2009年3月27日金曜日

源氏物語千年紀 を観てきた。

そごう美術館で、3/29まで行われている展覧会、「源氏物語千年紀 石山寺の美 観音・紫式部・源氏物語」を観てきた。

紫式部が源氏物語を書くなど、紫式部や源氏物語と関連の深い古刹・石山寺の関連した宝物や、同寺の所蔵する源氏物語を題材とした絵画や工芸が展示されているということで、以前石山寺にお参りしたことがあったこともあり、観に行ってみることにした。

入り口を入ると、寺を開いた良弁僧正、および、紫式部の肖像が描かれた掛け軸、少し進んだところに、如意輪観音像があって、隣の区画には、石山寺縁起絵巻(模本)や仏像、水晶の小さい宝塔や両界曼荼羅などといった宝物が展示されていた。
そして、次の区画が今回の中心的な展示といえる、源氏物語に関連した絵画や工芸品で、最も古様の紫式部像を描いたもの、源氏物語の場面を描いた屏風や色紙、源氏物語絵巻に、同じく源氏物語の場面を描いた蒔絵すずり箱など、主として江戸時代のものが展示されていた。出口よりの区画にも工芸品などが展示されていた。

石山寺の本尊である如意輪観音坐像は秘仏で、展示されているものは本尊厨子の前に安置されている如意輪観音坐像で江戸時代の作だが、写真が展示されていた本尊と同様の姿の仏像で、台座の部分も凝っているし、袈裟?の部分にも丁寧な装飾が施された様子も見て取れ、なかなか荘厳な仏像だった。
石山寺の宝物では、獣頭人身の弁財天像の掛け軸があって、蛇のような3つの頭を持ち、10本ほどの腕のあるとても奇妙な弁天さまが眷属や童子を従えている奇妙なものだけど、印象に残った。

室町時代に描かれ最も古様を示す紫式部の絵は、大きい絵で、ほとんど白黒のかなり痛んだ感じのものだったけど、かえって時代を感じ趣があった。
また、源氏物語に題材をとった蒔絵すずり箱は、非常に細かく丁寧に蒔絵が施されていて、なかなか見事なものだと思った。
屏風や色紙などは多数展示されていて、大和絵自体にあまり詳しくないので、描き方の違いなどは説明を読んでも良くわからなかったけど、源氏物語に興味がある人には、いろいろな場面が描かれていて、その様子などをたのしめるのかもしれない。

2009年3月25日水曜日

アジアとヨーロッパの肖像 展を観てきた。

神奈川県立近代美術館葉山館で、3/29まで行われている、「SELF and OTHER アジアとヨーロッパの肖像」を観てきた。

アジアとヨーロッパの出会いを背景に、広い意味での肖像、すなわち人物表現を伴う絵画、彫刻、工芸、写真などにおける自己像と他者像の展開を辿ります。神奈川県立歴史博物館との同時開催。(Webより)

展示構成は、
1章:それぞれの肖像、2章:接触以前-想像された他者、3章:接触以降-自己の手法で描く、第4章:近代の目-他者の手法を取り入れる、5章:現代における自己と他者
の5章構成。

王族など権力者の権威を示す肖像画から、異人や蛮人として異国の人物を想像で書いているものから、現代アートに見られる肖像までを、絵画だけでなく、彫刻、象嵌の根付や陶磁器、バティック、インドネシアの影絵人形、写真やビデオアートまで、人間の関心の対象あるいは表象として作られた様々な肖像作品をみることができる展示。

王族などの肖像画は、所持品が威厳や特徴を示していたり、想像の異人や、いろいろな技法による表現、写真が発明されて以降の肖像としての意味や、肖像とレッテルなどと本質の差や意味を問うような現代アートなど、肖像画の様々な背景や特徴をみることができる展覧会だと思った。

異国の人物としての偏見や互いの見方の違いなども、詳細に見ればわかるのかも知れないし、そのような差異を改めて知ろうというのも展覧会の意図のようにも思うが、その点については、ロートレックやミュシャなど確かに異なる文化での相互の影響を感じられるものもあったが、全体として知見を新たにするほどにはわからなかった。

