2008年11月26日水曜日

ピカソ展(サントリー美術館のほう)を観てきた

サントリー美術館で12/14まで開催されている、「巨匠ピカソ 魂のポートレート」展覧会をみてきた。
同時開催の新美術館のほうの展覧会を見てから1ヶ月以上経ってしまって、開催期間も後半になってきたから、今日、都内に行く用事があったので、六本木まで足を伸ばして観に行くことにした。

こちらの展覧会は、自画像や少年の絵、男の頭部、画家や彫刻家、モデル、それにミノタウロスの絵などの展示となっている。
副題の「ポートレート」というには範囲が広いような気もするけど、基本的に人物が主題となっている作品を初期の青の時代から、キュビズムやシュールレアリズム的なものや晩年のものまで、いろいろな作風の作品がみられ、写真なども展示されていた。
こちらも、新美術館と同様、作風の変化がみてとれ、彫刻が作られたり、ミノタウロスが描かれるようになるなどの主題の変化もみられ、興味深い展示となっていた。

ただ、好みの問題なんだけど、今回は気に入った作品が少なくて、墨で書かれた男の頭部のキュビズム作品と晩年の奔放な感じの作品ぐらいで、新美術館のときもあまり気に入ったのがなかったものの、肖像画とキュビズム作品などに気に入ったのがいくつかあったけど、今回はじっくり見たくなるものがあまりなかった。

ピカソの絵は、一人でいろいろな変化をしていったように思うので、美術史的観点からは偉大な作家であることは間違いないとは思う。しかし、私の好みの問題なんだけど、どうも、人の顔にしたって、鼻筋がすっと通ったギリシア風?の顔立ちで、手足が大きかったりする絵が今ひとつ好きになれないし、絵として、じっと見ていたいと思えるような作品が少ないし、どうも訳わからないというか、なんかすきになれない作品が多い。

そういいながら、今回のなかで気に入ったもののひとつが、キュビズム作品であまり原形をとどめていない、訳わからないものなので、矛盾するし、パリのピカソ美術館も、バルセロナのピカソ美術館も観に行ってたりするのだけど、、、

まあ、ピカソ展ということで、絵を見るのが好きな私としては、観に行っておかないと、観に行っとけば良かったかなと思ってしまうだろうから、やっぱり観に行ったのだし、後悔するほど気に入らないわけではないというか、ピカソ作品の本物を年代の変遷と共にみれたのはよかった。

あと、新美術館のときはそれほど感じなかったけど、今回の絵を見ていて、ピカソって本当に絵を書くのが好きというか描かずにはいられなかったんだろうなっていう感じがして、純粋というか無邪気な人だったんではないだろうかって思ったりした。
特に晩年は奔放に描いている感じがするし、あまり、ストイックに細かく描きこむのとかって好きじゃなくって、感じるままにというか、書きたいように書いていったんではないかなという感じがした。

それと、展示内容とは関係ないのだけど、新美術館と場所的には近いかも知れないけど、そもそも、新美術館は貸しギャラリーみたいなもので、しかもあの展示スペースの広さがあれば、まとめて出来たのではないかと思うので、なぜ2つで同時開催の形にしたのかって気がする。
サントリー美術館がこれまでもピカソの作品や近代美術に関わってきていて、新美術館の企画にあわせて、実施することにしたというなら、わかるけど、サントリー美術館といえば、工芸品をはじめとする日本の美術や、日本との関係の深いものを中心とした、収集や企画展を開催してきたようなところだと思うので、なぜピカソ展って感じがする。

一方を見るともう一方の入場料が200円引きになるから少しは許せるけど。

会期も後半だったからか、平日だというのに、結構、混んでいたのも少し残念だった。

2008年11月25日火曜日

7月24日通り を読んだ

吉田修一著、7月24日通り(2004.12発行)を読んだ。

港のある地味な日本の地方都市に住み、リスボンの町並みに町のつくりを例えながら、日々を過ごしている地味な女性が、同窓生などに振り回されたり、少し自慢の格好よくてモテル弟が付き合っている地味な女に腹をたてる一方、同窓会で久しぶりにあった格好のいい同級生との出来事などの話。

