2009年4月23日木曜日

真贋 を読んだ。

吉本隆明著、真贋(2007.1発行)を読んだ。

戦後最大の思想家とか、思想界の巨人といわれる吉本隆明氏の本は学生の頃に少し読んだけど、ほとんど覚えていないくて、難解な印象だけど、図書館のエッセイ書のコーナーでみかけ、たまには、そういう人の考えにふれるのもいいかと思いよんでみることにした。

内容は、「善悪二元論の限界」「批評眼について」、「本物と贋物」、「生き方は顔に出る」、「才能とコンプレックス」、「今の見方、未来の見方」の6つに分かれ、

いい面と悪い面は見方により異なるが、明るいのはいい、暗いのは駄目などのように単純に結び付けられて、価値が強制されてしまいがちで、何事にも利と毒があること、一方的な視点で見る危険性などといったことから、

いい作品と悪い作品の見分け方、歩くなどからだの動きを伴う思考が、文章に強弱をつけよいものとなること、身近な感覚を重視することや起源をみて本質を理解することなど批評眼の鍛えかたや、批評する上で心がけているようなこと、日本人の精神活動を考える上では起源は神道にあり、前思春期までの成長過程が性格や人となりに大きく影響するという考え、

いい人悪い人とか好き嫌いはある主題を限定した上ではあって、そこから全人格を判定するようなことをしないようにしたほうがいいこと、人の偉さと役職の偉さが日本では一緒になってしまっている人が多いこと、現代は日常のスピードと円熟のスピードがずれてしまって、才能や感覚の磨かれかたに人間性の円熟味が付いていかず、どっしりした大家というタイプがうまれにくくなっていること、善意の押し売りや相手の状況も考えず、悪いことを指摘しせめるような状況はよくないこと、

外見や性格や気風でも常識的に美点とされる見た目を気にするのは動物性の名残でないかとか、

戦争中は社会事態は国家全体がある倫理観や正義感で戦っている一方、庶民は戦争の緊張感から身近な凶悪犯罪はなくて倫理的だったこと、その倫理や健康というのが押し付けになり極端にすぎるととんでもない事態になってしまうこと。

などのようなことが述べられていた。

あとがきを読むと、ふだん考えたこともない視角からという注文をつけて、問いを提起してもらい、それに呼応することに心がけたインタビューを取りまとめたもののようで、マルクスをはじめいろんなことが言及されたりしているものの、文章自体は読みやすく、深く考えるとなにを言っているかわからない部分も多いが、吉本隆明の考えがわかりやすく説明されているように感じられる本だと思った。

最後のところで、
物事がいろいろな面や角度からみることが、正しく物事をとらえる上では重要だということ、
衣食住足りて、基本的欲求にみたされた現代において、閉塞感があったり人間として劣化しているように思われ、道徳の回復がよのなかを良くするというのは正しいかもしれないけど、そんなことが出来るくらいなら既にできているだろうから、今の状況を越えられるところを考え見つける必要があって、思想や政治システムというものより、人間性や人間の本質が生みだすものがとわれ、いいことをいいというのではなく、考え方の筋道を追って本質をみていき、人間とはなにかを根源的にかんがえる必要があるのではないかというようなことがかかれているが、
漠然とはそのように思っている人は多い一方、いい面悪い面併せ持つ不完全な人間が、現状は悪い面で指弾されてしまい、なぜ、悪いことをしたかとかが深く考えない状況になっていて、閉塞感がただよってしまっているように思った。
基本的な欲望がみたされた、夢のような時代ともいえる状況になったというのに、また悩み始めている人間自身について考えていくことは重要に思い、そのようなことが無意識下で作用して、脳や意識に対する興味や、一方で、芸術への感動、日本人として特に宗教観を持っていないものの、神道から来る歴史の中にいることもあって神社仏閣や仏像に惹かれるのかと思ったりさせられた本だった。