ただ、普段あまり見かけない、東南アジアの作家の作品があり、写真のように非常に緻密に書かれたものが多く、西洋のほうが遠近法などを駆使し写実的な絵画を指向している感じはするが、そのような写実的表現技術がアジアにくると、非常に緻密な作品となり、よりリアルな作品を作り出しているような気がする。最も単に写実的な表現になってしまって、写真に駆逐されてしまうようなところもあるような気もした。

想像の異人には、腕長族ともいうような腕の長い人種をはじめ、小さい人種、足の長い人種など、実際にありそうなものから、腹に穴が開いていて、その穴に棒を通して運ばれる人種や、頭が無い人種、足が1本の人種などといった、奇妙な想像上の人種が異国に居ると思われていたことを知った。

個人的には、近代から現代アートよりに関心があるので、5章での、ビュッフェの作品や、草間彌生の自画像は初めて見たものだと思うし、ウォーホールのマリリンにボルタンスキーのモニュメントや、トーマス・ルフ、ジュリアン・オピー、といった作家の作品や、舟越桂の作品が見られたのは良かった。

2009年3月15日日曜日

関合正明展を観てきた。

先日、鎌倉の県立近代美術館に伊庭靖子展を観に行ったあと、鎌倉別館で3/22まで行っている「慈しみのまなざし 関合正明展」を観に行ってきた。
初めての公立美術館での回顧展だそうで、油彩や水彩、素描、などが90点以上、他に、スケッチや関連資料、挿絵や装丁の仕事などがケースに入れられ、合わせて150点を超える展示により、画業を振り返る構成。

70年代から80年代頃にかかれた、欧州や日本の家や風景画が多く展示されていたが、空は灰色がかった色で表現され、寂寥感の漂うような感じの作品が多く、また表面を荒く捉えたような塗りかたで、フォービズムの作品のようなタッチで特徴を捉えたような印象がした。

知らない作家だったし、どちらかというと、私の好きなタイプの絵ではないのだけど、静かで落ち着いていながら、昔ながらの温かみがあるような部屋に飾るのによさそうな感じの絵だと思った。

鎌倉館では伊庭靖子さんの、スーパーリアリズムのようなリアルな中に質感を再現したようなものを見た後だったので、粗いタッチで表現されて、見た目そのものとは異なりながら、その場の特徴というか風景の独特の雰囲気を伝えるような作品は、見た目にはまったく異なる性質の絵画で、絵を見ているときに感じるものが大きく異なっていて、なんか不思議というか絵を見る楽しみはこのあたりにあるかなと思ったりした。

2009年3月13日金曜日

伊庭靖子展を観てきた。

昨日(3/12)、鎌倉の神奈川県立近代美術館に行ってきた。
美術検定合格者向けのメールマガジンの抽選で当たった招待券で観に行ってきた。

鶴岡八幡宮の入り口に程近い鎌倉館は、3/22まで「伊庭靖子展 -まばゆさの在処-」を行っている。
クッションなどのリネンや、果物、プリンといったものを自然光のもとで撮影し、その写真を元にキャンバスに油彩で描いた近年の約40点の作品が展示されていた。
写真に固定された瞬間をさらに絵として描いているので、もともと動くものではない対象だけど、光の加減を含めた、ある瞬間をとてもリアルに捉えた感じの作品たちだと思った。
近づいて見るとキャンバス表面や絵具の跡などが見える一方、写真と同じようにボケ味も表現されていて、磁器の表面に写りこむ光の反射やクッションの微妙な陰影などがとてもリアルに感じられた。
大きいキャンバスに描かれた作品は、そのリアルな質感を感じ、静かな中に綺麗で清らかな印象を受けるものが多かった。
この絵を飾ることを考えると、あう場所のイメージが沸かなかったけど、絵自身はどれも綺麗な感じで、身近なものの持つ美的なものを引き出している感じがして、いいと思った。

