち:

2008年10月17日金曜日

ピカソ展(新美術館のほう)を見てきた。

国立新美術館で、12/14まで行われている、「巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡」を見てきた。

近くのミッドタウンにあるサントリー美術館では「巨匠ピカソ 魂のポートレート」と題して、肖像画を中心に展示され、こちらでは、ピカソの作品の変遷が見られるように、様々な作品展示となっている。

ピカソ展というだけあって、作品保護のために、どの作品も近寄り過ぎないようにパイプが設置してあったり、警備も普段より厳しく、入り口ではかばんの中を確認していた。

展示内容は、青の時代の作品(1点のみだが)から、薄茶色っぽい乾いた感じの人物像や、形状を単純化し輪郭を強調した人物像などキュビズムにいたる初期の作品、まさにキュビズムといった頃の絵画や彫刻、鼻立ちがすっとしていてギリシャ風の顔と手足などむくむくした肉体が強調された感じの人物像、正面と側面などが錯綜する人物像や、さらには、目、口、耳などの配置までずらした人物像、シュールレアリズムの作品やヘンリームーアの彫刻のような体が伸びたり膨らんだ人物像など、ピカソの作品として、イメージされる様々なタイプの代表的ともいえる絵画や彫刻が集まっていた。
また、ゲルニカの製作過程が9枚の写真で展示されていて、描かれた順序や下書きと変わっている部分などがわかって興味深かった。

青の時代の作品は、今までもいくつかみた記憶はあるし、フランスやスペインのピカソ美術館でいろいろみた記憶はあるものの、あまり良く覚えていないというか印象に残っているものはなかったのだけど、今回展示された作品は静かでいて、なにかを訴えかけるような不思議な感じがして印象ぶかかった。
また、キュビズム作品好きの私としては、マンドリンを弾く男やサクレ=クレール寺院などは、みることが出来てよかったと思った。
他にも、1930年代頃のシュールレアリズム風の作品はなんとなく楽しい感じがして良かったし、後半のジャクリーヌの肖像画はなんか惹かれる作品だった。

とはいうものの、ピカソの絵は子供のいたずら書きみたいで、芸術的なのを冗句にするような絵として似た感じのものが使われたりするけど、実際そんな感じも受ける。
ものの本質を平面に表すために、単に見えるものだけでなく、様々な方向から見たもの組み合わせて表現させたところがすばらしいとかっていわれたりするわけで、そういう見方も確かにあると思う。
実際、物事の認識っていうのは脳内に得られた様々な経験や情報から構成されるわけだから、それを絵画に表現して、改めて認識させたとかって価値があるのかもしれない。
でも、やっぱり、そんなにすごいの?って感じはしてしまう。
ピカソの絵はいろいろなところや、画集などで多く目にしていることから、一部の作品はみることができて良かったと思うけど、多くの作品はあまり興味を惹かなかったというか、気に入った作品は展示の数の割りに少なかった。

最も、ピカソ展はいかがでしたかとかって、公式に聞かれたら(そんなことはないけど)、様々な種類の代表的な作品が展示されていて、ピカソの画風の変遷を俯瞰できるよい展示だったとかって答えてしまうのだろうけど、、、

最も私の好きなキュビズムにしたって、なにが書いてあるかわからないのにどこがいいのとか、抽象表現主義の作品にしたって、ただ一面にぼんやりした色があるだけで、どこがいいのとかいわれれば、物を分解して再構成していることや、ぼんやりした色に包まれることで感じる感覚や微妙な変化に精神性を感じるとか、評論家の言葉を借りることはできるものの、ようは、なんとなく好きっていうのにすぎないともいえるようにも思うが、、、、

そんなことを考えてしまう展覧会だった。(といいながら、サントリー美術館にも観に行ってしまうんだろうけど、、、)

2008年10月13日月曜日

スリランカ展と法隆寺宝物館

先日、東京国立博物館の表慶館で11/30日まで行われている、特別展「スリランカ−輝く島の美に出会う」を観に行ってきた。

東博では、この時期、平成館と表慶館で特別展を行っていて、平成館では大琳派展をやっていたけど、今回はスリランカ展と常設展だけをみてきた。

スリランカは「光輝く島」という意味を持つそうで、セレンディピティもスリランカの御伽話をもとに生まれたそう。(御伽話の内容は以前聞いた覚えがあるんだけど、どんな内容かは忘れてしまった)。2000年以上の歴史があって、一時期、ヒンズーが広まったものの、仏教色の濃い文化。
展示は、紀元前から後11世紀、11から16世紀、16から20世紀の3部構成になっていて、途中ヒンズーの影響で作られたシバやパールバーティ、ガネーシャの像なども展示されていた。
仏像や仏具以外にも、宝飾品や貨幣なども展示がされ、寺院の様子などが写真により紹介されていた。(スリランカ展のホームページにもう少し詳しく載ってます。)

仏像は、時代によって顔つきや衣の様子など様式の違いはあるものの、日本のものと比べると、太めの顔が特徴的だった。日本の飛鳥時代の仏像はわりと太めの顔だけど、スリランカの人は鼻が高いのか、太めな上に鼻や口がつきでた感じの顔立ちのものが多かった。
その顔立ちのせいか、日本の仏像はなんていうか、荘厳で癒される中にも厳しさがあるけど、スリランカの仏像は、もっと人間的で親しみやすく、やさしく癒される感じだと思った。
あと、象のようなガネーシャの乗物がネズミのようで、その組合せがなんか不思議に思った。

会場ではカレーや紅茶などのたべものから絵はがきやCDまで、スリランカ関連のグッズも販売していて、ヤシの花(だったと思う)のシロップという珍しいものも売っていた。

特別展を観た後、いつも時間がなかったり特別展などをみて疲れてしまったりで、観に行ったことのなかった、法隆寺宝物館によってきた。
こちらは常設展示で、1つの展示室は作品保護のため、期間限定で公開されるそうで、いったときはちょうど閉まっていたので見れなかったのが残念だったけど、観覧者が非常に少なくて落ち着いてみることができた。
特に数十体の仏像が設置されている部屋は、仏像自体は飛鳥時代の豪族が信仰していたものとされていて、すうじゅうcm程度の小さな菩薩像などが中心なんだけど、それらがケースに入って、1〜2m位の間隔で並んでいて、照明も作品保護のためだと思うけど暗めになっていて、なんともいえない、ちょっと不気味な感じもするくらい、荘厳というか不思議な空間となっていた。
特に監視の人がいるものの、ほとんど人がいないうえ、最近の建物で密閉性がよいからか、かすかに空調の音がきこえるものの、自分の耳鳴りでも聞こえてきそうなくらいの静けさで、無響室に入ったような感じだった。
入場者の少ない美術館やギャラリーも良くあるけど、大抵周囲の騒音がなにかしら入ってきて、ざわざわした音がするけど、ここは本当に静かで、ここまで静かなところに入ったのは、最近はなかったように思った。
仏像以外にも、染物や工芸品なども展示されていたけど、展示内容よりもその静けさが、なににもまして印象に残った。

2008年10月10日金曜日

Art of our time を見てきた

上野の森美術館で11/9まで行われている、「Art of our time」展を見てきた。

高松宮殿下記念世界文化賞の受賞者の作品を展示したもの。
この賞が創設されたのは、1988年で、バブルを謳歌してた頃で企業メセナとかも流行ってたし、国もこれからは文化振興だみたいな状況だったような気がする、、、、

エントランスには、大き目の赤と白の水玉模様の椅子のような塊が設置されていて、良くみなかったけど、草間弥生の彫刻ではないかと思う。(中で展示されていた水玉絵画と模様が同じ感じ)
中の展示は、入り口から、広めの通路沿いにバルテュス、デビッド・ホックニー、リチャード・ハミルトン、ロベルト・マッタときて、最初の広間でアントニ・タピエスにウィレム・デ・クーニング、ザオ・ウーキー、ピエール・スーラージュにアンゼルム・キーファーが展示され、さらに、ラウシェンバーグにエルズワース・ケリー、ゲルハルト・リヒターと続き、
以降も、ジャスパー・ジョーンズをはじめ、最近読んだ現代アート系の本に出てきた有名どころの作品が展示されいいるという、現代アート展でもなかなかみない豪勢な感じ。(単に良く聞く名前だからそういう印象を持ったのかも知れないけど、、、)

特に最初の広間の、大型の抽象表現主義というか、わけわからない大型絵画の展示は、個人的には好みなので感激ものだった。
この展示室の作品たちが印象深かった分、他の部屋も最近読んだ現代アート系の本に出てきた有名どころが展示されいたけど、ジョージ・シーガルやリー・ウー・ファンに草間弥生といった、私の興味を惹く作家の作品もあったが、他の展示室はあまり面白くなかった。
最も、私の趣味だし、特に彫刻はあまり感動しないので、彫刻好きな人はまた見方が違うと思うが、、、
それと、受賞者の作品展示なため、作家のほとんどは1点の展示だったのが少し残念。

とはいっても、私が持っているイメージというか、画集や本などで見たことのある作品のイメージに近いものが多く展示されていて、本物の大きさとか、平面とはいえ厚塗りの作品などは、その質感や、照明の反射などによる印象の違いも感じられてよかった。

あと、あまり作品として鑑賞したことなかったけど、三宅一生の一枚の布とボタンで造るドレスはなんか素敵だと思った。彫刻分野での受賞者となっていて、人型にドレスが着せられているものと、広げたものが展示され、どういう具合にできるのかと思ったけど、一枚の布がボタンで留められて人型に巻きつけられていく様子がCG映像で流されていて判りやすくてよかった。

併設されているギャラリーでは11/2まで、写真展「アトリエのアーティスト」として、受賞者を撮影した写真が展示されていて、作家の顔やアトリエ風景など、名前で知っていても顔や雰囲気を知らなかった作家の写真が見られて興味深かった。

2008年10月8日水曜日

カイマナヒラの家 を読んだ

池澤夏樹、写真・芝田満之カイマナヒラの家―Hawaiian Sketches(2001.3発行)を読んだ。

波乗りのためにハワイイに何度も行っていた主人公が、ハワイイで知り合ったサーファーが管理人を兼ねてすんでいる伝統ある家に泊まることになり過ごした日々のことが、同居するサーファーやその知り合いとの会話を中心に書かれている。

人が砂漠で消えてしまったり、先祖の霊がたたってリゾートホテルの工事がうまくいかない話など、ちょっと不思議な話も交えながらも、カイマナヒラの家で知りあった人たちが、その家にいることになった経緯や、知り合い通しの関係などといった、比較的ありふれた会話が自然な感じに交わされていて、軽やかな感じがした。
ところどころに挟まれた、真昼の青い海や、夕暮れの朱色の海、波に乗ってるサーファーや、ボードを持っているサーファーがシルエットに浮かんでいる様子などの写真とあいまって、海にむかって淡々と波乗りを繰り返すサーファーのような生き方へのあこがれのような、懐かしさのような感じを受けた。
特に、主人公たちの年齢が決して若くない年齢で、結婚で縛られた状況になりたくなくて、独身生活からぬけきれないでいる状況から、終わりの方では結婚して子供のいる環境になり、カイナマヒラの家も買い手がついてしまうところも、まだ、結婚して所帯じみて、日々の生活に追われたくないといった、青春というには年をとってしまいながらも、気持ち的には自由に生きたいと思う頃への哀愁のようなものを感じた。