2009年4月22日水曜日

阿修羅展をみてきました。

先日(4/17)東京国立博物館で開催されている「興福寺創建1300年記念 阿修羅展」を見てきました。

その憂いのある少年の顔と三面六臂の独特の姿でとても有名な阿修羅像は、私も好きな仏像のひとつ。その仏像が見られ、同時に興福寺にある八部衆と十大弟子の仏像が露出展示されるとのことで、普段は興福寺までいってもガラスケース越しに、ほぼ正面からしか見ることが出来ない仏像たちを良くみることができるそうなのと、知り合いからチケットをもらったこともあったのでで観に行ってきました。

展示は、3章構成。
第1章は「興福寺創建と中金堂鎮壇具」、興福寺の中金堂基檀中から出土した、創建時に地鎮のために埋納されたと考えられる鎮壇具類を最近の発掘調査での出土品も含めて展示されていて、ケース越しの展示と、水晶筒や唐草文鋺などいくつかのものは、薄型テレビによりハイビジョンでの説明もありました。
第2章が「国宝 阿修羅とその世界」、第1章の展示室から移動していくと途中に、国宝の法隆寺阿弥陀三尊像とその厨子、華原磬(金鼓)、などがあって、次の部屋に入ると右側に十大弟子像が、左側に八部衆像が並んで展示され、その部屋を出ると、阿修羅像がスライドショーされている手のひらサイズの画面画並んだトンネルがあり、それを抜けて進むと阿修羅像を拝顔できます。阿修羅像は高めの位置と、像の近くを回りこんでみることが出来るようになっていました。
第3章は「中金堂再建と仏像」、展示室に入ると、 見上げる大きさの持国天をはじめとする四天王像があり、その先に、さらに大きな薬王菩薩像。その隣には薬上菩薩像があって、他に、釈迦如来像頭部などが展示されています。最後の部屋では、VRシアターとなっていて、興福寺中金堂を再現した場合の様子や、阿修羅像を大型スクリーンで上映していました。

最初の宝物類は国宝だらけで、資料的にもきっと非常に価値の高いもののように思われます。しかし、奈良時代といった昔に、水晶を緻密に切り出したり、装飾を施した杯などをどのように作ったかなど、考えると興味深いところもありますが、展示品自体はそのような技術や歴史的背景などを知らない私には価値がよくわかりませんでした。

法隆寺の所有する阿弥陀三尊像は伝橘夫人念持仏ということで、八部衆や十大弟子像、華原磬は光明皇后が亡き母橘三千代の一周忌供養のために作ったものだそうで、橘夫人とのつながりで特別出品されているようです。
この三尊像は比較的小さいのでケース越しで近寄れないこともあり良く見えませんでしたが、面長で角ばった顔の仏像で、背景などが細かく装飾されているような感じで、隣に展示されていた華原磬も竜の彫刻が優美な感じのする見事な鳴物だと思いました。

八部衆像はもともとはインドの神様なので、阿修羅像の三面六臂をはじめ、角や牙など人とは違った特徴を持っているものが多く、特に迦楼羅像は伝説上の鳥が神格化したものらしく、嘴や鶏冠を持っていて、とても変わった仏像で、この像は以前なにかでみて気になっていたので、見ることができてよかったです。
十大弟子はどれが誰かとかは書いてあるけど覚えられないのですが、それぞれ幼い顔をしたものから落ち着いた感じのものなど異なった顔立ちで、それぞれ、仏の道を歩む仏弟子たちらしい徳の高い僧といった感じがしました。
どちらも台の上に載せられて露出展示されているため、横に回り込んでみることができ、正面のほうからだけでなく、横や斜め後ろからもみることができ、普段はみることのできない方向からもみることができ、よりお近づきになれる感じでした。

阿修羅像は特に今回の目玉でもあり、阿修羅像のみで一つの展示室になっていて、部屋の片側のスロープを下りながら、部屋の中ほどに展示された阿修羅像に近づくようになっていて、やや高めの位置からみることができ、さらに、像の周囲どの方向からもみることが出来るため特に背面など普段見られないし写真等でもあまり見かけない方向からみると、像から受ける印象も異なり、いろいろな感じを受けました。
また、三面の顔は違っていて、正面の憂いのある少年の顔と比較して、両側の顔は表情が抑えられた感じですが緊張感のあるような顔に感じられました。
阿修羅像をはじめとするこれらの仏像はどれも、天平年間に作られたもので、表情が写実的で人間味が感じられました。(八部衆は人間ではないですし、鶏の顔していたりしますが)

中金堂を再建した際に移される予定の仏像たちは、鎌倉時代の作で顔立ちは私のもともとある仏像のイメージに近く、見慣れた顔つきの仏像だと思いました。
四天王は康慶作で、邪鬼を踏みつけ懲らしめている像はその大きさもあって迫力があるものでした。また、薬王・薬上の両菩薩像は3mの大きさとのことでしたが、台座の上に載っていることもあり、かなり大きい印象を受け、2対を並べてみると、薬師寺展でみた日光・月光菩薩像を思い出しました。今回のものは、木製で漆や金箔で仕上げているので、年数をへた痛み方や仏像としての印象はかなり異なりますが、控えめの照明のなかで見上げるほど大きい仏像2対が並んで配置されていて、どちらも荘厳な印象を受け敬虔な気持ちになります。

阿修羅像をVR技術によりデジタル化したものや、現存しない中金堂を再現したものを、ハイビジョンの4倍の解像度を持つシステムを用いて、300インチの大きいスクリーンで紹介していて、画像でみると阿修羅像の模様や細かい表現がよりわかりやすく紹介されていた。

流されている映像をみるだけだと、この場所を良く見たいと思っても次に写ってしまうところがあるけど、最近は解像度も高く、本物を見るよりも綺麗だったりするし、わかりやすく、しかも本物ではそこまで近寄れないようなところまで近づけたり違った見方ができていいと思った。

最初の展示室の宝物とかも、実際のものはガラスケース越しで良くわからないので、映像の展示のほうが印象に残った。
ただ、映像でみると本物を見るというありがたみが、どうも薄くなってしまうし、展覧会を観に行く醍醐味みたいなものが変わってきてしまうように思うけど、、、

平日の開館時間も延長されるほどなので、混雑状況から比較的好いていそうな時間帯の金曜の夕方を選びましたが、結構な人の数でした。宝物類はガラスケース越しにみるのですが人が多くて、少しずつケース越しに進むとすごく時間がかかりそうなので、仏像を中心にみて、閉館時間に近くなった頃に改めて宝物類をみたりして、結局2時間半ほどかけて、展示を3周してきました。


2009年4月19日日曜日

平泉~みちのくの浄土~展を観てきました。

世田谷美術館で今日(4/19)まで開催の特別展「平泉~みちのくの浄土~」を観てきました。

中尊寺金色堂西北檀の仏像十一体が堂内の配置のままに公開されるのと、みちのくを代表する仏像が展示されるということなので、見ておきたいと思い観に行ってきました。

入り口を入ると、平泉が全盛の頃の建物の配置などがわかる古図や中尊寺建立の願文などがあってその先の部屋に金色堂の仏像たちが置かれ、隣の部屋には、中尊寺の大日如来坐像や、岩手の天台寺のご本尊である聖観音菩薩立像や如来立像など、他にも東北のお寺から四天王などの仏像が展示されていました。
他に、毛越寺の阿弥陀如来坐像もあり、通常は常設展示の場所らしい、2Fの展示室では、入ってすぐのところに中尊寺大長寿院の騎師文殊菩薩半跏像と四眷属が置かれていました。
仏像以外には、藤原氏が築き上げた仏教文化の特に浄土思想に関連する当麻曼荼羅図や阿弥陀浄土図などの展示、金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図や金銅迦陵頻伽文華鬘をはじめとする中尊寺の宝物や、藤原清衡の発願により書写された金銀字一切経といった平安時代後期を中心とした中尊寺ゆかりの宝物や毛越寺や達谷西光寺の宝物、平泉地域の遺跡からみつかった平安時代後期の出土品、桃山時代や江戸時代に描かれたみちのく平定に関わる絵巻や坂上田村麻呂や藤原三代画像、平泉諸寺参詣曼荼羅図、金色堂の柱などの復元模型といった、貴重な資料や宝物が多数展示されていました。
また、中尊寺や毛越寺などに伝わっている宝印や版をはじめ、江戸時代や現代まで引き継がれている行事などに使われる品々や衣装の展示もされていました。

展示数としては、宝物類が多く国宝・重文90点以上を含め200点を越えていて、遺跡や平泉の歴史などに興味があれば、かなり見ごたえがあるように思う。

目的としていた金色堂の仏像は、印象より小さめでしたが、照明の関係か思った以上に保存状態が良く、しかも落ち着いた色合いでした。チラシの写真では金色の色味が強い上、良く光っているところと暗いところのコントラストが強くいかにも歴史を経てきた仏像といった印象でしたが、実物を見ると最近になって複製したような感じがするくらい、金色の輝きは控えめでしかも表面が滑らかで驚きました。金色堂内に安置されているときは、あまり近くまで寄れまないと思いますが、今回はケースに入れられていましたが、それなりに近づくことができ、横から見たりじっくり鑑賞できました。
また、騎師文殊菩薩半跏像と四眷属も、金色堂の仏像以上に保存状態が良く、色もはっきりしていて、まるで最近作られたもののようでした。
他に、天台寺の仏像は比較的大きいことや、ノミの跡を残し独特の風合いを持ったものや、素朴な感じの仏像で印象に残りました。
宝物類や遺跡の出土品はあまり詳しくないため、博物館でいろいろなものを見るのと同じ程度には興味深く見ましたが、どういう点がすごいのかなどは良くわかりませんでしたが、鉄樹や金銅五鈷杵など毛越寺の所蔵するものや、仏像のレリーフのような御正体、金銅迦陵頻伽文華鬘などの金色堂堂内具などはあまり見たことのないもので印象深く、金字宝塔曼荼羅は紺地に金字で一切経が宝塔の形で描かれており、信仰の強さや信仰対象としての曼荼羅のありがたさを感じられ、金銀字一切経は展示数も多く、経を大量に金銀字で書写するといったその信仰心などが印象に残りました。
他には、金色堂の柱を再現したものや、須弥檀も復元模型でしたが螺鈿の装飾がされ見事でした。

金色堂の仏像を見るのが主目的でしたが、天台寺の仏像など、印象深い仏像に拝顔することができてよかったです。

2009年4月11日土曜日

人間科学を読んだ。

養老孟司著、人間科学(2002.4発行)を読んだ。

養老氏の本は、バカの壁などが有名だけど、それよりも少し前に発行された本。
引き続き、脳関係に興味があるので、養老氏の本を図書館で探していて目に付いたので読むことにした。

内容は、1章の「人間科学とはなにか」に始まり、ヒトの情報世界、差異と同一性、都市とはなにか、人とはなにか、シンボルと共通了解、自己と排除、男と女、といった、ヒトとはなにかを情報系として捕らえつつ、脳の特性や進化や発生の過程などを踏まえて、養老氏の見解として、途中補足のような文章を交えながら述べられている。

人が知っていることというのは、自分の脳のなかにある「なにか」だけで、情報系としてヒトを見ると、細胞というシステムが遺伝子という情報を利用するように、脳がシステムとして情報である言葉などを利用し、ヒトは単なる物質とエネルギーの塊ではなく、この2種類の情報系がヒトをなしていること。
情報は固定されたもので、それを使うシステムは変化するものであり、都市化はすべてのものを情報として固定化していく社会で、自然はもともと絶えず変化するものであるから都市において排除されること。
言葉はコミュニケーションをとるために、聴覚と視覚の両方に共通する要素を抽出し、外界のものに共通了解性をもたせ、情報として固定したもの。
というようなことが考えの中心にあるようで、固定と変化、同一性と差異、言語というシンボルが強要する共通了解性とクオリア性、といったことについての養老氏の見方が述べられていて、以前読んだ本にも同様のことが語られていて漠然と把握していたこともあって、言語や意識に対する私なりの漠然とした考えと近い感じがして、文章中に注釈のように入れられた補足説明をしたくなる感じがわかるような気がして面白かった。

2009年4月8日水曜日

多世界宇宙の探検を読んだ

アレックス・ビレンケン著、多世界宇宙の探検 ほかの宇宙を探し求めて、(2007.7発行)を読んだ。

久しぶりに読んだ宇宙論関係の本。宇宙論を研究し世界的に知られる著書が一般向けに書いた本で、現在の宇宙論から考えられる宇宙のモデルやそのモデルがもたらす世界観を解説した本のようなので、興味を持ち読んでみた。

構成は、宇宙創世記、永久インフレーション、「平凡の原理」、始まりに先立つ、の4部で、それぞれが、4から6の章立て。
第1部では、グースの提案したインフレーションする反重力物質の崩壊がビッグバンとして現れるというインフレーション理論からはじまり、この反重力物質と同様の考えがアインシュタインが導入し後に撤回した宇宙定数にあること、アインシュタインの理論以降に導かれた宇宙の構造やビッグバン後の物質や銀河など宇宙創世のモデル提案と、観測結果による裏付けられてきた様子を踏まえて、再び、現在の宇宙ができるのに必要となるビッグバンの初期状態がどのように決まったかを示すインフレーション理論の、緩やかなランドスケープを持つスカラー場を偽の真空が移動し、最小値の振動により崩壊してエネルギーが火の玉のビッグバンとして現れる宇宙ができるという内容について、現在に至るまでの検討状況を含めてより詳しく説明されている。
続く第2部では、インフレーションする偽の真空の膨張速度は、その崩壊速度より速く、偽の真空の指数関数的な膨張の海の中でインフレーションの終わった島宇宙が形成され、その島宇宙が次々形成される永久インフレーションモデルや、1998年に宇宙の膨張が加速しているという観測結果から、真の真空もゼロでない質量密度を持ち、アインシュタインの導入した宇宙定数に対応するものが存在すると考えられること、宇宙の平坦度や小さな密度のゆらぎがマイクロ波や背景放射の観測からも裏付けらてきていることなど、最近の動向や著者の提案した永久インフレーションモデルの時空の構造について、すべてのビッグバン事象は空間的(光速で移動しても到達できない)間隔で隔たれていること、島宇宙の内部的な視点からはビッグバンは同時に起こり島宇宙は無限大に見えるが、インフレーションする巨大な領域全体からみた視点では、ビッグバン群は島宇宙の境界で進行して島宇宙は時間と共に成長するようにみえ、空間的な無限が別の視点から時間的な無限にみえることや、島宇宙の数も時間と共に増え続けることなどが書かれ、さらに、観測可能な地平線内の宇宙と同じ大きさを持つ無限のО領域で島宇宙を分割し、量子力学的な不確定性によりО領域の物質が取りうる構成の数が膨大ではあるものの有限であること、さらに、二重スリット実験により可能な近接した歴史が干渉して事象は確率的に表現されることから、歴史も区別される構成の数は有限となること、一方で無限個のО領域が存在することは、すべての歴史がどこかで起きていると考えられることなど、量子力学的な確率の性質が宇宙の構造に関わり、量子力学の解釈のように多世界解釈が生じることなどが述べられている。
そして、第3部では、
真空が量子物理学においては、量子ゆらぎを持ち、スケールを小さくすると揺らぎの強さと振動は増加していくこと、スケールを小さくすると時空の幾何構造もゆらぐなど、とてもダイナミックでエネルギーは大きくなる一方、真空のエネルギーに対応する宇宙定数がインフレーション理論からは決まる上限値はとても小さいことから、まだ発見されていない素粒子の対称性から説明されることを期待していたが、真空の質量密度が宇宙を平坦にするのに対応した量と導く観測結果が出てきたこと。
その数値が、偶然にしては出来すぎていて、それは、観測者が存在できるような適度な時間存在できる宇宙がたまたま観測されるからというような人間原理に関わる議論や、物質や相互作用のより統一的な理論として期待される、ひも理論とそのランドスケープから様々な真空に対応した領域が永久インフレーションの進行する間に生み出されるといった話がされ、
最後の第4部では、
宇宙のさらに始まりについて、時空の存在しない無から量子トンネル効果によって偽の真空が生まれるモデルや、終わりについては、従来は宇宙の密度が臨界密度より大きければ収縮に転じビッグクランチが、小さければ膨張を続け冷えた星の残骸が増え、さらには、分解し、ひたすら薄くなるニュートリノと放射の混ざったものになるといったものから、インフレーションにより宇宙の密度が臨界密度に近く、構造形成が長く続くこと、インフレーションは永久に続き宇宙全体は終わらないという考えになり、最近では宇宙定数が存在する証拠が出てきているため、膨張を続けることが予測され、さらに宇宙定数が定数ではなく真空のエネルギーは減少して行き、負となる場所もでき膨張は停止しして収縮が始まる可能性もあること、ひも理論のランドスケープから、真空が泡核形成を通じて崩壊し、負のエネルギーを持つ真空の泡が時折出現して膨張し、それとぶつかり消滅するシナリオなども考えられることが述べられていた。

前回読んだ宇宙論の本、暗黒宇宙で銀河が生まれる ハッブル&すばる望遠鏡が見た137億年宇宙の真実 (サイエンス・アイ新書)では、一般向けに宇宙論を基本的な知識からインフレーション理論や暗黒物質の存在まで、広く技術的な内容をわかりやすく説明していたものだったが、こちらは、量子論やビッグバン宇宙論を踏まえ、現在の宇宙の状態やビッグバンの初期状態がなぜいまのようになっているかなどの問題が暗礁に乗り上げていたところに出てきたようなインフレーション理論の提案とその問題点やそれを解決するための新たな提案など、最新の宇宙論の発展してきた様子や、人間原理なども含めその理論が導く世界観に話の中心があり、物語的に書かれた本。

インフレーション理論の描く宇宙の始まりは、
エネルギーが高い偽の真空が持つ張力に対する反発力としての重力が質量に起因する引力よりも大きい場合、質量密度が一定のまま膨張していき、膨張率一定のまま指数関数的に膨れ上がっていき、その過程のなかで、不安定な偽の真空が崩壊してエネルギーがビッグバンの火の玉となる。インフレーションの中での崩壊は泡の発生のようなもので、その衝突によりエネルギーが高温の粒子となるが、その崩壊は、平坦なエネルギー密度のランドスケープを持つスカラー場の変化で表され、高いエネルギー密度の偽の真空が低いエネルギー密度の方向へ移動し、最小値を持つ真の真空の位置で振動して、場のエネルギーが粒子の熱い火として放出されることでインフレーションが終わりビッグバンとなることのよう。
また、このりろんにより、不安定でエネルギー密度の高い偽の真空のかけらがインフレーションを続け膨張しながら一方で崩壊したところがビッグバンとなり、十分空間が広がってから崩壊して火の玉となることから宇宙が高い精度で臨界密度と一致しビッグバンの初期状態と現在の宇宙の平坦性などの問題を解決するよう。

こういったインフレーション理論のイメージがこれまでよりわかったように思う。
また、量子力学的な効果から膨大とはいえ、観測可能な範囲の宇宙が取り得る状態が有限で、そこにある歴史も有限で、観測者からは宇宙が無限大にみえることから、すべての取りうる状態や歴史がありうるという考えは、非常に不思議な感じがした。
他に、真の真空が質量密度を持つ可能性が出てきたことなど、最近の宇宙論の変遷をしることができて良かった。

わかりやすくするためにイラストなども交えて説明されているが、どうしても時空間の境界や閉じた空間、ローカルな観測者からは無限大の空間に見える事象がグローバルな観測者からは有限の空間が無限に進行する様子にみえることなど、なかなかイメージがつかめない。
しかし、複雑な理論の雰囲気はわかるような気になり、研究者の意気込みや論議のなかから理論が生まれる様子も伝わってくる良い本だと思う。