2008年12月29日月曜日

年収防衛 を呼んだ

森永卓郎著、年収防衛―大恐慌時代に「自分防衛力」をつける (角川SSC新書)(2008.11発行)を読んだ。

年収崩壊に続いて角川SSCから出版された本。基本的にまじめでいい人そうだし、ニュースなどにだまされないようにという観点でテレビとかで話を聞く分にはいいんだけど、新版 年収300万円時代を生き抜く経済学 (知恵の森文庫)など、いくつか本を出しているのは知っていたけど、本の内容としては、感覚的な話でいい加減な感じがしたので、買ってまで読もうとは思わなかったのだけど、友達が貸してくれたので読んでみた。

タイトルは年収防衛だとか、自分防衛力をつけるとかとなっていて、
章立てとしては、年収崩壊から年収防衛へ、年収防衛時代の働き方、モリタク流発想術、資産運用術、節約術、といった感じ。

どちらも、特に目新しいことが書かれているわけでもないし、章立てと内容の対応が明確でないというか、現状と自分の考えと方法がごちゃごちゃになっていて、全体的に、思いついたことをただ並べて関連するものをまとめているだけのように感じた。
この本自体が、ネットや雑誌に連載した記事を加筆修正してまとめているからだともおもうけど。

とはいえ、主張としては、
経済的合理性を追求し、弱肉強食の社会を勝ち抜こうとするのではなくて、
適当な距離感を保ち、お互いの愛情に満ちた社会を目指し、そこそこ働きそこそこ稼げばいい
ということのよう。

年収防衛とか、自分防衛力っているのは、年収防衛時代の働き方のところで、距離感を磨けとか、新卒で正社員になれとか、転職のペナルティを知らせているところや、後半の、モリタク流発想術でビジネスチャンスを見つけて、モリタク流資産運用術や節約術で、現状を乗り切れということ?という感じ。

本を売るために編集者などの意見が反映されるのだろうけど、売れそうなタイトルをつけて、他での連載記事をまとめて本にしましょうといわれて、かかれた本のように思い、気楽に引き受けてタイトルも気楽に決めてしまっている感じがするし、タイトルから期待される内容と中身があっていないのではないかと思った。

とはいえ、基本的な主張や、
バブルがはじけこれからの方向は、まじめに働く人が報われるまっとうな時代、
一生懸命働きたい人は働けばいいけど、多くの人はそこまで望まない、
金融業の給料は、海賊のような略奪行為で儲けていて、まじめに働き、互いに利益を配分していたら、ありえない金額で、バブルの崩壊と共に正常化していくべき、
芸術が技術に結びついて付加価値を生み出すようにする、
などの考えは賛成。

ただ、それを実行する手段については、自分を首相にしてもらえればそういう社会を実現するなど、あまりに楽天的過ぎて、実現性が感じられないと思った。
ようは、みんながお互いを助けあう幸せな社会を作ろうというのと同じで、だれも反対しないけど、どうするのという感じ。
もっとも、雇用を切るのではなく、ワークシェアし、トップの給料や配当を増やさずに、痛みを分け合うようにすればいいというような、方法も提案しているけど、そうなるようにみんなの考えが変わるように、法案を作る必要があるだろうし、考えを変えていく必要があるから、そうい考えを広めていいこうという話ならいいのだけど、それは年収防衛とか自分防衛力という話ではないし、そういう社会が本当に望まれるのかも、また別問題だと思った。

それに、年収300万円でも、十分生活を楽しめ、それには、ちょっとした工夫や節約も必要といっていて、
夢はある程度までやってみて、無理ならさっさとあきらめるとか、
こつこつ節約したり、無駄を省いたり、小銭を稼ぐなどして、必要なだけのお金を得る方法などをあげている。

そもそも、そういうことがみんな出来れば問題ないが、夢をあきらめきれない人や、こつこつとした節約ができない人がほとんどだと思うし、ある意味お金はいろいろなことの尺度になるから、要領よく稼いでいる人がいれば自分もと思いがちで、結局、みんながそこそこ働いてそこそこ幸せに生きるというのは難しいと思う。

イタリアやオランダのようにワークシェアして、働く時間を減らすように政治が持っていくというのも意見としてはあると思うけど、本当にそのような社会で機能できるかは、文化や宗教的な背景や価値観が異なるので、日本の社会の方向が本当にそれでいいかはわからないとも思う。