2008年10月5日日曜日

ドリームタイム を読んだ

田口ランディ 著、ドリームタイム(2005.2発行)を読んだ。

先月は、小説を読まなかったので、なにか読もうかと思って、この本がなんとなく目に付いたので、読むことにした。

田口ランディさんの作品はアンテナとかモザイクとか富士山などは読んだことがあって、この世とあの世やら、生きることやら、人への気遣いから疲れて、怒りが自分や他人にむかったり、悩みや混乱のなかで模索するような、感じの作品が多かったと思う。
この本は13の短編からなっていて、やはり、日頃、人に気を使ったり、考え始めると大量の言葉で参ったりしてしまう作家である主人公に起きる出来ごとを中心に、人間の生死や神さまに関わるような、不思議なつながりというか体験のようなものについて、いろいろな考えや感じが錯綜する作品だと思う。
これまで読んだ田口さんの本からは、もっと、重いというか、どろどろした感じがする一方で、不思議なことをあっさりした感じでながすような感じが同居するような印象だったけど、この本は、あっさりした面が強いというか、淡々としているような、軽快な感じがした。決して軽い作品ではないのだけれど、、、、

2008年10月4日土曜日

暗黒宇宙で銀河が生まれる を読んだ

谷口義明著、暗黒宇宙で銀河が生まれる ハッブル&すばる望遠鏡が見た137億年宇宙の真実 (サイエンス・アイ新書 41)(2007.11発行)を読んだ。

裏表紙に、「この宇宙は暗黒物質(ダークマター)に支配されている!」と大文字でハイライトされていて、銀河の母体となる暗黒物質にフォーカスしつつ、この宇宙創生の壮大な物語をつづってみたいと思います。(裏表紙文書より抜粋)とあるので、宇宙の質量をを説明するのに暗黒物質の存在が必要というような話を以前聞いてたことがあって、その辺のことに興味あった。また、先日読んだ最新宇宙学が、研究者の今の研究内容をつづるもので、わかりにくかったこともあり、この本は新書で、ハッブル&すばる望遠鏡が見た・・・とあって、写真も多く面白そうだったので読んでみた。

内容は、第1章は暗黒の宇宙ということで、宇宙は暗いのか?ということを端緒に、星の光度や距離などの基本的な知識、天の川銀河の基本構成や、星団や星雲、他の銀河などについて解説されていて、第2章では暗黒宇宙の誕生ということで、銀河間の距離や宇宙の膨張、膨張が始まった初期ビッグバンの様子に、ビッグバンを起こすことになるインフレーション理論などが、望遠鏡による観測結果やアインシュタインの宇宙方程式や重力以外の力の統一理論などから得られてきた様子が解説され、第3章は銀河宇宙の誕生として、星やブラックホールに銀河の生成の様子について、ハッブルやすばる望遠鏡での観測結果などを交えて説明され、ダークマターが想定され始めた経緯から観測結果による分布の測定結果までが解説されている。

この宇宙は暗黒物質に支配されている!と裏表紙にある割りには、1章で、宇宙の質量における割合が出てきた以降、3章の最後の節で、観測結果を説明するために暗黒物質の仮定が必要なことや、暗黒物質としてはニュートラリーノという粒子が候補としてあがっていること、ダークマター観測結果など、この本の主眼といえる部分がようやくでてくる。
最も、基本的な話やそれまでの経緯を踏まえないと説明にならないのはしかたないと思うが、、、
しかし、宇宙の質量密度のうち、通常の元素が占める割合がわずか4%しかなく、暗黒物質が22%で暗黒エネルギーが74%だそうで、そんなに96%がよくわからないもので成り立っているとは知らなかった。また、インフレーション理論についても、名前を聞いたことはあったけど、ビッグバンとの関係など、概要が把握できてよかった。

暗黒エネルギーがなにかとか、質量密度割合などの数値は観測結果などから得られているんだろうけど、どのように得られているのかとか、他にもなぜそうなるか説明がなかったり、仮定と確定した事の区別がはっきり読み取れない部分があるのが少し気になったけど、わかりやすくするためには仕方ないようにも思った。

文章も、ところどころで、質問とその答えという形で、宇宙の構造が判っていくような形になっていたり、簡単な式で説明できるものは式を用いて論理的に説明されていて、多少複雑なものはコラムとして理解の助けになる知識や用語の解説がされたりしていて、技術的な内容の解説の深さと読みやすさのバランスがとられていて、宇宙の生成から誕生までのダイナミックな様相や、暗黒物質について判ったような気になれる本だと思った。

新書版で気楽に読め、かつ、最新の情報まで含めた、宇宙の成り立ちを知るための入門書として良い本だと思う。

2008年10月3日金曜日

脳の情報表現を見る を読んだ

櫻井芳雄著、 脳の情報表現を見る (学術選書 30 心の宇宙 6)(2008.2発行)を読んだ。

先日読んだ「脳科学のテーブル」と同じく、京都大学出版会の学術選書シリーズの1冊(こちらのほうが30番と発行は先だけど)で、先月初め頃読んだ「考える細胞ニューロン」と同じ著者の本。

内容は、「心が存在していることは間違いなく、それを脳が生み出していることも間違いないのであれば、心は脳の活動に表れているはずである。そして、心を作り上げている個々の感覚、記憶、観念、感情、意図などを現代風に「情報」と呼ぶならば、心とは脳が表している情報であり、私たちは現在それを見る手段をもっていないがために、心が見えないだけなのかもしれない。」(まえがきより)ことから、脳が表現している情報を捉えることで、自由な心を解明しようと、第1章から4章で、脳を構成するニューロンから脳が表現する情報を検出する実験方法や研究結果、情報表現手段としてのセル・アセンブリとその実験による検証など、脳の情報表現をさぐる研究についてかかれている。続く第5章では、情報を知ることにより人間の感覚・運動器官の機能の補償や拡張となるかもしれないブレインーマシン・インターフェースの研究状況がかかれ、以降の章では、情報表現を生み出す神経回路網の生成や常に行われている更新などをニューロンの変化から解説した話や、回路網の生成・組み換えと情報表現の関わりにより生じる個性、情報表現の混乱や再生に関する話題を生まれつき、あるいは、病気やけがにより脳が損傷した場合の障害や回復例などを交えて解説が行われている。

前回読んだ「考える細胞ニューロン」と重なる部分が多いが、こちらは、実験方法や結果の考察などがより詳しく説明されていて、実験の難しさや、実験方法による限界などがわかり、多くの結果が相関をとって検証していて、実験結果の必要十分性は得られているか不明で、Aである場合にBだったという結果に過ぎないのに、BとなるのはAによるみたいな感じに広まっている話が多いように思った。
また、ブレインマシンインターフェースについては、テレビや雑誌で見たことがあって興味があり、ラットの実験から始まって、実際に人でも実験が始まっている状況まで書かれていて、非常に興味深かった。
6章以降は、神経回路網の柔軟性などに関する話題だったので、前回の本のほうがむしろわかりやすく書いてあったと思う。機能が損傷しても回復した例については、こちらのほうがいろいろ挙げてあると思うが、、、

脳は非常に柔軟な変化する神経回路と言っていて、脳が損傷してもその部分の機能を他の部分が補償したりする例がある一方で、脳に損傷を起こしてから、ずっと記憶障害に悩まされる例などもあることから、柔軟という一方で損傷による影響の多い部分もあるように思った。
ただ、回復するのは運動機能のような例が多く、損傷の影響が残るのは記憶や正確などといった部分なようにも思えたので、さらに脳での情報表現が明確になれば、補償しやすいものとしにくいものとかもわかるのだろうと思う。
また、植物状態の人も意識はあって、それを表現する機能が失われていることもあることなど、脳の働きはまだ不明なところがたくさんある一方、理解するにはまだまだ、技術的にも難しいことがわかった。

実験の部分などで、解説が良くわからない部分もあったが、全体的にはわかりやすく、新しい知見も含めて書かれていて、脳の研究の難しさを知る一方、脳の複雑さや柔軟性などについて改めて考えさせられる本で、やはり脳は不思議で興味ぶかい。

2008年9月28日日曜日

脳科学のテーブルを読んだ

日本神経回路学会 監修、脳科学のテーブル (学術選書 34)(2008.3発行)、を読んだ。

タイトルと裏表紙にある説明から、脳科学の過去から現在、未来について、研究をリードした重鎮と第一線の研究者が表(テーブル)にまとめるような形で整理して語るのかと思ったら、タイトルのテーブルは文字通り、机の意味で、脳科学の発展をリードしてきた二人の重鎮それぞれと、現在の一線の研究者が座卓を囲んで談笑している雰囲気を伝えているものだった。

内容は、第1部で神経生理学研究を推進してきた外山敬介氏を囲んで、脳神経科学研究の歴史と現状、今後の可能性についての対談、第2部でニューラルネットワークの理論研究をリードしてきた甘利俊一氏を囲んで、ニューラルネットワーク理論研究の歴史と現状、、将来についての対談となっている。第2部の前に、分野外の読者の理解を助けるために、専門用語や背景などについて補足した解説もつけられている。第1部は神経回路学会誌に、第2部は電子情報通信学会誌に、一部掲載されているそうです。

はじめにの所に書いてあるのだけど、対談をまとめたものなので、専門用語などが多くでてきて、特に第2部は発言の意味がわからないところも多々ある。しかし、対談が基となっていることもあるからか、比較的読みやすく、脳科学およびニューラルネットワークの発展過程における、重要な研究がどのような背景や研究者によってなされたかや、当時の状況などがリアルに伝わってきて、細かいところをきにしなければ、研究者の意気込みやなぜそのような研究をしたかなどがわかって面白かった。
これまでに読んだ本などから、ある程度重要な研究をした人の名前は知っていたが、そういった研究者がどのような研究者だったかなどもわかり、面白かったし、現在残っている問題点などについても漠然とではあるが、見えたような気がして良かった。

2008年9月27日土曜日

美術散歩 印象派から抽象絵画まで を見てきた

数日前になるけど、ブリジストン美術館で10/19まで行われている、「美術散歩 印象派から抽象絵画まで」を観に行ってきた。

ブリジストン美術館のコレクションから、印象派の前の19世紀中ごろから、現在までの絵画や彫刻120点ほどに加えて、古代美術作品30点、日本近代美術27点が展示されていた。

彫刻はロダンやブールデル、ブランクーシなど、以前にもみたことがあるような気がしたが、古代美術は、初めて見たと思う。
絵画は、順路に沿って、最初の部屋では、コローにドーミエ、クールベ、マネ、ドガ、といった、印象派にいたるまでの19世紀中ごろから後半の作品、次の部屋ではピサロ、シスレー、モネ、ルノワール、ゴッホといった印象派、その次の部屋では、セザンヌ、ルドン、ゴーギャン、ボナールなど後期印象派?といった作家の作品たち、その次の部屋はマティスを中心に、ブラマンクやデュフィの作品を展示し、さらに続く部屋では、ルオーやローランサンが展示され、以降の部屋で、ピカソを中心にブラック、キリコ、ミロなど、コラージュ作品やキュビズムなどの抽象化した作品などの部屋、カンディンスキー、モンドリアン、クレー、レジェ、ビュッフェ、フォートリエなど、戦後の作品を中心にした、構成要素や不定形な抽象作品の部屋、現代までの、白髪一雄、エミリー・ウングワレー、ザオ・ウーキー、イマンツ・ティラーズなどの部屋といった感じで展示されていた。
さらに別の部屋では、日本近代洋画として、黒田清輝、藤島武二、青木繁、藤田嗣治、安井曾太郎、梅原龍三郎、佐伯祐三、岡鹿之助など、15作家の27作品が展示されていた。

有名な作家の作品が多数展示されていて、印象派以降の著名作家たちの展覧会といった感じ。
これと同じものが、西洋美術館とかで行われれば、きっと混雑するだろうに、この美術館はマイナーなのか、すいていて、のんびり見れて良かった。
名前は有名だけど、作品的にはあまり面白くないものや、代表的な作風と異なるものなどもあるけど、それはそれで、こういう作品もあるんだということを知れてよかった。
今回の展示では、マティスやピカソの作品がどちらも8点ほどとまとまっていて、いろいろな作風のものを見ることが出来て良かった。特に、ピカソの生木と枯木のある風景という作品が、ピカソの作風にしては変わった感じだと思って、印象に残った。

ブリジストン美術館に行ったのは、前々回の展覧会にあたる、20世紀から現代を中心としたコレクションを観に行って以来だから、半年ぶりくらい。
この美術館の展示はなかなか良いものが多いと思うのだけど、いつもすいているので、、順路をさかのぼって気に入ったのを再度見たり、のんびりみることが出来ていい。部屋の中央にある休憩用の椅子が一人がけなので、なんか、座っていていいのかっていう感じがしてしまうところが少し難点にも思うけど、、、

2008年9月23日火曜日

ライオネル・ファイニンガー展

横須賀美術館で8/2から10/5まで開催されている、「ライオネル・ファイニンガー -光の結晶」展を観に行ってきた。(この後、愛知と宮城の県美術館を巡回するそうです)
横須賀へ行くことが多いので、横須賀美術館のホームページの展覧会案内に載っている絵を見たり解説を読んで、今度見に行こうと思っているうちに、開催期間が終わりそうになってきたので、昨日、見に行ってきた。

ライオネル・ファイニンガーは、あまり有名はでないと思うが(私が知らなかっただけかもしれないけど)、1871年にニューヨークで生まれ、ヨーロッパで絵画を学んだ後、最初は新聞の風刺画などで生計を立て、36歳になってから油彩画を書き始めた作家だそうで、20世紀初期に活躍し、バウハウスの設立に参加して、版画印刷工房のマイスターに就任したり、カンディンスキー、クレー、ヤウレンスキーらと「青の4人」(同じく、カンディンスキーやクレーの参加した青騎士とは違って、知らないグループだったけど、青騎士より少し後なので、キュビズムの同じようなグループなのだろうか?)というグループに参加したのち、ナチズムの台頭により頽廃芸術の烙印をおされたことなどもあって、ニューヨークに戻って展覧会などを行っていたそうです。

今回の展示は、新聞に載せていた漫画から、初期の油彩画、キュビズムの影響を受けて以降や、晩年の作品、さらに、版画も多く製作していたそうで、バウハウス設立時の表紙なども含めた版画や、彫刻や木のおもちゃなども展示された、回顧展という形式。

初期の作品は、漫画や風刺画を書いていたという解説を先に読んだからか、特に初期の油彩画は、平面的で大胆な構図にデフォルメされた人物などは風刺画の表現を自由に広げたような印象だと思った。また、版画も多く、風刺画などと共通したイメージが感じられた。
パリのキュビズムの作品に触れて以降はキュビズムの影響を無視できない作品が多くなり、建物や、地面、海、空まで、直線や幾何学形状でリズミカルに区分けされた作品が多くなっている。一方、晩年の頃まで、輪郭をぼんやりさせた対照的な作品も同時期に製作しており、そのような作品も展示されていて、そちらも変わった感じで興味深かった。

個人的に、幾何学的に分割されて、再配置されたようなキュビズムの作品はなぜか惹かれるものを感じるので、知らない画家だったけど、気に入った絵もいくつかあって良かった。

キュビズムの影響を受けた作品も完全な抽象というよりは、建物や橋、海などを切子のガラス越しにみたような、クリスタライズされたとでもいうような印象で、展覧会タイトルの副題に「光の結晶」とある通り、光を感じさせる作品もあって、いくつかの作品は、私のつぼにはまる感じだった。

ただ、ホームページに載っていた作品は、そのようなキュビズムの絵といえる作品だったので、見てみたいと思って観に行ったのだが、作品数の割りには気に入った作品は少なかった。
しかし、静かでいながら光があふれるようなキュビズム作品やクレーの作品のような感じのものなど、かなり気に入った作品がいくつかあったので、楽しめた展覧会だった。

青の4人の本:

2008年9月21日日曜日

現代美術の教科書

美術手帳編集部編集、現代美術の教科書(2005.3発行)を読んだ。

前回読んだ、現代アートナナメ読みは、現代アートがコンセプチュアルな側面や能動的な社会との関わりが強くなっていることから、アートそのものの見方というより文化的社会的側面とのかかわりの説明みたいなところがあったため、どうも作品を中心に考えてしまう(考えが古いのか?)ので、他に現代アートの入門書のようなものはないかと思って、この本を読んでみた。

内容は、章立てとしては、教科書の名にふさわしく、序論、概論、演習となっている。
序論は、谷川渥氏により、現代美術の3D[立体]観測-新しい物語としての美術史のために-と題して、20世紀の終焉との関わり、イズムの変遷からアート群への変容といった、大きい物語から多数の小さな物語の氾濫ともいえる方向性や、目的論的な芸術の終焉が語られても芸術自身について語られるべきことは多数あり、いろいろな見方があるというようなことが述べられている。
概論では、現代美術マスターピース・リンク-セザンヌからマシュー・バーニーまで66作品をつなぐ11の新しい流れ-と題して、近代から現代美術までの流れを複合的(立体的)に捉えるため、絵画と写真からビデオ・アートへや、「抽象」の場所、ポップの系譜、壁画運動とグラフィティアート、などの11のトピックについて、それぞれ異なる執筆者が現代アートと過去の作品をリンクさせた解説を行っている。
後半の演習の章では、アート鑑賞術・入門-50の傑作を見る×読む◎空想ギャラリーツアーガイド-と題して、STEP1で、対話型・作品鑑賞シミュレーションとして、ゲルハルト・リヒターや奈良美智、フェリックス・ゴンザレス=トレスなどの5つの作品に対し、対話形式で作品や作家の特徴や、社会的、文化的背景や、作品の生み出す価値観などが語られている。続くSTEP2では、リンク型・比較鑑賞ワークショップと題して、ある作品と別の作品について、作品の特徴や意義などについて、共通点や相違点などの比較・対照して、語られている。

構成的には教科書らしいが、内容はかなり難しく、言っていることがよくわからなかった。
序論から、教科書といった入門的なイメージから考えると、難しく、現代美術の美術的変遷の中での位置づけと、現代芸術の過去のものからの変容、現代アートは言葉で語られ、見方を形成し、いろいろな見方を楽しめばいい、というようなことを言っているような感じはするけど、違うかもしれない。
さらに概論では、現代アートの作品を過去の作品などとの関わりを評論しているが、言葉の意味が良くわからないかったり、参照される思想や文化、芸術論自身わからなかったり、作品の意図をなぜそこまで考えられるのかわからないと感じる部分も多かった。
演習部分はこの本のなかでは、比較的わかりやすいというか、他の章に比べるとなんとなく言っていることがわかる感じのする部分もあったが、それでも、文章が難しく解説や内容が理解できるとまでは言い切れない。

とは言うものの、現代美術作品について、写真入りでの解説となっているので、評論の流れを追ったり関連知識を見につけることで、ある作品に対してより多く自分自身で語れるようになるような感じもして、そういう意味で現代美術の教科書なのかも知れない。
また、多くの評論家や研究者が解説しているため、文体も異なり、わからなさの程度も異なって、なんとなくわかったような気がするような評論もあり、良くわからないなりにもいろいろな見方を知れたような気もする。ただ、難しいため、読み終わったあと何が書いてあったか思い出そうとしても、漠然とした読後感があるだけで、うまく思い出せない。

現代アートを理解したり、楽しむっていうことは、ある作品に対し(一種のジョークのような、パロディのような、一発ギャグのような作品に対しても)、文化文明論や哲学、思想などを踏まえた理屈付けをして、美術史や社会状況の中に位置づけ文脈をつくり出していくといった評論作業?を自分で行うことで、一種の知的ゲームのようなものということなのかという感じがした。

2008年9月17日水曜日

最新 宇宙学 を読んだ

最新宇宙学―研究者たちの夢と戦い (ポピュラー・サイエンス)(2004.5発行)を読んだ。

ポピュラー・サイエンスシリーズの1冊。他のを読んだことがないので、どういう位置づけのシリーズがよくわからないけど、タイトルから、一般に興味を惹きそうな話題について、新しい研究結果や現在の研究内容などを紹介する本ではないかと思い、最近宇宙や天文ものの本は読んでいなかったので、読んでみた。

内容は、太陽系と宇宙人、星とブラックホール、宇宙と銀河の3章に分かれていて、いかにも面白そうな章立て。本の挿絵や章立てから受ける印象は最新の宇宙のトピックスをわかりやすく紹介した本と思ったが、中身は結構専門的(内容そのものは式もなく一般向けにかかれているが)で、最先端のトピックすがちりばめられている。

ただ、わからない用語が説明なく出てくるところも多く、話題のなかでの解説自体が良くわからないところが多かったのが残念。
専門家の間でなにが問題となっているかを知るにはよいかもしれないが、フレアとか表面振動、あるいは、惑星形成や銀河の形成の不明なところなどについて、観測結果やモデルの妥当性の評価の話など、話がそれぞれが担当している専門的な細かいところの話になっていて、面白さという点では難があるように思った。

研究者が興味をもって、宇宙の謎を解き明かそうと、科学衛星や望遠鏡による観測データから、新たな知見や法則を得たり、導こうとしている姿勢などは感じられ、宇宙学はまだまだわからないことも多く、可視光や電波やX線などを分光器などを使っ観測手段の向上によって、最近になって、太陽系以外の遠くの星の惑星の発見が相次いでいることや、遠い星の表面の様子まで探ることができはじめていることなど、すごいことになっていると思った。

入門書や一般向けの概説本に飽き足らない人くらいを対象にしているのだと思うけど、それにしては、説明が一般向けを意識してか、かなりあいまいになってしまっていて、結局、どのようにしていろいろな仮説がでるのか、あるいは、証明されるのかが良くわからなかった。
もともと、天文普及・教育に関心ある人たちの天文教育普及研究会の会誌「天文教育」での連載をリライトして、それに数本書き下ろしを加えたものだそうで、対象が一般というより、天文や宇宙について興味を持って知識もかなりある人なら、丁度いいのかもしれない。

2008年9月14日日曜日

GEISAIを見に行ってきました。

GEISAI#11、今年の5月にGEISAI MUSEUM2があったものの、GEISAI#10以来、2年ぶりに行われるGEISAI。

初めて観に行ったのだけど、若い人を中心にいろいろな作品が見られて良かった。
もっと、村上隆の色が濃いのかとおもっていたら、比較的参加しやすいとても自由なアートイベントといった感じ。
ゲストや、審査員などの招聘には、村上隆の力がかなり効いているのだろうけど、各ブースは思い思いの個性的な作品の集合で、ちょっと多すぎて体力的にきついのが難点なところか、、、

いろいろと個性的なアイデアやイメージの集積といった感じで、ポップというか、なんだかわけわからない感じの多かったけど、いい感じの作品も時々見られて楽しかった。
ただ、凄いというか、これは何だ?って感じで印象に残る作品はみあたらなかった。(見ているうちに疲れてきてしまったからかもしれないけど、、、)

ステージでのセレモニーやライブパフォーマンスは雰囲気を盛り上げるのに一役かっているのは確かだけど、ブースの場所によってはちょっとうるさすぎる感じで、かわいそうなところもあった。

2008年9月12日金曜日

目からウロコの脳科学を読んだ

脳の働きや心、意思の発生、認識などがどうなっているか引き続き興味があるので、サイエンスライターの書いた一般向けの脳科学の本で比較的新しい(2年以上たってはいるけど)、
富永裕久著「目からウロコの脳科学―心と脳はここまで分かった!」(2006.3発行)を読んだ。

中身は、最新トピックスを含めた脳科学の最先端(第1部)と、脳の仕組みを説明した基礎知識
(第2部)に分かれていて、さらに見開きページごとに話題がまとまっていて、興味に応じてどこからでも読めるようになっていて、読みやすい構成となっている。

意識については、意識的な動作もその意識に上る前から準備が始まることから、そもそも意識というものも幻想だという考えや、量子脳理論については、知らなかった話なので、興味深かった。意識の発生メカニズムとして、他にも、ニューロンの同期や多数のニューロンが構成する複雑系からの創発など、さまざまな提案がされていて、どれも、正しそうで、もう少し詳細を知りたくなった。
また、感覚も記憶に依存していることや、記憶は確定的なものでなくて変化すること、感覚も記憶も脳で作られ、そのとき、錯視などのように、適宜変更されていることなどを例を挙げてわかりやすく説明してあって面白かった。
他にも、いろいろな障害から見られる事例や実験結果の紹介、ブレイン-コンピュータインターフェースの話や、現在の脳研究の広がりなどについても紹介されていて、目からウロコっていうタイトルが、いかにも読者をひきつけようっていうタイトルで、どんなものかとも思ったけど、基本的な構成もわかりやすく説明してあって、理解できたような気になれる本だと思う。

2008年9月11日木曜日

ジョン・エヴァレット・ミレイ展にいってきた。

Bunkamuraザ・ミュージアムで10/26まで開催されている、ジョン・エヴァレット・ミレイ展をみてきた。
私の好きな分野は、抽象表現主義などの抽象画なこともあって、このようなヨーロッパの具象絵画はあまり区別ができないし、惹かれる作品もあまりないのだけど、ラファエル前派のロセッティやミレイなどの作品は、高校か大学に入ったくらいの時にみて以来、気になっている作風の画家なので、今回の展覧会のチラシを見て「オフィーリア」の絵を見るのを楽しみにしていた。
今回の展覧会は、各国を巡回するミレイの大回顧展とも言え、代表的な作品が多数展示されていて、「オフィーリア」以外にも「マリアナ」や「旦那様への手紙」など、なぜか、心惹かれるというか、気持ちが揺さぶられる作品が多かった。
それらの絵は、精密で緻密な一方で、なんとなく幻想的な雰囲気がしたり、なにか言いたそうな、心の奥底の言い知れない感情が顔にでているような不思議な感覚にとらわれる作品だと思った。
そういった「オフィーリア」などの代表作は、説明を読むと絵の中にある花や静物にも暗示するものがあったり、物語性があってその表現の点でも評価されたりするようだけど、そういう説明抜きに、惹かれる作品だと思う。
ミレイの絵は、矛盾するというか変な表現になるけど、まるで絵を見るような美しい風景や情景、といった感じの鮮やかで緻密な絵が多く、ラファエル前派として位置づけられるのは、20代の若い頃の作品なんだろうけど、晩年の風景画は初期の頃と比べると、近づいてみると葉の形など細かいところは正確な緻密さを持っていないようなのに、離れてみるとものすごく緻密に描かれているような印象をうけ、非常にいい絵だと思った。

ミレイはロセッティと比べて知名度は低いと思うし、あまり良くは知らなくて、以前(といってもかなり昔)ラファエル前派展かなにかで、代表作「オフィーリア」を見た記憶はあったけど、他はよく知らなかったけど、いくつかは見たことがあり、改めてミレイのだとわかりよかった。また、今回は晩年までの様々な作品が展示されていて、比較的大胆な描写のものもあり、作風も変化していることも知った。
今回の展覧会は見ていて心地よいというか、良い展覧会だったので、久しぶりに図録も購入した。ただ、印刷したものと本物とでは、そもそも大きさが違って受ける印象が違うし、どうも色合いが印刷のほうが必要以上に濃いい感じがしたり、タッチの印象もなんか違う感じがするのが残念。印刷技術は進んでいるんだろうけど、なんか違う。

bunkamuraザ・ミュージアムは前回のロシア・アヴァンギャルドに引き続きの来訪。ここは、ほとんどの作品に説明がかかれていて、興味がある人には親切でいい。ただ、今回は、人気があるようで割と入場者が多く、混んでいるときは、人の流れが痞えてしまって、落ち着いて見れない感じがするのが難点な気もする。

2008年9月7日日曜日

芸術起業論

作品は私の好みではないのだけど、16億円で落札されるように、少なくても現時点では評価が高く、美術史上に名が残るであろうから、食わず嫌いというか、毛嫌いせず、今年再開されるGEISAIも行ってみようと思っているので、村上隆の本「芸術起業論」(2006.6発行)を読んでみようと思い、今週末読んでみた。

内容は、日本のオタク文化を、日本の文化的背景を含めて欧米の美術史の文脈中にストーリー付けすることで、欧米の美術界にうまく説明してマネーを引き込み、世界に通じる芸術を作り出してきたという自負を基に、欧米の美術界を踏まえた買い手とのコミュニケーションやニーズの把握、コンセプトなどのストーリー付けといった戦略や、作り方や売り方を含めたマネジメントまで、座標軸を据えたプロデュース能力が重要という話。
マネーの獲得の重要性や、日本の美術界が内輪で自由にやっていて、ぬるい状態になってしまっていること、芸術を生むには欲望や業というようなものや、自分の中の核心を発表することが重要なこと、芸術の矛盾などを抱え苦しみながらも挑戦を続ける地獄や、挫折を乗り越えることが必要で、芸術を成すには怒りや劣悪な環境がいい環境だったり必要だというようなことも書かれている。

言説の細かいところをいえば、矛盾を感じるようなところがある。例えば、金額が評価の軸としてわかりやすくマネーが重要でニーズを捉え、欧米美術の文脈の中にいれていくことが重要なことをいいながら、自分の核心を表現することこそ芸術となるようなことや自分の興味を追求し究明していくことが共感を呼ぶようなこといっていたり(自分の核心の表現をニーズを満たすように表現、発表することがマネーを稼ぐことになるというようなことを言っていて、それほど矛盾ではないかもしれないが)している。
しかし、それは、言葉の表現の問題というか、そもそも、矛盾をはらんだ問題のなかで、いろいろ考えていることを表現した結果とも思える。

歴史を知り、文脈を理解することの重要性にも触れていて、結局は、欧米の異文化への瞬間的な驚きにうまく乗って、たまたま成功したのではないかという感じも捨てきれないものの、現代アートは非常にコンセプチュアルなものになっていて、ストーリー付けも言った物勝ちというか、優れた評論家に評論されたもの勝ちのような感じがするなかで、確かに成功しないと芸術は埋もれてしまうことから、プロデュース力も重要だと思った。
また、実際に評論などもあまり読まずに、聞きかじり情報から、村上隆の作品のイメージやプロデュース力でやっていくところや、オタク文化を美術的な価値あるものとして紹介した一方で、ナルミヤインターナショナルとの訴訟を起こすことへの矛盾などもあって、嫌いだったのだけど、欧米文化の中へ入れ込むのには、情けないような敗者意識や現実逃避のような平和で楽観的な子供っぽい多層文化と日本古来の汎神信仰からつなげられる「かわいい」キャラクター文化といったような位置づけの仕方や、訴訟問題も本人のなかでは、芸術を文脈中にいれることと、それを商業的に利用することとの違いや、権利確保がこれからの美術作家を擁護するというようなことをかんがえているのかなど、多少肯定的にも捉えられるようになった。

どうも、本を読むとその意見に影響されやすくて、肯定的に捉えようとしてしまうのだけど、まあ、いろいろな考え方を知るのはよいことだと思うので、この本は、文章自体は平易で読みやすく、読んでよかったと思う。

2008年9月6日土曜日

行動ファイナンス入門 を読んだ

久しぶりに経済学というか、ファイナンス理論関係の本といっても入門書、
岡田克彦著「図解でわかる行動ファイナンス入門」(2007.7発行)を読んだ。

内容は、市場の動きやお金の流れなどの経済について、理想的に仮定した経済人による行動としてとらえた伝統的ファイナンス理論では説明仕切れないアノマリーも含め、非合理的な人間心理による行動を考慮してとらえることで、現実の経済現象をより正しく捉える(ということだと思う)行動ファイナンス理論の入門書。
最初の章は、伝統的な従来のファイナンス理論の紹介として、リスクとリターンや標準偏差などの基礎的概念の説明や、株式価値の決定方法、リスクプレミアムやモダンポートフォリオ理論について、平易に解説されていて、続く章では、それらの理論にあわない例(アノマリー)とそれを説明するための理論の修正などについて説明され、最後の章で、従来の理論の前提となる、参加者が経済合理性に基づき行動する効率的市場ととらえるのではなく、ときには非合理的に判断する人間心理を考慮した行動ファイナンスの紹介となっている。

行動ファイナンスについて知っている人にとっては、人間心理による判定の違いの例について、説明が丁寧であらためて、非合理性を感じることはできるものの、目新しい点はなく、あくまで入門書として、気楽に読むのに向いた本。
式もわずかに使われているのみで、それも概念の説明が中心で、厳密に意味を理解するにはより専門的な本を読んだほうがいいと思うし、非合理的な判断の例が特に市場への投資という点では、その影響がわかりにくいものもある。しかし、伝統的なファイナンス理論との対比も含めて、行動ファイナンスとはどんなものか、人間の非合理的な行動とはどういったものかなど、基本的な概念を知るにはわかりやすくて良い本だと思った。

2008年9月4日木曜日

考える細胞ニューロン を読んだ

櫻井芳雄著「考える細胞ニューロン―脳と心をつくる柔らかい回路網 (講談社選書メチエ)」(2002.5発行)を読んだ。

内容は、心を生み出す脳の働きを知るために、脳を構成する主要な細胞であるニューロンとその働き、ニューロンが構成する回路網の動きなどについて書かれていて、複数のニューロンが参加して造られる機能的なセル・アセンブリにより、ダイナミックに変化する回路網と情報処理が行われることを説明し、記憶や個性の表れ方についても、解説されている。

比較的新しい知見も含めて、説明がされていて、一般向けに平易に書かれていて読みやすかった。
脳に関する他の本では、単純化されたニューロンについて、その構成や機能を書かれていることが多いが、この本では、ニューロン自身、いろいろな形態があり、非常に多数のシナプス結合を持ち、複雑な化学反応でシナプス間の情報伝達が行われていること、そして、単一のニューロンがいろいろな情報処理に関わることなどが書かれていて、ニューロンが、その複雑さと可塑性について、これまで思っていた以上に柔軟でダイナミックな変化を行う細胞であることを知った。
また、脳の機能地図なども、それほど明確に分かれているわけではなく、多数の人の平均をとるとそのようになるというような感じで、脳の構成や働きは思っていた以上に一人一人異なることもわかった。
脳の情報処理をする単位とも考えられる、複数のニューロンが参加するセル・アセンブリによるダイナミックな情報処理については、まだ、明確になっていないところが多分にあるようだけど、ネットワーク自身が多数のセル・アセンブリを造って記憶や認知、判断などを行うというダイナミックで柔軟な構成で脳が機能しているという考えが述べられていて、まだまだ、脳の動作など不思議な点がたくさんあると思った。
また、脳は非常に柔軟なネットワークもち、記憶や判断を行いながら、逐次、構成自身も変化させていくものであり、年をとっても、その変化は続いていて、これまで知られていた以上に脳の可塑性が高く、このことを示す報告が近年増えていることも判り、年取っても脳に刺激を与えることで、まだまだ、脳の機能を高めていくことは出来そうだと思った。


最後の方は、個性のはなしに絡んで、IQなど測定方法自身の問題を考慮せずに評価をしてしまうことや、権威主義に陥ってしまう硬い考えの人に対する、非難というか、問題をあげつらっている感じもするが、全体としては、最近の脳に関する知見を含め、脳の働きに関してわかりやすく書かれていて、良い本だと思った。



2008年9月2日火曜日

現代アートナナメ読み

暮沢剛巳著「現代アートナナメ読み 今日から使える入門書」(2008.7発行)を読んだ。

あとがきに、
現代アートの平易な入門書として企画されたものである。第1部「ゲンダイアートナナメヨミ」では、15の関連キーワードを通じて現代アートの様々な側面にスポットを当て、第2部「アートの見方ナナメヨミ」では、多くの読者になじみの薄い美術評論家諸氏の解説やマッピングを、第3部「アートを観に行くナナメヨミ」では、美術館やパブリック・アートを紹介すると同時に、アートフェアやアートNPOの簡単なガイドを試みるなど、「ナナメヨミ」というキーワードを軸に据えた多角的な内容となっている。(以上、あとがき より)
とあり、現代アートの入門書とのことなので、現代アートはどうもよくわからないけど、なんとなく興味もあるので、読んでみた。

タイトルなど中身を読む前には、入門書ということで、代表的な作品を例に、批評家の意見や見方を例示したり、それらが発表されたときの状況や価値感の移り変わりなどを説明するようなものかと思った。

中身は、著者が書いたあとがきにある通りなんだけど、読んだ感じでは、第1部では盗作や国策、市場、観光、スポーツ、犯罪、医療、経営、をキーワードとして、関連した話題についての質問というか疑問に対し答える形式で、現代アートがいろいろな形で社会に関わっていることについて、事例などを挙げた説明がされ、第2部は現在の現代アートにいたるアートの評論状況や批評家ごとの事例などの説明となっていて、第3部は、美術館やカフェ、アートNPOの紹介やアートの買い方など、アートを楽しんだり参加するための案内書のようになっている。

第3部は入門書としての役割を十分果たしていると思うものの、第1部はアートプロジェクトや作品がアートと社会の関わりを説明するための事例としてはでてくるものの、メインは社会との関わりの説明で、アートの入門書というより、文化人類学や社会学のアートに関するエッセイのような感じだと思った。
また、第2部は対談は、評論の現状ということで、知らない評論家や作品作家などが出てきてよくわからないところも多いものの、評論家と現代アートの状況、アート教育の現場の状況などを知ることができ興味深かったものの、評論家諸氏の解説は、美術評論そのものをそれほど読んだことがなかったため、用語や内容が難しく、ほとんど良くわからず、字面を追うだけというか、それこそ、ナナメヨミに終始した感じだった。

いわゆる入門書の持つイメージと異なるアートの入門書だったけど、現代アートという評価の定まっていないものを見るための関連知識の提示をしているという点では、読む価値はあったと思う。

2008年9月1日月曜日

8月に見てきた展覧会や読んだ本

今日は、なんだか体がだるくて、少し調子が悪いので、家でごろごろしているので、8月に行った展覧会や読んだ本を整理してみた。
8月分のブログ記事などから整理すると、

8/8に、東博の、対決-巨匠たちの日本美術展
8/21に、都美術館の、「フェルメール」展と、
    東博の平常展(特集陳列は六波羅蜜寺の仏像など)
8/28に、国立近代美術館の、「エモーショナル・ドローイング」展、「壁と大地の際で」展

といった感じで、今月は都内に行く機会が少なかったので、交通費の節約もあって、少なめ。

読んだ本は、読んだ順に
アートウォッチング(現代美術編)
八月の路上に捨てる
パークライフ
どんな仕事も楽しくなる3つの物語
中陰の花
蛇にピアス
脳と創造性
この絵、誰の絵?百の名作で西洋・日本美術入門
ハリガネムシ
スティルライフ
永遠の旅行者 上下
ゲーム脳の恐怖

といった感じで、芥川賞関係の小説と、アート関係、脳に関するものが、今の興味の中心。
最近は節約モードのため、本も図書館で借りるのが中心なので、どうしても、最近の本が少なくなってしまう。まあ、新しければいいわけでもないので、いいのだが、、、

2008年8月28日木曜日

エモーショナル・ドローイング、壁と大地の際で、を見てきた

近代美術館に、現代美術への視点6 エモーショナル・ドローイング展を見に行ってきた。

今日は天気も悪く、おとといから始まったばかりなのと、奈良美智といった著名な作家の作品はあるものの、現代アートの範疇の展示で、あまり一般的でないからか、ガラガラでゆっくりみることができた。他の展示もがらがらだった。

レイコイケムラの絵はぼやっとしたというか、にじみでかかれたような顔の絵や、もやもやっとした感じのものが多く、顔がへんなところにあったりだし、奈良美智のドローイングは、封筒の裏や、切れ端のようなものに書いた小品が多く展示されていたり、奈良美智の世界の家が造られていたりで、かなりまとまって作品をみることができるが、最近の絵はまだ、動きというか、なにか言いたげな子供といった感じで、独特の印象を受けるけど、初期の頃?(展示中に年号が入っていたので勝手に製作時期だと思っただけかもしれない)のものは、どうもただのいたずら書きにしかみえない。他のビデオアートやアニメーションもなんだか良くわからない。
とはいうものの、辻直之の2作品はじっくりみて、なんていうか、昔(80年代くらい)のヨーロッパのほうのアニメーションであったような感じもするアニメーションだった。

このような「きもかわいい」系のアートは、理解できないというか、あまりみていて楽しいというか感動するような、なにか引かれるものがあまりない。
けれど、最近の動向とかや、なにがいいのかが気になるので、こういったまとまった展覧会があると見に行ってしまうのだけど、、、

そんな感じで、全般的に良くわからないというか、惹きつけられるようなものや、見ていて楽しいというか見入ってしまうような作品はなかったのだけど、今回の展示の中で気に入ったのは、キム・ジュンウクの作品とアディティ・シンの作品。
キム・ジュンウクは、キモかわいい感じというかかなり不気味な人形のような女の子のようなものを描いていて、今回の展示のなかでは、具体的だったからかもしれない。
アディティ・シンの作品の、鳥が小さく描かれているものはよくわからなかったけど、白黒の花というには不思議な感じの絵が何か引かれるものを感じた。(これも今回の作品のなかでは、従来の抽象絵画っぽいからかもしれない。)



他に、「壁と大地の際で」、と題して、所蔵作品を中心とした30点ほどの展示も行っていた。
平面作品を、壁、大地、という観点から読み解くことを意図した展示。
垂直な壁と水平な大地、第3の平面としての平面美術作品、絵画は窓としての垂直な面から、地面など水平な面となったり、地面が立ち上がることで水平から垂直へ展開することや、いろいろなものを平面に移しこむことなど、平面というものを改めて考える展示だった。
佐伯祐三の作品や、白髪一雄、ジャン・デュビュッフェ、荒川修作、とかなりいろいろな作家が展示されていて、企画展よりこちらのほうが、私的には惹きつけられる絵の多かった。
デュビュッフェ「草の茂る壁際」や高橋秀「月の道」はどちらも、石切場やむき出しの地面や地層の断面のような遺跡のような感じでなんだかひきつけられ、横山操の「ウォール街」はそそり立つビルに圧倒されるような感じがして、見ごたえのある作品だった。

今回の企画展はどうも理解できなかったものの、現代アートの若手の作品を見られ、入場料も安めだったのと、時間があったので他の展示や所蔵コレクション展を見ることができたから良かった。

2008年8月26日火曜日

ゲーム脳の恐怖

だいぶ前に騒がれた、ゲームをしすぎるとキレやすくなるとか、記憶力や脳の機能が悪くなるとかの議論を巻き起こした本。

脳関係の知見に加えて、それらしいデータと理屈付けがされているので、ゲームをすると人格形成に大変な問題が生じるのが明確な事実のように思える。
しかし、内容にはかなり疑問があり、サンプルとしての学生の数など不明で結果を議論するような試験となっているかわからないし、試験方法の正しさがそもそも明確になっていない。さらに、ゲーム脳の根拠として、ゲームをすると脳が活動的なときに出るベータ波が減って、アルファ波とベータ波の比率が痴呆の人と同じになり、小さい頃からゲームを多くやっていた人は普段もベータ波が少ないから、前頭前野をあまり使わないゲーム脳となり痴呆のように記憶力や感情が減るというのは、一見それらしいけど、根拠が不十分で議論がおかしい。以前は集中したときやリラックスしたときにアルファ波が強く出るとかでアルファ波がでる音楽とか集中法なんかがあったと思うけど、この本に従うと、物事に集中したりリラックスすると痴呆にちかづき記憶力や理性的な判断力も落ちてしまうことになってしまう。
この本の根幹ともいえる脳活動の測定と判定方法が疑問な上、著者も特に脳波の専門家でも医学部の教授でもないようで、ゲームをやったからといってゲーム脳などと分類されるような前頭前野の活動低下とそれが人格や記憶力に大きな影響を与えるという根拠は不明確なよう。

ただ、なんとなく、ゲームばかりやっていると、脳の発育に良くないような気がするし、子供の頃には5感をフルにつかって活動的に育つほうが良いような気はするので、ゲーム脳のようなことが起きる可能性があるかもしれないっていう感じがするあたりに、こういう本が話題になるのはわかるような気がした。