2009年3月6日金曜日

マーク・ロスコ展を観てきた。

川村記念美術館で、6/7まで行われている「マーク・ロスコ 瞑想する絵画」展を観てきた。
マーク・ロスコは好きな作家で、川村記念美術館は昨年増改築して広くなり、ロスコの絵画を飾るロスコルームなどもあって、一度行って見ようと思いながら、少し遠いので行く機会がなかったけど、今回マーク・ロスコの展覧会とういことで、見逃せないと思い行ってきた。

今回の展覧会は、ヨーロッパでロスコルームを持つ、テート・モダンとの共同企画で、両者とナショナル・ギャラリーにあるものを含めて、シーグラム壁画と呼ばれる大型の連作30点中15点が展示されるのが目玉。
展示構成としては、展示室に入るとすぐに「赤の中の黒」という、ロスコらしい、もやもやした色調のオレンジというか茶色がかったような赤い中に、境界がにじんだような感じの黒い四角が上半分に、下側には背景と同系色で少し濃い目の四角がぼんやりと浮き上がるといった感じの作品が設置され、次の部屋はテート・モダンに絵を渡す際のやりとりの書簡やシーグラム壁画に関連した作品、シーグラム壁画を設置する際の配置を検討したらしい模型などがあった。
続く部屋が、シーグラム壁画の展示室となっていて、通常目にする展示とは異なり、見上げるような比較的高めの位置に壁面を埋めるような感じで隙間は少なめで並べられていて、四方の壁全体が作品のような感じだった。
他に、晩年の作品で濃紺というか黒っぽい中に黒という感じの作品4点からなる部屋と数点の展示といった展示構成。

入り口を入ったところに抑え目の照明のなか「赤の中の黒」があり、展示室に入ったらそこはロスコの世界、シーグラム壁画への前段階といった感じの2室目があって、シーグラム壁画たちによるロスコ空間といった感じで、こういった絵の好きの私としては、とても満足できた。

目玉のシーグラム壁画は、天井も高く空間の広い展示室の壁を埋めるように15点の作品が配置され、独特の空間が生み出された感じだった。
配置も普通にひとつひとつが一定の間隔で展示されるのと異なり、高めの位置に隙間が少なく並べて配置されていて、頭上の高いところから絵のほうが見下ろしているというか、壁一面の窓から光が差すように、絵が降ってくるような、なんというか崇高な感じのする空間だと思った。

シーグラム壁画は、赤褐色というか濃い赤紫色を基調にした作品が中心で、同系色や少し青みがかった色やオレンジ色で境界のはっきりしない四角や四角い枠がかかれた、なんともいえない作品たち。単品でも大型で迫力のある作品が、壁全体を覆うような窓といった感じで飾られ、この空間を体験するのに佐倉まできた甲斐があった。

書簡から、マークロスコは、自分の作品が他の作家の作品と並ぶことなく、また常設展示されれることを強く望んでいたようで、このような展示空間ができることを望んでいたのではないかと思えるような空間となっているように思う。

晩年のほとんど黒といった感じの藍色というか濃紺のものは、全面が黒っぽく見えるものの良く見ると微妙に内側の四角が浮かび上がってくるような感じのもの。全体が黒っぽい作品は初めてみたけど、こちらも小部屋3面に4枚の黒っぽいものが配置され、ホワイトキューブの展示室に置かれていることもあって、存在感がすごく、中央にはベンチが置かれていたので、のんびりと鑑賞させてもらった。

画面が大きいこともあって、作品点数自体はそれほど多くはないことと、晩年の作品が中心で鈍い赤紫から茶色やオレンジ、赤、黒、濃紺といった色あいのものが中心で、マーク・ロスコの本などの表紙を飾っているような黄色や緑などカラフルなのものはないものの、ロスコの作品をこれだけまとめて見られる機会はなかなかなく、素晴らしかった。ロスコの作品が好きな人には見逃せない展示だと思う。