それでも、基本的な主張のようなことを、みんなが思えば幸せになるんだから、この考えを広めたいっていうのもあるのかもしれないけど、それって宗教の押し付けと構造は一緒で、やはり無理があると思った。

個人的には、好きなことを出来る範囲で自由にやっていくという、私の考えとほぼ同じ方向なので、いい意見だとは思うし、文中で参照された本、優雅な暮らしにおカネは要らない―貴族式シンプルライフのすすめのような価値観はいいと思う。
こちらの本のほうが、下手に年収防衛などといったタイトルではなくて、直接的でいいし、身の丈にあったお金(少ないお金)で生活を楽しむという価値観に主眼が置かれていていい本だと思う。
ちなみに、この本は森永卓郎氏が賞賛していて、特別序文を寄せていて、特に気にはなならなかったけど、先にこの年収防衛の本を読んでいたら、読まなかったかもしれないので、順番が逆でよかったと思う。


ニコンサロン

先日、蜷川実花展を見た後、新宿にでてニコンサロンによってきた。

ニコンサロンでは、大丸 剛史「東京タワー」、ニコンサロンbisでは谷井 隆太「ものみゆさん」というタイトルで展示を行っていた。

ショールーム側から入ったので、先に、「ものみゆさん」の方をみた。
こちらは、行楽地を撮影したもので、名所や代表的な場所をそのまま、全体的に遠景で露出をオーバー気味で撮影しているのか、明るくて軽やかな、平和で朗らかな感じのする写真だった。
東京国立博物館の本館や、皇居の二重橋、などの名所や、鶴岡八幡宮や横須賀など、私の良く知っている地域が多かったので、写真のよしあし以前に親しみを持てた。
(こちらは日本カメラ12月号にも掲載されているらしいです。)

「東京タワー」のほうは、写真展のタイトルを知らず、展示順から考えると逆方向に観ていったので、東京タワーというタイトルだとは知らず、都内のビルやマンションが作る光景を切り取っている写真だなと思いながら観ていた。
最後に、展覧会にあいさつを読んで、タイトルが東京タワーと知り、断片や写りこみでも、東京タワー全体をイメージできるほど、
東京タワーが日本や東京のシンボルとして強くイメージが培われていることなど、頭の中でのイメージとの関連などを意識した作品らしく、
東京タワーをタイトルとしながら、直接撮るのではなく、ビルの隙間から一部見えていたり、ビルの窓への映り込みなどで、東京タワーをイメージさせることで、部分や影から東京タワーの持つイメージが頭の中で再構成されることを狙った写真ということのようだった。
そこで、改めて観てみると、先ほどはわからなかったけど、窓に東京タワーの一部が映りこんでいたり、ビルが鏡のようになって東京タワーを写していることがわかって、面白かった。
でも、タイトルをみないと東京タワーが写真の中にあることに気づかないものが多かったので、写真家の意図を写真だけからは、汲み取れなかったということにもなるけど。



2008年12月27日土曜日

蜷川実花展を観てきた

先日、森山大道とミゲル・リオ=ブランコの写真展をみて、大判の写真の迫力や、鮮やかな色彩の写真もいいと思って、行かずに終わってしまいそうだった蜷川実花展を、昨日(12/26)観に行ってきた。(東京オペラシティーアートギャラリーで12/28まで、その後、岩手、鹿児島、西宮、高知を巡回)

最近、名前を聞くというか、さくらんで監督デビューしてたし、春先のアートフェアでも人気があったようだし、確か蜷川幸雄の娘だったような気もするし、なんか流行りに乗っかる感じだけど、まあ、写真そのものは、見た目が鮮やかな色彩にあふれてて綺麗だったの良かった。