自分は地味であまり人気がないのに、ぱっとしない人と付き合うのは嫌といったことや、逆に、格好よくて人気がある人が、一緒にいて安心するとかいって地味な人を好きになりながらも、格好いい人気者に気持ちが動くことなど、自分勝手だけど、ありがちな感覚が、素直にかかれている感じがした。
最後には、殻を破って、間違うことを恐れずに好きなほうに進んだのは、いい感じがした。

龍の棲む家 を読んだ

玄侑宗久著、龍の棲む家、(2007.10発行)を読んだ。

主人公が、公園で出会った介護福祉の経験のある女性に助けてもらいながら、痴呆症の父親と一緒に暮らしていく日々の話。

痴呆症の症状らしいが、そのときそのときで、父親の認識している状況がなんども繰り返したり、あるときは、子供の頃だったり、あるときは市役所で働いていたときだったり、いろんな状況の変化に、寄り添うように介護する様子などが描かれていて、痴呆症の症状の背後にある無意識だったりその人なりの考えの表出という見方をしないと、やりきれない様子が感じられ、痴呆症の介護のつらさも感じられた。

そもそも、今認識している自分は連続した自己認識のなかにあるけど、痴呆症になると、その連続性が失われたようになるのかとか、痴呆によってかえって表れる純粋さなんかについて考えさせられるお話だった。

2008年11月22日土曜日

TCAF2008に行ってきた。

この3連休に、東京美術倶楽部3・4Fで開かれている、東京コンテンポラリーアートフェア2008を観に行ってきた。

今年は、こういったフェアに行くのはは、春先のアートフェア東京、秋口のGEISAI#11に引き続き3回目。

コンテンポラリーアートに絞ったフェアで、40ほどのギャラリーが出展している。
アートフェアとしての規模はそれほど大きくない(国内でのアートフェア自身があまりないから、これだけ集まって、コンテンポラリーに絞っていることを考えると、大きいといえるのかもしれないけど)が、一度に多数のギャラリーを覗くようなものなので、いろいろな作品をみることが出来る数少ない機会とも思えるの。

普段、美術館などの展覧会は良く行くものの、ギャラリーに入るのは、ちょっと敷居が高い感じがして、せいぜいデパートの美術品売り場とかにあるギャラリーを見るくらいなので、こういうアートフェアは個性豊かなさまざまな作品を見ることができていい。

ただ、美術館での展示と違って、TCAF2008はコンテンポラリーという分野としての共通点はあるものの、ギャラリーごとというか作家ごとに、当然だけど特徴が異なるって、コンテンポラリーは基本的に評価が定まってない作品が多いから、好き嫌いの判断はできても、それぞれがどのくらいの価値なのかが、よくわからない。最も値段がでているので、ある意味、現時点での世間的評価が明確という話もあるが・・・

まだまだ、評価の定まっていない若手の作品も多く、そういった作家の小品であれば、数万円で売っているものも、ちらほら見かけるので、好き嫌いで家などに飾るアートを買うことを考えると良い機会だと思う。とはいっても、それなりの大きさの物は若手でも10万程度はするから、気に入ったものを選ぼうと思うと、そのくらいの予算は必要で、普通のサラリーマンの収入では気軽に購入出来る金額とはいえない。

また、ギャラリーの人などになにか聞かない限り、作者名と価格以外の情報はほとんど得られないけど、かといって、なにを聞いてみればいいのかって感じもして、結局、ざっと眺めるだけになってしまった。
そんな感じなので、見た目でいい感じか、そうでないかくらいしか、判断基準がないんだけど、逆に、いいと思う絵に共通点を見出したりすると、自分の好みが段々明確になっていくような気もしてきた。
その一方、ぱっと見好きなものではないんだけど、なにか気にかかる感じがするものや、気持ち悪い感じのものなども、印象の深さという点では、大きいものもあるので、どういう絵がいいのか逆にわからなくなる感じもする。