2008年8月25日月曜日

永遠の旅行者

経済小説「永遠の旅行者 上・下」を読んだ。

Perpetual Traveler(PT,永遠の旅行者)とは、どこにも定住地を持たずに、旅行した状態を続けることで、住民票を除き税金を合法的に払わないという(各国の法の変更などによって、税金の問題は変わるが、、、)生き方で、この小説では、弁護士をやめPTをしながら生活する主人公が、引き受けた遺産相続に関する依頼を遂行するなかで遭遇する出来事を、贈与税や相続税、海外や国内、個人や法人などの資金の流れや課税方法などを交えてミステリー調に書かれている。

著者の橘玲は、経済というか税金や社会保障費などの国と個人の金の流れのあまり表立っては言われていない歪や、それを利用した儲けの可能性、合法で情報不足から損をしないようにする資金の蓄え方などについて、一般向け投資本やフィクションの形にした経済小説を書いている。以前、「お金持ちになれる黄金の羽の拾い方」を読んだことがあり、税金の知識や情報収集力の差が資金を増やす上で大きいことなどが書かれていて面白かったので、小説にも興味がわいたので読んでみた。

この小説は、経済や法律を駆使した物語や経済知識を得る取っ掛かりとして考えると、ミステリー調のストーリーにハワイや伊豆、ニューヨークなどの生活環境や雰囲気がわかるし、経済用語が多く出きて、オフショア市場やタックスヘイブンを利用した税務上のテクニックなどが、詳細に書かれており、課税や節税はこのように考えるのかと勉強になるように思う。(あくまでもフィクションで金融機関は基本的に架空、内容はあくまで創造上のもので、コメントも私的見解との但し書きはあるが、、、)最も、私の場合税金対策の効果があるほどの資産があるわけではないのだが、、、

ただ、小説として考えると、上下2冊にわたる大作となっていて、風景や状況説明が丁寧といえば丁寧なのだが、冗長な感じで、そんなところの描写はどうでもいいから早く物語をすすめてほしいと読みながら感じるところが多かった。特に第1章は登場人物やその背景の書き込みをしているのわわかるけど、長すぎて少し飽きてしまう感じだった。
ストーリーとしては、遺産を税金を払うことなく孫娘に相続させたいという依頼が舞い込み、その依頼者の息子と孫娘は外国へ行方をくらましたのち孫娘だけを依頼者が連れ帰って息子の死亡宣言をしていたり、依頼者は病気で入院していて、その娘は精神が崩壊しかけて閉じこもっているし、さらに死亡宣言された夫は多額の借金を抱えて行方をくらましていたり、その不良債権をめぐって暗躍する人がいるなど、様々な登場人物がでてくる。また、娘がさらわれたり、借金や娘の父などをめぐって隠された謎がでてくる。さらには、ニーチェのツァラトゥストラはかく語りきを引用したり、ストーリー展開をいろいろと工夫している感じもするけど、このところ、続けて読んでいた小説と比べると、丁寧な描写だが説明書を読むようで、感情をゆさぶるというか、引き込まれるようなすごさや面白さは少し足りないと思った。

とはいえ、このようなPTとして時々都市によりながら、南の島や海などを渡り歩くような生活が、丁寧に書き込まれていて、このような生活ができたらいいと思った。最も、一人でずっとふらふらしてると老後が心配。PTできるようならお金もあって老後も安心かもしれないけど、、、

2008年8月22日金曜日

東京国立博物館

木曜日に、フェルメール展を見た後、時間があったので東博に平常展示を見に行ってきた。平常展とはいっても、特集陳列のひとつに「六波羅蜜寺の仏像」があったので、見たいと思っていたので丁度よかった。

東博は、薬師寺展や対決巨匠たちの・・・展などの特別展で行ったけど、それだけで時間がかかるし、大抵混んでて疲れてしまって、企画展が行われる平成館の、それも特別展示室にしか行かずに終わってしまうけど、考古展示室もあるし、敷地内には、本館や東洋館、法隆寺宝物館などもあって、見所はたくさんある。

表慶館以外の建物は、常設展示があるので中に入れ、最初に東洋館に入った。
こちらは、東洋といっても、インド・ガンダーラの彫刻や西アジア地方からエジプトの考古美術まで展示してある。
入ってすぐのところにある、インド・ガンダーラ彫刻は、仏頭や如来像、菩薩像などもあったが、パキスタンとかアフガニスタンのほうの仏像は、顔つきが目鼻立ちがすっとしていて、西洋人っぽい顔つきで、仏像の顔もいろいろだと思った。
階段をのぼってエジプトなどの考古美術が展示されている部屋に移動すると、入った正面にミイラが、棺が開かれて状態で置かれていて、ガラスケース越しだけどミイラが見えるようになっていて、グロテスクで驚いた。他にも、エジプトや西アジア、東南アジアの考古美術品から、クメール時代やアンコール時代の金属器や彫刻、最近のものではバティック染めなどもあり、他にも、中国の考古遺物から、陶器や漆、朝鮮の彫刻など、多くの部屋に様々な物が展示されていて、広く、アジア地域の考古学的な出土品から美術品や工芸品を興味深く見た。
また、東洋館はつくりとしては3階だてのようだけど、途中に階段で少し上ると別の展示室となっていて、少しずつ上ると部屋があるような感じの立体的な部屋構成で、建物としても内部構造が変わっているように思った。

次に本館に移動したところ、「六波羅蜜寺の仏像」(これは、本館に垂れ幕とかかかっていて企画展のような目立ち方をしていた。)以外にも、「仏像の道 インドから日本へ」とか、「二体の大日如来像と運慶様の彫刻」などの特集陳列が行われていた。
東洋館をのんびりみていたら、4時過ぎになってしまったため、特集陳列を先に見ることにした。
「六波羅蜜寺の仏像」は宣伝(垂れ幕など)に乗っている地蔵菩薩立像は、私の持っている日本の仏像のイメージに相応しい、落ち着いた静かな感じでいて、居並ぶ仏像の中でも印象深いものだった。この地蔵菩薩像は左手に宝瓶ではなくて髪の毛の束を持っていて、右手も何も持たず印を結んでいるところが特徴的ならしいです。髪の毛はちょっと気持ち悪いですが、、、
他に、運慶とその息子の像もなかなか写実的で良い像だったし、運慶の地蔵菩薩坐像(これは、先日までの企画展の運慶・快慶対決で展示されていたものと同じよう)などもあった。他の特集陳列の「仏像の道 インドから日本へ」には、インドから日本へ仏教が伝わっていき、各地で造られた仏像が展示されていた。パキスタンや中国西域?の仏像があって、これは、東洋館でみた西洋人っぽい顔をした仏像で、中国の仏像にもいろろあるんだと思った。最も日本の仏像も顔つきがいろいろあるが、、、また、模造だけど、薬師寺の聖観音菩薩立像があって、薬師寺展のときみたものを思い出した。

博物館の平常展を見たのは、たしか、学生の時以来なので、もう15年以上前になるから、本館、東洋館とも入ったことがあるような気もするけど、本館は少し記憶にあるが東洋館まったく覚えがなく、さらに展示品については、見たことのあるものもあるんだろうけど、ここでみたという記憶はなく、どれも初めて見るような感じで、楽しかった。

東洋館では、考古遺物の年代などを見て、紀元前5~4千年頃の打製石器はまあ、サルのような動物状態だった人間が何かの拍子に石でものを砕いたり、動物を倒したりして、さらに割れた部分で肉を裂いたりすると便利なのを知って、そんなことをするように進化していったというのは、まあ、ありそうな感じがするけど、そういった状態から、千年程度あとの前4千年ごろには土器とかを使っていて、しかも、そこに飾りつけをしたり、持ちやすいようにとってをつけたりしているし、前3~2千年頃には、土偶や人形を作るなどの文化を持っているのがとても不思議な感じがした。今の時代、サルとかが道具を使ったりするとか、オランウータンは3歳児程度の知能を持つとかってニュースがあるけど、ああいった動物が1世代を10年として、数百世代ぐらい生まれ変わったところで、人形を作ったりするような文化まで形成するとはイメージしにくくて、そんな勢いで進化していったのが不思議。なんというか、今の人間と数千年前の人間の間にそれほどの差を感じないけど、そこからさらに数千年前とでは、人種としてというか知能レベルというか外界の認識や考える能力において大きな溝があるように思える。

都美術館のフェルメール展とは異なり、企画展をやっていないため、夏休みシーズンとはいえ平日なので、展示室は閑散としていてゆっくり見られた分、最初に東洋館からじっくりみたため、本館の半分以上と平成館と法隆寺宝物館は見る時間がなかったので、また今度行ってこようと思う。

2008年8月21日木曜日

フェルメール展を見てきた。

都美術館で開催されている、「フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち」を見てきた。
フェルメールは、光の天才画家とあるように、光が窓から差し込むような絵が多く、光の扱いがたくみで、評価の高い17世紀のオランダの画家。今回の展示は、数少ないフェルメールの作品のから、7点も展示され、他に同じ頃活躍して互いに影響を与え合ったと思われ、デルフトにゆかりあるというか、デルフトスタイルといわれる画風の巨匠たちの作品を展示した展覧会。

なにしろ、フェルメールはフェルメール作とされているものが30数点ほどしかなく、贋作とされるものも時々ニュースになるし、昨年はわずか1点だけで、企画展のタイトルが「フェルメール『牛乳を注ぐ女』とオランダ風俗画展」となってしまう展覧会を国立新美術館が開いてしまうぐらい(まるで、”モナリザ展”のような1品を見るために大勢集めてしまうような展覧会)だから、今回7点も展示されるのは、確かにめったにない機会だとは思う。
なので、私も美術検定を受けようと思い始めたところでもあるから、あまり、好きな分野というわけではない(決してきらいというわけではないけど、違いがよくわからないのであまりみていて楽しくない感じ)が、見に行ってきた。

フェルメールの絵については、印刷物やポストカードで見ると明暗や色彩が少し濃い目になっているが、実物は、比較的、色が薄いというか淡くて柔らかな風合いを感じさせ、確かにいい絵だと思った。
解説などで言われるように、窓から差し込む光が建物の中の人や物、床に作る明かりや陰がとても自然で、全体にわたって丁寧に描かれているし、日常のある風景のような場面ではあるものの、そこには物語性を暗示するようなものが描かれていたり、いわゆる絵を読み解くという時の要素が配置されているし、少し離れてみたときの全体のバランスもいいというか、不自然なところがなく、色合いも多少淡いけど、それも建物内の空気感を感じさせ、色がきつかったりしないので、目にした時にいい感じだと思う。
ただ、このように日常を自然にうまく描く画家というのはフェルメールだけに限らないように思う。そうは言うものの、他の作家があまり思いつかないのでやはりすばらしいのかもしれないけど、私があまり知らないだけで、同じようなうまい絵はあるのではないかと思う。

絵を書く人は日常的に常に絵を描いていて、そのなかから、独自のスタイルがあったり、いくつか出来のいい作品が認められて世にでていくのだと思うから、30数点しか残っていない評価の高い画家というのは良くわからないというか、それほど、フェルメールの絵が他と違って見るものの心を打つというか、評価が高いのが良くわからない。少ないからこそ有名なような気がしてしまう。最近フェルメールのだと認められたようなものもあることから、もともとは多数の絵があったのに、なくなってしまったのかもしれないから、今ある絵だけで、評価が決まったわけではないのかもしれないけど、、、、