展示は、エントランス、花、初期、金魚、
人、旅、造花、新作、ポートレートの9つのコーナーに分かれていた。
エントランスから受付を過ぎると花の部屋で、代表的な作風ともいえる、花の写真が飾られていた。大きく引き伸ばされた花は、一部の拡大だったりもするけど、花弁や空が作る、赤、黄、緑、青を基調として微妙に変化した色合いで、どれも、綺麗だった。
次の部屋はモノクロのセルフポートレートなど、比較的初期(といっても95年以降だからまだまだ新しいかも)のもので、この中に初めて蜷川実花という人を知った写真集Pink rose suite(写真集の名前は忘れていたけど、写真のほうで見覚えがあった)からの写真などがあり、
金魚の部屋では、照明を落とした部屋にひとつの壁面には金魚の映像が流れ、残る部分も金魚などを写したものが展示されていた。
旅の部屋では、いろいろな場所で取った風景や子供などが展示されていた。フィルムくらいの小さいサイズの写真がたくさんテーブルの上においてあったりもした。
人のコーナーでは、壁面にキャノンのプリンターで打ち出した写真が貼られていたり、いろいろな写真集などの写真が飾られていて、こちらも、鮮やかなものが多く綺麗。
造花のコーナーは照明を落とした暗い部屋で、壁面に大きめのスライド(ガラスに印刷?)をバックライトで照らした展示で、暗闇の中で、墓標に供えられた決して枯れない花という、鮮やかな色彩と死の対比を強調しているような感じ。
新作のコーナーは、いろいろな大きさで、いろいろな主題の写真が壁面に多数展示されていて、少し雑多な印象。
最後に通路沿いに、多数(200名を超えるそう)のモデルや役者、アーティストなどの写真が通路の片側を埋め尽くすように張られていた。

写真というには、大判のポスター状のものや、壁面にもプリンターで打ち出したものが貼られていたり、裏から光を当てたスライド状のものやビデオ作品が流れて いたり、多数の小さな作品がおかれたもの、暗い部屋で光らせた展示など、通常(通常が良くわからないの私の持つ写真展のイメージ)とは異なった演出のされ た展覧会だった。

大きく引き伸ばしているために、鮮明さにかけるものもあったけど、全体的に、色彩が鮮やかで、人物も飾りつけというか演出された感じのものが多く、綺麗なものが多かった。

ただ、ゆっくりと鑑賞したくなるような作品はあまりないような気がした。

色は鮮やかだし、綺麗なので、ビビッドな内装のダイニングバーみたいなところの壁を飾るにはいい感じ(ビビッドな空間は、なんか疲れるからくつろげるような雰囲気ではないけど)。

ぱっと目を引くものは多いのだけど、じっくり見たくなるようなものは少ないのが残念だった。
じっくり観たくなるかとうい点では、花や金魚は目を引くしその色彩の迫力に圧倒されるものの、じっくり見たいという感じではなくて、旅先での人や風景が個人的にはいいと思った。

全体として、写真そのものから、何か訴えかけられるというか、何か印象深く惹きつけられるものは少なくて、時代を超えて残るようなものなのかはよくわからないというか、将来的にはどうなのかいう感じもした。
ファッション誌などで良く取り上げられたりするからというわけではないと思うけど、見た目の奇抜さ(奇抜というには、綺麗なので綺麗さ?)とかでなにかに惹きつけられるのと同じ感じを受け、見映えはいいし、目にした時に飛び込む印象は強いと思うので、さらに引き込まれるような味わい深さというか、奥深さが感じられると、いいのにと思った。
多少、黒いものをいれたりとか
とげのようななにかをかくし持っているようなものも感じられるけど、少しわざとらしかったり、なにか不自然さも同時に感じるので、それがなければ、味わいぶかくなるのかもしれないけど。

そんな感じで、けちつけながらも、それなりに綺麗な写真がみれてよかった。



2008年12月23日火曜日

森山大道 ミゲル・リオ=ブランコ 写真展を観てきた

東京都現代美術館に、「ネオ・トロピカリア:ブラジルの創造力」を観たあと、同時期に行われている企画展示、「森山大道 ミゲル・リオ=ブランコ 写真展」を観てきた。

こちらも、日本ブラジル交流年の関連事業だそうで、森山大道がサンパウロを、ブラジルを拠点に活動するミゲル・リオ=ブランコが東京を撮影し、その写真および、ビデオ作品が展示されていた。

写真は興味があるものの、あまり詳しくなく、森山大道の名前は聞いたことがあるというか、写真美術館で展覧会があるのを見かけたりしたことがあり、きっと有名な写真家なのだろうと思うくらいで、どういうところがいいのかとか特徴も知らないし、ミゲル・リオ=ブランコについては何も知らなかったので、ほとんど予見のない状態で素直に見れたように思う。

森山大道はサンパウロの街中やそこを行き交う人や棲む人などを撮影していて、白黒の写真はサンパウロの雑多な雰囲気や、人々の思いなどをある瞬間切り取った感じのする作品だと思った。