とはいうものの、いろいろな絵をみて、いろいろな感じがするのは楽しいので、他にもこういうフェアがあれば観に行ったり、ギャラリーめぐりをしてみようと思う。

2008年11月21日金曜日

星に降る雪/修道院 を読んだ

池澤夏樹著、星に降る雪,修道院(2008.3発行)を読んだ。

星に降る雪は、望遠鏡などの観測機器のエンジニアとして、神岡で働いている主人公のところに、過去に一緒に雪崩に巻き込まれた友人の彼女が、山の中の天文台などにいる理由や、それは雪崩に関係あるのか、その時になにがあったかを聞きに来る。そのときのことで心を少し閉ざした感じの二人が、温泉で一晩を過ごし、そのときのことを思い返し、星のメッセージとでもいうようなものを知人や主人公は受け取ったと感じていて、星に近いところに来たかったといった、不思議なことをいう主人公。彼女は、そんな空や星に向かわず、地面を這いつくばって生きるのが人生といい、思い出した以前の恋愛について語る彼女。
といった感じの話

さらりとした感じの文章に、星からのメッセージを受け取るという不思議な感覚を、宇宙探査の望遠鏡やカミオカンデが、電波やニュートリノを捉える様子に重ね合わせて表現される一方、対比として彼女の話がされていて、読みやすく、それでいて、なんとなく心にくる作品。
宇宙からのメッセージとか、そういった人智を超えたようなものをさらりと入れながらも、やみくもに信じるのでもないといった感じがして、よかった。

修道院は、数週間の休みができたのでクレタ島に休暇にきた主人公が、寂れた修道院の礼拝所の中を覗き、イコンを観ようとしたときに足をくじき、宿屋をかねたカフェのようなところで過ごすことになる。その店のおばあさんが、旅行者が足をくじいて宿屋にとまるのは、丁度50年前の出来事との関連を感じ、語りはじめる話が中心。
その話は、そのおばあさんの小さい頃、旅行者がやってきて町で過ごし、あるときから、なにかの償いのように、主人公がけがすることになった礼拝所を一人で整備して、その後、彼を訪ねてきた人との間で起きた出来事で、その弔いを知らせに神様が主人公をよこしたのだろうという話

こちらも全体としては、淡々とした感じで語られ、やはり過去の出来事をひきづりながら静かに生きる人の様子が描かれ、礼拝所を整備するところの話が少し冗長な感じがするのと、過去になにがあったかが、明かされるまでが少しじれったく、最後の方の話の展開は急な感じがした。
罪にさいなまれて生じた幻聴が、礼拝所の整備につれて、主の声のようなものになっていったこと、しかし、そのときの当事者である彼女が探し当ててきたことによって、悲劇になるが、店のおばさんとその弟以外には誰もしらず、静かに潜んでいて、それで主人公が使わされたというような、偶然といってしまえばそれまで、でもなにか運命もあるのではないかといったようなことを感じるものだったけど、こちらより、星に降る雪のほうが私の感覚にはあう感じがした。

2008年11月17日月曜日

その絵、いくら? を読んだ

小山登美夫著、その絵、いくら? 現代アートの相場がわかる (セオリーBOOKS)(2008.8発行)を読んだ。

著者の小山氏は、村上隆や奈良美智を扱って広めたギャラリストとしても有名な人。
はじめに、で、運慶の大日如来像が約13億で落札された話と、村上隆のマイ・ロンサム・カウボーイが約16億で落札された話から始まり、アートについて価格という点から、絵の流通方法や、市場の形成、価格の形成などについてや、価値あるアートの成り立ち、日本の状況、コレクターの存在や投機や投資という側面、アートブームのことなどについて説明?されている。

多少、まとまりに欠ける感じもするけど、シンワアートオークション社長との対談や、日本の代表的な現代アート作家を扱っている、小柳ギャラリー、オオタファインアーツの小柳氏、大田氏との対談などを交え、アートの価格形成や市場形成について、日本の状況などが語られていて、読みがいはあった。

結局、アートの価値って、アートを飾ったり、所有する文化的な背景にもよるし、アートをどのように捉えるかや、そもそも、アートの価値は見る人の好き嫌いだけでなく、アートそのものに対する社会的な位置づけや、取り巻く背景などに左右されることを改めて感じ、真の価値ってあるのか?わかるのか?って思った。