フェルメール以外のデルフト・スタイルの画家ということで、私は知らない名前ばかりだったけど、デ・ウィットの「ヴァージナルを弾く女」は、以前英語の勉強をしようと思って買った、英語のテキスト、The Universe of English のなかで、絵の鑑賞方法だったかそういったテーマの文章で出てきた絵で、この手の絵はそういう風に物語を考えながら見るのかとか思った覚えがあって、本物をここで見にするとは思わなかった。(勘違いしているかもしれないけど、多分この絵だったと思う)

デルフト・スタイルは、それまで、貴族の壁を飾るための、宗教画などから、建物や日常の家庭などを主題として、透視法や空気遠近法を駆使した遠近感のある絵を描いていることが特徴らしく、今回、ほぼ同じところを別の時期に書いた作品を並べて展示していたり、同じ建物の中を描いた違う作家の作品や、さらには、最近撮影した写真などとの比較もあって、見たままに描いたものや、絵としてのバランスを考え柱の配置や感覚を変えて描いたものなどが並んでいて、少し興味深かった。



まあ、フェルメールは作品数が少ないのに関連する本は多くて、解説や評論家の話とかを読むと、光の取り扱いがたくみで、見るものに静かな感動を与えるとか、謎解きがどうこうとか、光の当たった衣の襞の様子かどうこうとか、たくさん解説されている評価の高い画家なので、見る価値はあるかなって感じ。

2008年8月17日日曜日

スティル・ライフ

第98回(1987年下期)芥川賞受賞作である「スティル・ライフ」を読んだ。
内容は、主人公がバイト先の工場で、どこかつかみどころのない佐々井と知り合い、システマティックな株の売買を、表向き主人公が行う形で手伝う3ヶ月の間に交わされる会話や主人公の空想によって、独特の世界がつむがれたもの。
読後感としては、本文中にも、世界がどこかに上昇していくようなイメージや、「高い軌道のうえから自分たちを見ていたみたい」とか、「別の星から送り込まれた」、といったような表現に引きづられたわけではないと思うが、静かに離れたところから世界を見るような、独特の感覚が表現されているように感じた。この静かに観察するような感じが、タイトルのスティル・ライフ、訳すと静物?にあらわされているのだろうか?
この感じは別の言い方をすると、上からというか離れたところから物事を理知的にみるというか、理系的(理系、文系とかって分け方はあまり好きではないでけど、、、)なというか、どこか突き放したような感じで、静かに美しく広がり進行する世界が語られているイメージ。
読み手が引き込まれていくような激しさとは違って、静かに迫ってくる感じで、一緒に収められている、ヤー・チャイカにも共通しているように思え、作者の持つ世界観や文章表現によるものと思うが、この感じは私好みだと思った。
このところ、芥川賞って、特定の型にはまるものではないものの、こんな印象を与えるものだったっけ?という感じがしたけど、この作品は受賞作品にふさわしい感じがした。とはいうものの、この作品はすでに20年以上前のものになるから、最近の賞の傾向というか、文学の方向性についていけてないというか、理解できていないだけなのかもしれないと思ったりしてしまう。

2008年8月16日土曜日

ハリガネムシ

第129回(2003年上半期)芥川賞受賞作、ハリガネムシを読んだ。
主人公は、どうでもいいようなソープ嬢と関わって、だんだん破壊的な暴力行為に目覚め、一方、暴力行為に巻き込まれ、堕ちていくような話。
どうも、最近は精神が弱っているのか、暴力的な部分を読むと痛々しくてつらいところがあって、その部分の印象が強くなってしまって、ストーリ全体のイメージが薄まってしまう。
ソープ嬢やヤクザが属する破滅的な暴力的世界へ直接入っていくような作品ではないが、主人公の内なる乱暴な気持ちがソープ嬢との関わりのなかで明確になっていく一方、主人公は高校の倫理の先生であったり、高校では以前にリンチ事件をもみ消していたり、最近のリンチ事件の生徒指導をしていたりで、表向きの正義と内に秘めた悪との対応であったり、正義の表面的な部分などを揶揄しようとしているような気もするけど、今ひとつ明快さというか、訴えるものが少ないように思った。
蛇にピアスを除くと、このところ、さらっとした淡白な感じの小説を多く読んでいたせいかもしれないけど、話の展開がうまくつながらないっていうか、つながらなくても妄想シーンが広がったりして、読んでてイメージが膨らむようならいいんだけど、どうも読んでいる流れが止まるというか痞えてしまうような感じで、話のつながりが悪い感じがした。
それでも、人間の内に秘められた暴力の表れや、暴力的行為への傍観ー参加、加害者ー被害者など変化して展開し、人の内面の変化や、激しい描写など、なんていうか、私の持っている芥川賞のイメージに当てはまる作品だった。

2008年8月14日木曜日

脳と創造性

脳と創造性「この私」というクオリアへ、を読んだ。
ここ数年というか、もう少し前からかもしれないけど、いろいろな番組や対談などで、見かけるようになった茂木さんの本。

内容は、コンピュータやITが発達した今、人間の創造性はこれまでにないくらい重要なものとなっている、創造性というのは、一握りの天才がすばらしいものを生み出す能力として捉えるのではなく、生物として人間が発展してきた過程で生成、獲得してきた能力であり、日々の会話も非常に創造的な現象であって、創造性は誰でも持っている能力である。しかし、創造性の現れ方は様々であるのに、社会的な文脈に落とし込んでしまうことで、天才などに限られたものと認識されてしまっている。脳科学などの最新の知見を参考に創造性というものを捉えなおし、常に変化し新しいものを生み出している創造的な脳も、進化というか自己組織化といった自然界の傾向の上で存在していて、創造性も脳も特別なものと捉えるのではなく、誰もが脳を使って創造していて、創造的に生きることが良く生きることにつながる。というようなことが1章までに書かれていて、この本の主題のよう。以降の章では、コンピュータのような予定調和的な論理的推論とは脳の働きは大きく異なり、ある特定状況からの逸脱とも言える直感や、不確実で複雑な状況を限られた知識や状況データから決断する際の感情システムの役割、外部や他者との関わりの必要性、苦しみや悲しみから破綻の淵、退屈な状況、といったさまざまな状況と脳の認識と創造性との関連、いろいろな現象をリアルなものとして感じるクオリアをその時代や背景といった三人称的文脈でなく、一人称的文脈でとらえることの重要性、つかず離れずの外界との関わりが、ノイズや偶然の外界からの刺激を脳内のダイナミズムに適度に取り入れられ、創造的なものを生み出す契機となること、など、創造性と脳のかかわりやそのような脳ができてきた、自己組織化という自然の特性について語られている。

茂木さんは脳科学者の立場から本を多く書かれていて、少し興味はあったものの、なんか、テレビとか雑誌に良く出てくるような人は、大衆におもねっているような感じがして、これまで読もうとはしていなかったのだけど、最近時間的余裕があって、本を良く読むようになったのと、認識することや脳の働きに興味があって脳科学関係の本を読み出したのと、絵をみることとか美術鑑賞についての本とか読むうちに、美術鑑賞することを創造的行為としてとらえると、脳で認識するということ、特に感覚系から入って言語化されて意識で認識される過程にいたるまでの、無意識レベルの重要性などに興味が沸いてきたこともあって、先日の横浜美術館所蔵作品からの企画展の選者の一人であったり、脳と見ることや創造性に関する比較的一般向けの本を探すと茂木さんの本が多く、図書館でみかけたので借りて読んでみた。わりと読みやすく、感情が進化の過程で残った制御されるべきものや、選択の際の要素のひとつではなく、決断や判断といった脳の高次システムに強く関わっているという最近の脳科学の知見なども散見され、それなりに面白かったが、一般的な話に抑えられているため、少し物足りなかった。


2008年8月13日水曜日

蛇にピアス

第130回2003年下半期芥川賞受賞作である、蛇にピアスを読んだ。
いきなり、スプリットタンや身体改造などの言葉や、舌のピアス、拡張とかって、もう痛々しいイメージが突き刺さって、気持ち悪いというか痛い印象を引きずってしまう。
スプリットタンの蛇のような舌を持つマッドな男と、その舌に引かれスプリットタンに惹かれ、刺青も入れてしまう女、顔中にピアスをした人を殺すのに快感を覚えるようなサディスティックな男など、破滅的で危険な性格の若い男女の世界。それでいて、相手を守ろうとするようなある意味まっすぐな感じや、単純なあどけなさというか無邪気さも感じるようなやり取りがあるような本。ただ、痛かったり危ない印象が強くて、この手の内容の本はイメージが先行してしまい、本の中とはいえ、私の日常にはない世界で危なくて、弱い私には、あまり近寄れない世界。

2008年8月11日月曜日

中陰の花

このところ、続けて読んでいる芥川賞受賞作、今回は「中陰の花」(第125回、2001年上期受賞作)を読んだ。
作家の玄侑宗久については、雑誌などに載せられたエッセイというか対談のようなものは、時々読んでいて、心の時代とかって叫ばれる、現代における宗教の位置づけというか、問題や悩みに対する向き合い方のような話だったと思うけど、仏門の立場にいながら積極的にメディアへかかわっているように見えて、寺などでの説話をするだけでなく、小説が芥川賞を受賞しているということから興味深く、今度読んでみようと思いながら、これまで、小説を読んだことがなかった。
この作品も、主人公は地方の寺の住職で、不思議な力を持つウメさんの亡くなる少し前から葬儀や四十九日の法要の頃に、ウメさんに関することや近所の人の不思議な宗教的とも言える経験の話や、住職夫婦が感じた不思議な体験と水子への供養などが絡まって、死んでからどうなるといったことを、住職自身死んだことないしわからないとか、そのようなことを聞かれた場合は相手次第で説明しているとはいいながらも、光が見えたりといった宗教的ともいえる体験や死後や成仏ということが、取り扱われている作品。すべてにつながったり光や音が聞こえたりする人の話なども織り交ぜられているが、虫の知らせのような夢見や、のっかられるといった体が重くなる現象を主人公の住職自身が体験しながら、それが、ウメさんとの関係が思い当たるフシとしてあるが、関係性が良くわからなかったりで、不思議な体験といっても、実際にもたまたまという感じで、ありそうな出来事でもあり、様々な出来事が強引に結びつけられることもなく、現実的な範囲に近づけられていて、死後とか成仏とかいったことが、理解はできないけど、なんとなく納得しやすい形になっていると思った。
題名にある中陰というのも仏教用語で、死後、魂がまだあの世に行かず、途中にある状態のことだそうで、ほかにも仏教用語がでてきて、よくイメージがつかめないところもある。かといって、難しくて読みにくい話というわけではなく、小説として読みやすい。
特に仏教の用語での極微や空が素粒子やエネルギーとして捉えられる説や、極楽浄土までの距離を49日で行くにはちょうど光の速度になる話などは、たまたまというか、そのように設定したのではないかっていう気もするけど、あまりに理由もなくただ不思議なことを理解しろというのは現代的でないこともあって、面白いと思った。
ただ、エッセイとか対談などを読んで、現代における心のおき方などのような仏教で、いろいろな考えなどを期待すると少し物足りない感じがするかもしれない。