一方、ミゲル・リオ=ブランコは日本的?というか、変わったものをアップで撮影したり、いろいろなものをコラージュしたような写真で、非常に鮮やかな色にプリントされ、その大きさと共に圧倒される感じの作品が多かった。魚や、よろい、神社のような外から見た日本的なものなどもあるが、形それ自身造形的に綺麗だったり不可思議だったりするものを、非常に鮮やかに捉えている写真だと思った。

それぞれの写真を撮った場所などをビデオ作品としてまとめられていて、それも興味深く見ることが出来てよかった。

展覧会カタログは完売していて、写真に興味がある人には人気のある展覧会だったのだろうと思う。


ネオ・トロピカリア ブラジルの創造力 を観てきた

東京都現代美術館で、1/12まで行われている展覧会、「ネオ・トロピカリア:ブラジルの創造力」を観てきた。

BRICSなど経済面での発展で近年注目されていて、ブラジル移民100年ということもあって、書籍、雑誌、テレビ番組などで、移民の苦労や、その後のことなどの情報を耳にする機会が最近多かったように思う。この展覧会も、移民100周年、日本ブラジル交流年を記念して開催されているよう。

カーニバルやサンバとかサッカー、熱帯雨林、などといった、他の要素から、明るくて陽気なイメージはあるものの、ブラジルのアートは、まったくといってよいほどイメージがなく、展覧会の概要などをチラシやWebで見て、明るい感じのブラジルアートをみてみようかと思って、観に行ってきた。

ブラジルでは60年代から、独自の文化創造を目指し「熱帯に住む者の文化のオリジナリティ」をうたった、トロピカリアという芸術運動が興り、トロピカルな色彩や生きることはアートそのものといった考えが反映したような、陽気な感じの作品が見られた。

ただ、そのような背景に加えて、最近のアーティストが多いこともあって、体験そのものがアートというような作品が多く、参加して楽しめる人はいいけど、遠慮がちというか離れて見てしまうし、なにかのイベントやパフォーマンスとなにが違うんだろうとか思ってしまい、あまり興味が持てないものも多かった。

個人的な好みが平面作品なので、あまり、インスタレーションとかビデオ作品には興味を持たないのだけど、今回は、あまりにいろいろな作品を見たこともあって、アトリウムに設置されたインスタレーションやビデオ作品が印象的だった。

アトリウムのインスタレーションは、エルネスト・ネロの作品で、天井からぶら下げた薄いストッキングみたいな布の中に、ソバがらやスチロールの粒のようなものを入れて、途中の重みで垂れ下がったようなものが多数ある作品で、大掛かりだけど有機的な柔らかなものが空間を侵食しているような感じで、不思議な空間を作っていた。
まあ、イベントなどで一時的に作られる変わった空間デザインとなにが違うっていう話もあるけど、2Fや3Fから見下ろしたり、B1Fから見上げたりすることが出来て、その雰囲気から伝わってくるイメージなどがなかなか印象的だった。

ビデオ作品ではアナ・マリア・タヴァレスという作家の作品で、細い柱の周りをスチールの穴あき板が多数、工事現場の足場のような感じで宙に浮いているような映像が続くもので、部屋に入ると両サイドの大きなスクリーンがあって、その両者に遠くまで続くような映像が流れていて、水中にいるような、宙にうかんだような感覚がする作品。
ビデオ作品は大抵、映像の示す内容や時間的変化とか物語性があって、全体を見なくてはいけない感じのものが多いので、平面作品が好きな私としては、あまり好きになれないのだけど、純粋に映像が綺麗だと思えるものや、視覚から伝わる感覚に訴えかけるようなものは、わりと楽しいかもしれないと思った。

他には、日系1世のトミエ・オオタケの青い火の玉みたいなものなど、抽象的な絵はなかなかいいと思った。個人的には好きなものではないけど、オスジェメオスの作品がなんとも不気味な感じもするのだけど、印象に残った。

2008年12月12日金曜日

近代美術館の 小松誠 展

近代美術館に展覧会を観に行った感想の続き(2Fのスペースでの展覧会の感想)です。

近代美術館の2Fのギャラリー部分では「小松誠 デザイン+ユーモア」展が行われていた。

小松誠は、磁器をはじめとするクラフトデザイナーだそうで、名前は知らなかったのだけど、
紙袋をそのまま形にした磁器や、くしゃくしゃっとしたタンブラーなどは、なにかで見かけたこともあり、似たようなものかもしれないけど、時々セレクトショップみたいなところで見かけるように思う。

ちなみに、楽天でも同様の小松誠デザインの製品を売っていた。
クランプルワイン-S 


インテリアショップや器などの店でときどき、いい感じのデザインのものとかを見かけることもあるけど、こうして、美術館でまとめて展示されると、また別の美術品の趣。
実際、デザイン的にいいと思っても実用には不便なものとかも多いから、その場合オブジェとして美術品の正確が強いと思うけど。

くしゃくしゃとした、代表作らしい、クリンクル・シリーズの磁器やガラス作品以外にも、ティーポットやカップ、一輪挿し、ドアハンドルなど、いろいろなものが展示されていた。
どれも、磁器やガラスの持つ、滑らかで繊細な感じで、シンプルな造詣。

ミニマルなデザインが冷たい感じになりやすいところ、クリンクル・シリーズは皺が寄ったような造詣で、柔らかいイメージになって、欲しくなる感じ。

他にも、木の根をイメージした一輪挿しや、何に使うか良くわからない、小さい枕のようなものや、マグリットやダリの作品をモチーフにしたものなど、副題にあるデザイン+ユーモアというのがわかるような作品が展示されていて、面白かった。

ここは、美術館の中の一部のスペースなので、それほど広くはないけど、前回来たときは、ここで、「壁と大地の際で」という展覧会を行っていて、その展覧会も結構よかったし、スペースが限られている分、テーマが明確になるのか、あるいは企画展ほど収入を気にする必要がないからか、入場料に対して満足感が高い。(ここ2回だけで判断できるわけはないのだけど)

小松誠デザインもの

Lemnos(レムノス)「CRINKLE(クリンクル)」


ceramic japanNEW CRINKLE SUPER BAGMサイズ


【一人でも美味しい酒の飲み方があります】遊器・盃(S)


【高級な国産セミクリスタル製品です】小松誠/ポ-セ8タンブラー

近代美術館に行ってきた。

国立近代美術館に、展覧会を観に行ってきた。

今回は、展覧会を見逃さないように出かけたというより、何か観に行こうと思っていて、近代美術館で行っている展覧会は見てなかったので、所蔵作品もいいものが多いから、前回のときとは展示も入れ替わっているだろうと思い観に行ってきた。

行われている展覧会は、企画展「沖縄・プリズム 1872-2008」、所蔵作品展「近代日本の美術」で、2Fでは「小松誠 デザイン+ユーモア」展を行っていた。

企画展は、琉球王朝として独自の文化を持つ沖縄、今回は沖縄の独特な文化というよりは、1872年に琉球藩設置によって、日本に編入されて以降の近代のうねりのなかで、この地に誕生し、生成しつつある造形芸術を検証する試みだそうで、沖縄出身の作家と本土から沖縄に向かった作家を織り交ぜ、内側の視点と外からの視点の違いを意識しつつ、様々なジャンルの作家の「沖縄」の作品により、沖縄という場所の意味と潜在力を問い、発信される未来の創造活動へのつなげることを目指しているそうです。

展示構成は3つに分かれていて、

第1章 異国趣味(エキゾティシズム)と郷愁(ノスタルジア) 1872-1945
 日本の版図に入ってからの沖縄がどのように見られ表現されたかを見せるもの
第2章 第2章 「同化」と「異化」のはざま 1945-1975
壊滅的な被害を受けたあと、米軍統治したでの軍事基地化、それに対する抵抗と復帰運動などを経て、日本復帰と沖縄博に象徴される本土資本流入など新たな日本化の仮定で、再度の日本への同化を異質性のもとに捉えなおすようなもの。
第3章 「沖縄」の喚起力
歴史・社会的な文脈ではなく、沖縄という場所の意味や可能性を、時間・空間的な枠組みを取り払って、より開放的な、多様な視点を織り交ぜたもの。

となっていて、
近代以降現在に至る歴史の上で、米国の支配下にあったり、本土復帰後も、軍事基地問題が続いていたり、いろいろな文化が否応なく入ってくることによって、互いを異質なものとした衝突は当然大きいのだと思うし、そういう衝突から新たな価値観や感覚の芸術は生まれてくるので、単に独自の文化を紹介するのではない視点はいいと思った。

ただ、個人的には、歴史自体にはあまり興味がなくて、絵画でもそうだけど物語性とかより、そこに描かれた形や色などに感動しがちなので、書籍や雑誌などの社会的あるいは文化的資料のような展示はあまり興味を持てなかったし、様々なジャンルを見られるのはよいけど、写真や映像作品が単なる記録ではなく、芸術作品としてどの程度すばらしいのかが良くわからず(木村伊兵衛の写真などもあるので、見る人がみればわかるのだろうけど)、沖縄に関連したものが集まっているという点では、流れがあるものの、企画展をみているというより、どこかの美術展を観に行ったときのような、ここのつながりのわかりにくい展覧会に思えた。

作品的には、鳥海青児、藤田嗣治、岡本太郎、木村伊兵衛、東松照明といった有名作家の作品もあったけど、個人的に良いと思ったのは、

与那覇大智の作品。

与那覇大智の作品は大画面に赤紫から青っぽい感じの光の大きなうねりというか波のような感じの作品で、抽象表現主義的な大画面に色がうごめく感じだけど、なかなか良い感じだった。

安谷屋正義の塔や、陶器の作品で、國吉清尚の華器や世紀末の卵
圓井義典の地面を拡大撮影して、緯度と経度がサブタイトルになっているものとか、
山城知佳子のビデオと写真?からなる作品も、ビデオで延々と流れる息遣いの音と共に印象的だった。ただ、写真のほうで口の周りに藻(アーサだと思う)がへばりついているところは気持ち悪くて、なければもっと良かった。(タイトルが「アーサ女」だし、それが重要なのかもしれないけど)

安谷屋正義の作品以外はどれも最近のもので、普段コンテンポラリーアートとかは、良くわからないのが多いのだけど、沖縄に関連したものでは、コンテンポラリーといえるくらい最近のものが感覚があう感じがした。

企画展を見終えると、アンケートをお願いしますということで、展覧会の内容や美術館の開館時間や料金などに答える比較的簡単なもの。
特に断る理由もないので、回答したら、粗品がもらえて、近代美術館の特製?鉛筆3本だった。
鉛筆を使うことなんて、最近めったにないけど、良かった。

2008年12月1日月曜日

セザンヌ主義 を観てきた

横浜美術館1/25まで行われている展覧会、「セザンヌ主義 父と呼ばれる画家への礼賛」を観に行ってきた。

象徴主義やナビ派、フォーヴィズム、キュビズム、エコール・ド・パリの画家たちに影響が見られるセザンヌ。日本の洋画家にも大きな影響を与えている。
人物画、風景画、静物画などに分けて、影響をみてとれる画家たちの絵とセザンヌの絵を並べ、比較したり、セザンヌのいろいろな作品の特徴を見られる展覧会だった。

あまり、セザンヌの絵をまとめて見たことはなくて、
セザンヌというと、サント=ヴィクトワール山などの風景画や、りんごなどの果物や水差しがテーブルの上に載った静物画の印象が強く、乾いた感じの色彩で面的な配色で立体感を感じさせる風景画や、バランスよく配置された果物などが、淡い感じながらはっきりとした輪郭や色彩の静物画のイメージが強く、実際、水色っぽい色合いの中にアクセント的に赤みが買った色が使われているような、私の持つセザンヌのイメージと一致したものが多く展示されていた。一方、森や水浴の絵では、鮮やかな緑が使われていたり、印象派のような筆が細かく流れるように描かれている作品などもあって、少し新鮮な感じがした。

20世紀の画家として、いろいろな画家の作品と一緒に見ることはあっても、日本人の画家とセザンヌの絵を一緒に見た覚えはあまりなく、改めて見ると、安井曾太郎や有島生馬などの日本人画家とセザンヌの絵にとても似たものがあることがわかり興味深かった。

また、近代絵画の父とも呼ばれるだけあって、並置される作品は、シャガールやキスリング、モディリアーニ、ブラマンク、ピカソ、ブラック、ゴーギャンなどといった、20世紀の巨匠の作品であり、そのような影響がある作家の似た構図の作品を並べてみることで、似た点や相違が感じられて興味深く、比較することで、セザンヌの特徴が改めて明確になったような気がした。

これまで、セザンヌのどこが偉大なのかどうもよくわからなかったのだけど、セザンヌの特徴や、絵を書いていた頃の時代背景などをおもうと、その画風は、印象派の枠に留まらず、色彩や構図、面的配色や対象の幾何学的な構造の抽出などに、20世紀の様々な画風の萌芽が見られるように思え、そのあたりが偉大なのだろう思った。