また、アートを買うことが、見栄だったりする側面や、そういう見栄の張り方が、欧米には文化としてあるようなところから、価格が決まり、村上隆の作品が16億とかになるという見方もわかるし、美術史のなかでの新たな価値創造という点で高い値段となるという見方もわかる。その一方で、まだ、比較的手ごろな価格があるのもわかる。
そうはいっても、年収が4~6百万くらいの普通のサラリーマンにとっては、コレクションしていくには絵はやはり高い。
かといって、それなりの値段がしないとアーティストも生活できないのもわかるから、価格って難しい問題だと思った。

2008年11月15日土曜日

アンドリュー・ワイエス展を観てきた

先日、Bunkamura ザ・ミュージアムで、11/8から12/23まで開かれている、展覧会「アンドリュー・ワイエス 創造への道程」を観てきた。

初期の自画像や、クリスティーナの世界といった代表作の習作(クリスティーナの世界の完成品は写真が小さめのパネルで展示されているのみ)が展示されていて、完成するまでに描かれた部分習作や、構図の変遷などがみられるような展示構成となっていた。
ひとつの完成作品に対し、素描や水彩で描かれた部分習作や、構図が異なるものや、完成品と同等の構成の習作などが展示してあって、副題にあるように、創造にいたるプロセスがわかるような展示となっていて、そういう点では貴重な展覧会だと思った。

ただ、展示されている総点数は150点ほどで、それなりの規模の展示なのだけど、前述のように習作が多く、ワイエスらしさが感じられる完成品としては10点ほどなため、ネットやチラシで展覧会の内容をよく読まないで、アンドリュー・ワイエス展が始まったということで、ワイエスらしい、精緻で、どこか寂寥感を感じるような風景画などをたくさん観られるかと思っていったので、少し期待はずれに感じてしまった。

とはいうものの、チラシに載っている「火打ち石」をはじめ、「雪まじりの風」、「粉引き小屋」などは、その精緻で写実的な描写でいながら、その場のどこか寂れたような、雰囲気というか空気感が感じられる、素敵な絵がみられ嬉しかった。
それに、習作は絵として完成はされていないものの、部分としては十分すばらしい出来であったり、水彩で流れるような表現なのだけど、より本物らしい印象で描かれているものや、同じものを少し感じを変えて書き直しているようすや、完成作にいたるまでに、人が削除されたり、中心となるものが変わったようなものなどもあり、興味深かった。

2008年11月14日金曜日

池口史子展を観てきた。

松濤美術館で、11/24まで開かれている、「池口史子展 静寂の次」をみてきた。

芸大大学院時代の60年代の初期作品から最近の作品まで100点ほど展示され、画風の変遷などもみることができる展覧会となっていた。

初期の頃の作品は、暗い色調で荒々しいタッチの作品だったが、10年ほど経ったもの以降は、静かな風景や静物画が中心で、最初の頃は流れるような感じの描きかただったものが、輪郭の明確なものが多く、最近のものは、木々などのぼやけたような感じで、建物などは透視法に沿った明確なラインを持ち、画風が組み合わさった感じのものとなっていた。
人のいない風景が多く、そういう点では先日みたハンマースホイと同じように静かな作品が多いが、こちらは、同じ静けさといっても、人がいなくなった感じではなく、アメリカなどの地方のダウンタウンで、朝早い時間や雪の日など人が外を歩いていない瞬間といった感じで、同じ静けさといっても質はまったく違うものと思う。
独特な風景で、色調が、黄土色がかったような、あっさりしたというか乾いた感じの作品が多いが、寂寥感のなかにも暖かく見守る眼差しのようなものがある気がした。

この美術館はBunkamuraから少し先にいったところの、静かなところにあって、あまりメジャーな美術館でないこともあって、料金も300円と安く、ゆっくり絵を観賞できるよい美術館だと思う。