2009年3月2日月曜日

脳は美をいかに感じるか を読んだ。

セミール・ゼキ著、河内十郎 監訳脳は美をいかに感じるか―ピカソやモネが見た世界(2002.2発行)を読んだ。
脳と美術といった、どちらも興味を持っている分野を、脳の働きの観点から繋ぐ本のようなので読んでみようと思った。

内容としては、
全体は終章を含め22の章立てとなっていて、脳と美術の役割(1~10章)、受容野の美術(11~16章)、美術形式の神経科学的検証(17~21章)の3部に分かれた構成。
1部では、「美術の目的は脳機能の延長にある」という筆者の考えをもとに、脳の機能や美術の機能について、物の形や本質をいかに表現し理解するかというような観点から、それぞれの働きとその共通性を画家自身の言葉と、神経科学の知見とを交えながら述べられている。
2部では、特にモダンアートの特徴が、単一細胞の受容野の特徴と似ていることが述べられていて、神経科学的というか神経機構における選択性細胞(ここの細胞の受容野における傾きや方向など、特定の要素に選択的に反応する細胞)の役割や、抽象画やキネティックアートなどが、最小要素を目指したり、動作、色、傾きなどといった、視覚に関わる要素のうち特定のものを抽出していて、選択性細胞の機能や脳の特定部位を活性化させることなどが述べられている。
3部では、美術の形式に対応して、肖像画と脳における顔の知覚や認識についてや、色彩の生理学と色彩の解放を目指したフォービスムとの脳機能から見た対応関係、抽象画と具象画で異なる脳の活性部位、さらに、モネの色彩感覚について脳機能から考えられることなどが書かれている。

優れた美術は多様な人の心を動かすもので、それは人の心理構造に関わる根本的な何かをとらえたものだから、心の動きは神経科学的機構に依存していて、美術と神経科学が関係することや、
脳機能、特に視覚の脳機能は「この世界についての知識を得るためのもの」であり、脳の機能は物体の真実の姿を表現することにあって、これは、画家自身が本質を捉えようという態度と共通のもの、といった観点が、「美術の目的は脳機能の延長にある」という作者の考えにつながるよう。

本質を取り出すといった恒常性の追求は、色や形に限らず、物体間の関係、顔や状況、正義や名誉、愛国主義といったより抽象的な概念にも適用できると考え、共通する特徴を抽出するものが美術の特質であるという捉え方を元に、脳機能との対応などが語られている。
単に概念的な話にとどまらず、特徴を抽出する基となる選択性細胞の存在や、
物体を見ることが近年、見る部位と理解する部位があるのではなく、見ることと理解することは切り離せない一方で、色や形など要素ごとに独立して脳で処理され、独立した小さい意識ともいうものが集まって、物や外界を意識的に認識することといった、
神経生理学的な見解も踏まえて述べられていて、説得力のある内容だと思う。

説明の難しいテーマのように思い、意味が良くわからない部分も時々あるものの、全体として記述は丁寧でわかりやすく、見ることと理解することが別個ではない一方で、要素ごとに見て理解する機能が分かれていること、そのような機能の分化とモダンアートの目指したものとが脳を考慮していないにもかかわらずとても似ている関係にあることなど、興味深く読むことができた。特に、紫外線のアートがないように、脳で認識できないものは美術としても存在しえないことは、当たり前のようで、美的体験も脳で認識するということを改めて明確にされ田感じがしたし、フェルメールの絵のような具象画についても、その表情や情景が同等の有効性を持つ多数の状況に当てはまり、状況の恒常性を抽出しているといった観点は、考えたことのない視点だった。
また、肖像画と顔認識や、色彩の部分で得られている波長自身より、周囲の光源を差し引く機能とフォービスムの色彩に対する考えなど、脳機能との対応の不思議さを改めて考えさせられた。

科学的な正確さという点では、サンプル数や実験方法など不明な点も多いが、
美的体験も脳内で処理されて生じていることであり、情動や情感まではまだまだ踏み込めないものの、視覚的な体験が対応する脳機能に応じて、分化したアートがあり、美術は外界の情報を得るために本質的なものの抽出するという脳機能の延長という考えは興味深く、読む価値の高い本だと思った。