2008年8月9日土曜日

対決 巨匠たちの日本美術展(別サイトに記録したものと同じ)

先月から行く機会をどうも逃していた、対決 巨匠たちの日本美術展を昨日見に行ってきた。朝から陽射しも強くて、夏休みに入っている人も多く、ものすごい人で入場待ちとかするようだったらどうしようとか思っていたけど、人が多く混んではいたものの、入るまでに並んで待つようなこともなく、薬師寺展のときに比べると楽に入ることができたのでよかった。

展示内容は、ネットやチラシなどにあるように、日本美術史の中で巨匠と呼ぶにふさわしい中世から近代までの芸術家を、関係性に着目して二人ずつ対決させる形で展示されていて、創作に直接関係はないが同じような背景や作品に類似性あるいは対照性をもつもの、一方が他方を参考にした関係や師弟関係、実際のライバル同士、など、関係性もさまざまであるものの、日本美術を語るうえで比較対照されるような作家同士あるいは作品同士が並べられ、本物を比較して見ることのできる貴重な機会と思う。作品も仏像から、水墨や濃彩の掛け軸、屏風絵や襖絵、陶器、浮世絵、さらに日本画と、日本の芸術作品史ともいえる内容で、ちょっと教育的過ぎる感じがするけど、一同にすぐれた名品を見ることができる。ただ、範囲が広い分、解説もわからない用語がいくつかあり、見方がわからないというか、どこがいいのかがよくわからないというか、あまり興味のない分野もあり、個人的には浮世絵はどうも良さがわからないし、水墨画も詳しくないので、違いがあまりよくわからない。見ている人のなかからも陶芸のところでは、「わからない」とかっていう声が聞こえていた(よくあることだし、一方では、見事だとかすばらしいとか言うような声も聞こえていたけど、、、)。

個々の作品については、快慶の均整がとれ衣にも模様がついていて、端整で細やかな仏像、狩野永徳のうねるような檜図屏風絵、野々村仁清の細かくそれでいて絢爛な感じの色絵茶壷、若冲の鮮やかな色彩と精密な鳳凰画に蕭白のごてごてして、おどろおどろしい感じさえしながら、丸い目の竜のような生き物や仙人のどこか可笑しげな群仙図、応挙や芦雪の飛び出してきそうな、また、迫力のある虎画、鉄斎や大観の富士、など、見るものに強く訴える作品が多く、見終わっても印象に残っているものが多数あった。長谷川等伯の松林図屏風が展示期間を過ぎていたのと、俵屋宗達と尾形光琳の風塵雷神図が11日からの展示で見られなかったのが残念だった。

今年に入ってから、日本美術に触れる機会を多くとったので、だんだんと、日本美術の魅力を感じるようになってきたこともあり、今回の展示は、国宝級のすぐれた名品も集められていて、なかなか興味深くみることができた。

また、この展示をみて、日本の芸術は中国の水墨画などを基本に始まったのだと思うけど、色の濃淡で描く水墨画は、当たり前だけど、塗り残すことで明るい部分を描くわけで、色を塗り重ねて描いていくのとは異なるし、見たものや創造の産物を視覚的にそのまま正確に表現するのではなく、空気感を感じさせるぼんやりとした表現と精密な描写の同居、太い描線で力強く単純化した描写など、見るものあるいは見たものの印象を強めるためとも思われる抽象的な構成などもある。
西洋では教会などを飾る宗教画が絵画として独立し発展していったようだけど、基本的には、印象派がでてくるころまでは、視覚的にリアルに描くことが重視されていたのに比べると、日本では単に見た目だけでなく想像力や感性を必要とする作品が、たまたまプリミティブアートのような形で受け継がれていたのではなく、西洋で抽象芸術がでてくるよりもずっと前から、いろいろな表現が試され、時代を超えて受け継がれるようなものとして認められて今日まで残っていることを思うと、日本文化の奥行きの深さを感じ、いろいろなものの見方の基準が西洋の基準にのっとってしまっていて、絵画や美術も西洋美術を中心に絵の位置づけや、良し悪し、印象を語ってしまいがちで、それ以外は亜流や傍流になってしまっている現状などを考えさせられる展示だった。

googleでブログ始めました。

某ブログを利用して、展覧会に見に行った感想や、読んだ本の感想、株主優待でもらったものを中心に、日々の出来事を書いていたのですが、お小遣い稼ぎに、アフィリエイトをしようとしたところ、scriptとかのタグが利用できなくて、Google Adsenseの広告が貼り付けられないので、こちらに引っ越そうかと思い、とりあえず、作成してみました。

2008年8月7日木曜日

どんな仕事も楽しくなる3つの物語

(別サイトと同じ内容)
先日、 働くのがイヤな人のための本を読んだけど、それと同じジャンルというか多分自己啓発の部類に入る本。といっても、先日の本とは方向性が違うというか、まったく逆と言ってもよく、はじめに、のところで書かれている、

”生き方、考え方を変えればよい”、
”つまらない仕事はありません、仕事をつまらなくする考え方があるだけです。意味のない仕事はありません、意味のない仕事にしてしまう考え方があるだけです。”

の2文に、言いたいことのほとんどは集約される。
基本的にはいい話だし、仕事を感動に変える人は尊敬に値するし、仕事を感動に変わる五つの心構えって章も、その通り。

なんだけど、それって、今の世の中、正しいことはほめられるべきだし、ポジティブシンキングで前向きになるのが、いいっていっていうような話を聞くときのような、確かに、良いか悪いかで言えばよいことなんだけど、表現のしにくい違和感を感じてしまう。

社会で成功したり活躍したり輝いている人から得られる、前の本の中の言葉でいうところの「鈍感で善良な市民」による教訓といった感じ。決して非難するつもりはなく、いい本ですので、誤解なく。
前の本に共感するような人は、そう感じるのではないかと思い、あまりおすすめできないけど、逆に先日の本が働くことがイヤにならないための方策が書いてあるかと思ったのに、かえって悩めって感じでまったく良くないとか、前の本が気に入らなかった人には、この本は逆におすすめなように思う。

2008年8月6日水曜日

パーク・ライフ

(別サイトと同じ)
すでに文庫化している、吉田修一の第127回(2002年上半期)芥川賞受賞作、パーク・ライフを読んだ。
営業の途中、日比谷公園の噴水広場のベンチで遅いランチを取るのを日課としている主人公、同じく晴れた日は大抵公園でランチを取る女、地下鉄での偶然の会話をきっかけに知り合って、公園で交わす、意味が深いような、話が途切れて飛ぶような会話や、ベンチに座ってみているうちに現れるイリュージョンのような光景などを中心に話が進み、人間の中身と外、自分の家と住む場所のずれ、公園に来る人の入れ替わりといった、箱の内と外のようなずれが、人間関係のずれや会話のずれも含めて重層的に重なりあうことを意図しているようにも思えるけど、淡々と進んでしまう感じ。

学生の頃(もう20年以上前)に、一時期芥川賞作品をまとめて読んだことがあったけど、そのときは、社会や人生などの問題を抉り出すように書いたものや、卓越したこれまで読んだことがないような表現による描写など、読み応えというか読みにくい作品が多かったけど、昨日読んだ伊藤たかみの「8月の路上に捨てる」と同じく、読みやすいというか、あまり考えずに読めて、あっさりした感じがの本で、深みがない感じもするし、最後もどういうこと?って、取り残される感じもするけど、微妙にすがすがしい。
パーク・ライフ
吉田 修一
文藝春秋

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2008年8月5日火曜日

八月の路上に捨てる

(別サイトと同じ内容)
このところ、評論っぽい本を読むことが多かったので、たまには、小説でも読もうかと思って、ならば芥川賞作品がいいかと思い、伊藤たかみの「八月の路上に捨てる」(第135回、2006年上半期受賞作)を読んだ。
夏の暑い中、トラックでルートを回りながら、自販機の中身入れ替え作業をする二人の間で交わされる、主人公の離婚話。作業しながらの会話や主人公の回想といった形で、展開していく。
お互い夢を追いかけながら実現できず、近づいて生活しても分かり合えない部分があったり、なんでもいえるようでいえなかったりといった、いろいろな感情のせめぎあいというか、感覚が描かれ、本気で精一杯生きているのに、だからこそ、衝突してしまうような、人間関係と気持ちのゆれが、切れ味のよい読みやすい文体で書かれているように思う。
主人公が30歳で、新しいことを始めるのには難しく、夢の実現は難しいことがわかっているものの、あきらめきれず、結婚してお互いに責任をなすりつけたりできれば楽なのに、相手の気持ちまでわからず、気持ちが離れていくといった、話の筋としては、比較的ありがちだけれど、もがきながらも、夏の暑い中にけりをつけていくさまが、会話と回想を通して、淡々とした感じで伝わってくるように思う。


八月の路上に捨てる
伊藤 たかみ
文藝春秋

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(追記)一緒に掲載されている「貝からみる風景」は、30くらいの共働き夫婦の日常に起きるちょっとした出来事を、主人公の思いや感情を独特の感覚で切り出していて、それでいて、あっさりとした表現で文章がつづられていて、さわやかな感じのする短編で、文章の構成という点では拙い感じはするが、こちらのほうが、感情の機微やちょっとした出来事での人との衝突や愛情のようなものが感じられていい感じがする。

2008年8月4日月曜日

アート・ウォッチング「現代美術編」

(別サイトと同じ内容)
最近、節約モードなため、図書館に行って、借りてきた本。
20世紀後半の90年代初頭までの代表的な作品について、素材感や、構成や、コンセプトなど、それらの作品が発する印象や、鑑賞者や作者、社会との関係性などへの疑問や意味合いなどの論評がされている。

アート・ウォッチング〈現代美術編〉
中村 英樹,谷川 渥
美術出版社

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図書館で借りた本なこともあって、発行は1993年なので、現代美術編といっても、もう15年も前になってしまっていて、今まさに、現れていたり現れつつあるものや方向性は網羅されていないものの、印象派やフォービズム、キュビズムといった20世紀初頭に出現してきた抽象絵画より後、50年代以降(取り上げられた最も古いものは1944年の作品なので、正確には44年以降だけど、、、)の一般的に良くわからないと評されやすい、現代美術の作品について、その見方や考え方のヒントとなる本だと思う。
現代美術は、鑑賞者が積極的に作家がなにを言いたかったのかを考えたり、創られるプロセスを楽しんだり、あるいは、絵画や芸術、社会といった既存の枠組みに対する考えを迫るものとして捉えるなど、わからないというのではなく、楽しめばいいと思うので、くだらないとか、どこがいいんだかわからないとか、好き、嫌いといった単純な感想をもつだけでもいいと思うし、評論家等の意見は意見として、そういう見方もあるのかとか思うことで、いろいろなことを思ったり考えたりするのをより楽しめるようになるのではないかと思う。
序章は、アートウォッチングを始めよう。ということで、自由に見て感じ、感動しましょう。みたいな感じの始まりな割には、中の作品解説では、美術評論にありがちに思うけど、どうみれば、そこまで話が膨らむんだっていう感じや、言い回しが複雑で言っていることが良くわからない部分もあるけど、比較的、一般向けな読みやすい解説となっていて、それなりに、面白く読むことができた。