2008年11月8日土曜日

ヴィルヘルム・ハンマースホイ展を観てきた

国立西洋美術館で12/7まで行われている、企画展「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」を観てきた。

知らない作家だし、私の好きな分野の絵でもなさそうなので、9月末から開かれていたものの、気が向いたらいってみようかと思っていた程度だったけど、西洋美術館で企画されるくらいだから良い作家なのだろうし、広告などをみて少し気になったので、観に行ってみた。そんな感じで、あまり期待していなかったのだけど、予想以上にいい感じの絵が多く、観に行ってよかった。

展覧会は、初期の作品、建物と風景、肖像画、人のいる室内、誰もいない室内、同時代のデンマーク画家、といった分類でまとめられていた。

初期の作品とそれ以降の作品とでは、筆調が少し違うものの、モチーフや色調はそのままひきつがれていて、絵から受ける印象も同じ感じで、初期段階からスタイルが変わっていないというか確立されていたよう。
建物と風景では、宮殿など普段人が行き交うような場所を選んでいるにもかかわらず、人は描かれず建物だけが淡くモノトーンに近い印象の色調で描かれた作品が多い。
風景には他の作品と比較すると、少し鮮やかで印象が異なるものもあるが、人は描かれず、静かで少し不穏な感じが共通しているように思った。
肖像画のところは、個人的にはあまりいいと思ったものはなく、本人も肖像画は好んではいなかったようで、書く場合も「モデルのことを良く知る必要がある」そうで、親しい人物しか書いていない。内面を描こうとしたのだと思うし、作品もその人の肖像を書いたものというより、静けさや少し不気味な空間要素として描かれている感じがする。
中心的な作品たちと思える、人のいる室内、誰もいない室内の展示は、どちらも調度品が少なく生活感のない、静かで少し不気味な不思議な感じのする室内画だった。人のいる室内といっても、大半は黒いドレスを着た女性(奥さん)が後ろ向きでたたずんでいるだけで、そのことにより、鑑賞者の視点や観たときの印象が変わってくるものの、基本的には人のいない室内と同じで、これらがハンマースホイの特徴なのだと思う。
他に、ハンマースホイの友人でもある同時代のデンマーク画家の室内画も展示されていて、影響や違いがみられ、興味深かった。

企画展タイトルの副題に、静かなる詩情、とあって、確かに人のいない建物や室内、人がいても後ろ向きだったり、鑑賞者を無視してたたずんでいる感じで、静謐というか静けさを感じる絵が多い。ただ、詩情というとなんとなく、やわらかいような暖かみも感じるけど、ハンマースホイの作品は淡くてモノトーンに近い色調と、不気味な感じの静けさで、キリコの形而上画のような雰囲気で、少し不気味な不穏な感じがして、詩情という感じではないように思った。
ただ、抑えられた色調や構成はホイッスラーを意識しているようで、その意味では、詩情という方向なのかとも思う。

作品の多くは、建物や室内の様子や調度品などが精密に描かれているのだが、どことなく幻想的で、不気味な感じがする。
実際、視点の位置が複数あるというか、場所によってずれているように感じるところや、積極的にずらしていて、実際にはありえない構図になっていたり、室内の調度品の影の方向が違っていたり不自然な部分もみられ、それらが、よけいに幻想的な雰囲気を出しているのかとも思う。
また、家具などは実際より少なく、机や椅子が置かれている程度で、必要最小限というか、少しの家具だけ残し、人がいる場合も黒いドレスで、後ろ姿など表情が読み取れない構成が多く、物語性が排除されている。さらに、人がいない室内は、壁や床と、家具により独特のとても静かな空間が構成されているため、特定の室内を描いているにもかかわらず、部屋というものが抽象化され、色調や空間構成が感性を直接刺激する感じがした。

緻密な具象絵画でありながら、物それ自体の物語性が排除されているために、淡い色彩や室内が持つ壁などの構造からつくられる美意識が前面にでてきて、抽象絵画のような感覚的な把握が中心となる感じで、その感覚がいい感じで、見ていて楽しいというか印象深かい作品が多く、観に行ってよかった展覧会だった。

ハンマースホイの本: