2008年7月29日火曜日

出光美術館ルオー展

(別サイトと同じ)
午後から、友人と東博に対決巨匠たちの日本美術展を見に行く予定にしていて、その前に、出光美術館のルオー展を見に行ってきた。
体調が悪く、絵を見ていてもなんていうか、いつものようにいろいろなことが感じられないというか思い浮かばないというか、何か、絵から受ける感じが違った。
ルオーの絵自身がなんていうか、苦悩を抱えたような暗い感じの絵が多いので、体調の悪いときに見る絵ではなかったかもしれない。
だんだん体調が悪くなったので、東博に行くのもやめてしまった。

出光美術館は始めての訪問。
帝国劇場のある帝劇ビルの9Fにあって、専用エレベータであがると受付階にいける。
ルオーの作品はもともと、出光コレクションの代表的なもので、今回は大回顧展として、1910年ごろの初期の作品から、銅版画集や連作油彩画、1950年頃の後期の作品までが数多く展示されていて、ルオーの作品をまとめて見たことはなかったので、特に後期の絵の具を盛り上げた画風への変化もみることができた。
銅版画集や連作油彩画は、一連の作品が壁沿いに並び、壮観な感じもしたが、ルオーらしいといえばルオーらしいのだが、太い線と絵の具を削ったり盛り上げたりした独特の風合いも持った、物語的な画面構成の宗教画で、いくつかは、興味を惹くものの、あまり、じっくり見たくなるような作品でないものも多く感じた。
後期の絵の具を細かく積み上げ、砂を固めたような溶岩のような風合いの絵は、グロテスクな感じもしたが、独特の雰囲気で、ルオーの持つ、少し不気味なような、精神性に訴えるような雰囲気に磨きがかかったように思え、印象にのこった。
ただ、今回は、少し体調が悪かったのもあって、全体としては、あまりいい感じの展覧会でなかった。

今回の展覧会の図録ではないけど、
ルオー (出光美術館蔵品図録)

出光美術館

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2008年7月28日月曜日

働くことがイヤな人のための本

(別サイトと同じ内容)
どうも、働くのがイヤな私には、ぴったりの題名の本
たまたま目に止まったので読んでみた。

働くことがイヤな人のための本―仕事とは何だろうか
中島 義道
日本経済新聞社

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この世は理不尽、かといって、考えても仕方ないとか、努力すればいつかは報われるといった欺瞞をいうのは鈍感で善良な市民、と言ってのける。自分のやりたいことを見つけられ、しかも、やり遂げられる人なんてほとんどいないし、やりたいことを続けても、がんばったところで、ほとんどの人は一流になれず、やりたいことを貫くのは、大抵つらく厳しい人生。かといって、引きこもって、何もしないで生きるのも難しいし、長く引きこもると、自分は悩んでいることで他よりえらいという方向になりがちとなる。生まれては死んでいくという不条理を見つめ、そこから目をそらしたりごまかさずに生きて死んでいくというのは、何かを成し遂げたりしていないからこそできること、というような話で、結局、働きたくない人はどうしたらいいかという、回答らしい回答は得られない(当たり前かもしれない)。不条理を見つめ生きていくことということなのかもしれないが、、、

しかし、何のために働くのかとか、なぜ生まれてきて死ぬのか、というようなことを考えずにいられず、そうは入っても仕事はしなきゃとか、そんなこと考えても仕方ないという風に割り切って日々を生きていくことができず、なんで働かなきゃいけないんだとか、つまらない仕事をしたくないし、働きたくないと思ってしまう(単にわがままなのかもしれないけど)私のような人には読んでみる価値はあると思う。
仕事に意味を見出せない20から50代の代表4人との対話の形で語られていて読みやすく、特に前半部分を中心に面白いというか、共感できる部分が多く、一気に読み終えてしまった。

セルフ・エデュケーション時代

(別のサイトと同じ内容)
アート・リテラシー入門に引き続いて、といっても、こちらのほうが先に出版されているが、アートの批評や鑑賞を単なる受動的なものではなく、能動的で参加型のプロジェクトとしてみなすような流れと同様の方向性を持つ、セルフ・エデュケーション時代という本を読んだ。
practica〈1〉セルフ・エデュケーション時代 (プラクティカ (1))

フィルムアート社

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セルフ・エデュケーション、日本語に訳すと、自己教育、自己学習といったところか。タイトルからは、自分で教育していく時代という意味に思い、自分を律することが必要な時代であることとか、そのための方法などととれるが、この本は主としてアートの側面において、(アートそれ自体境界があいまいになってきているため、様々な分野に広がり、その分野に制限を設けてはいないが)、様々なマイノリティ参加型やコラボレーションプロジェクトを例に、個人が関わり試行錯誤するプロセスそのものをアートであり創造的行為としてとらえ、参加、あるいは行動することで、アートなどを捉える上で、単なる知識の積み上げではなく、全身の感覚や体全体で他との関係性も含めて把握あるいは巻き込まれることで、自分なりの表現、批評すること(それ自身が創造的な作品でありそのような学びや創造)をセルフ・エデュケーションとしているようである。

内容は、子供や障害者などのマイノリティから、地域参加、あるいは地域に関連したプロジェクト、教えるー教えられるといった関係ではないフラットな学びの場に関する議論や、知識の伝達ではなく、身体的、感覚的な行為も含めたもっとダイナミックで創造的な作業として、デザインやアートの教育を捉えるような立場など、様々な例や議論が紹介されている。
全体として、脱芸術、脱資本主義、脱権威、他者との関わりとプロセスそのものを創造的行為としてとらえ、学びの場とするといったことが議論されている。ただし、独善的になってしまわないような自己批判のようなことも書かれていて、ともかく、価値観を固定することなく、いろいろな枠をはずすと共に、他者を認めていくということの重要性を説いているように思う。

最近、突然無差別に刺すような事件が多く、そのようなことが社会背景から語られることも多いが、犯罪に走らない人もいるわけで、きわめて直情的な理由でいきなり犯罪に走るのは創造力の欠如と思えて、アートを通じたセルフ・エデュケーションは、他者との関係性を新たにしたり、想像力を養うことで、よりよい社会につながるのではないかと思ったりで、内容そのものが、広範囲にわたるため、用語的にも理解が難しい面もあるが、いろいろと考えるきっかけとなる話が多く、さらっと読み流せず、読むのに時間がかかった。

2008年7月27日日曜日

トレース・エレメンツ展と麻田浩展

(別サイトと同じ内容)
金曜日の夕方、新宿のオペラシティアートギャラリーで行われている展覧会を見てきた。企画展示では、トレース・エレメンツ-日豪の写真メディアにおける精神と記憶、というタイトルで日豪10名のアーティストの作品が展示され、特別展示では麻田浩展が行われていた。

企画展示のほうは、写真メディアといっても、通常のなにかのシーンや風景を切り取るものではなく、参加型のヴィデオインスタレーションまでも含んだ現代アートの展示となっていた。ヴィデオアートは、やはりなんだか良くわからなず、少しは見ていたものの、そもそも、最初から最後まで見ることを想定しているのかよくわからないけど、あまり引き込まれる映像ではなかったので、良くみていないで判断するのもどうかと思うが、あまり面白いものではなかった。
平面作品では、入ってすぐの部屋に飾られた、志賀理江子の作品は、幻想的というか、オーラを可視化したというようなオーロラのような感じの光が表れていたり、体からスパークしたような光が出たり、その光でゆがんだような感じになっていたりで、現実にはない少し不気味な作品ではあるものの、今回の展示のなかでは、比較的、私の持っている写真作品のイメージの範疇に近く、興味深くみれた。他にソフィー・カーンの作品は、小さな三角形が寄せ集まったメッシュで人の体のようなものを表現しているように見えたが、解説をみると、デジタルスキャナーによって身体を要素に分解して彫刻や彫刻的なポートレートとして再構成したそうで、平面作品はグラフィック的な美しさを感じるものの、彫刻はあまり興味を惹くものではなかった。また、田口和奈の作品は、Webのアーティスト紹介の所にある作品は見当たらなかったが、モノクロームというより銀灰色の中に薄ぼんやりと人物像が浮かんでくるような感じの作品で、Webやチラシにある写真では割とはっきりとした白黒人物の絵の写真となっていたが、濃い銀色のなかでの少しの濃淡さで表現されていて非常にぼんやりしていて、照明の関係もあるかもしれないが、少し見にくいものの、その表情の表現などを良く見てみたくなるような作品だった。

特別展示のほうでは、麻田浩という作家を私は知らなかったが、薄く塗られたような乾いた感じの背景に、やけにリアルな水玉や羽や石やら良くわからないものが配置されていて、シュールレアリズムの作品のような幻想的な感じのする作品が多かった。全般的には青から緑で灰色がかった色調のものが多く、静かな廃墟に光が当たったような感じを受けた。書籍の装丁というかカバーも手がけていたようで、それらや、手帳や手記なども展示されていた。

今回は、企画展よりも特別展のほうが興味深く、こちらがなければ、入場料が高かったように思うが、麻田浩の作品は惹かれるものが多く、結果としては良い展覧会だったと思う。

ニコンサロン、ペンタックスギャラリー、

(別サイトと同じ内容)
金曜日、庭園美術館に行ったあと、新宿に用事があることもあって、オペラシティギャラリーで行われているトレースエレメンツ展と麻田浩展を見に行くことにしたが、そのまえに、時間調整もかねて、ニコンサロンとペンタックススクウェアによって写真展を見に行ってきた。
ニコンサロンでは、山下忠志展で、「さよなら日本」というタイトルで、内容解説から1999年だと思うが、新宿の様子を歩いている人やたたずんでいる人などの多数の写真を壁沿いに隙間なく上下方向にも数枚並べて配置され、ギャラリーに入るとモノクロームの独特の質感や雰囲気と写っている人たちの様子や視線に囲まれるような感じのする展示だった。併設されているニコンサロンbizのほうは、山田昇展で、「秩父・自然と共に生きる人々」というタイトルで、秩父の町か村かの風景や、吊るし柿、植物や虫など、秩父の自然と底に生活する人を捕らえたカラー写真の展示だった。解説に、作者は自然と共に質素に生きることの大切さを知ったとあるので、自然のよさや懐かしさ、自然との共生を表現しているのだと思うが、それほど、惹かれるものではなかった。
写真に興味を持ち始めたものの、写真展では、どうも感動するというか、いい展示でよかったという感じがあまりもてない。ニコンサロンは28Fにあって見晴らしがよく、写真よりもエレベータホールやニコンサロンから見える新宿の町並みのほうが、高いところの好きな私としては、よりリアルな新宿画見えて感動してしまう。
ペンタックスフォーラムは、新宿センタービルにあり(残念ながらこちらは半地下だが)、前回寄ったときは丁度定休日だったので、どんなところかと思い行ってきた。
ニコンサロンと同じように、ショールーム、サービスカウンター、セミナールームとギャラリーといった構成で、ギャラリーでは、金井道子というかたが、「ガラスの向こうのマドンナ」というタイトルで展示していた。ショーウィンドウのマネキンなどのディスプレーを撮影したもので、人の目を引くようなものでありながら、すぐに移り変わるため、そのとき、をとらえているらしい。非常に粗い質感にしたり、輪郭を強調してイラストのようにしたものなどもあり、少し面白かった。

2008年7月26日土曜日

庭園美術館の舟越桂展

(別サイトと同じ内容)
kaikaikikiギャラリーを見たあと、舟越桂展をみるため目黒の庭園美術館まで行ってきた。
入り口に、戦争を見るスフィンクスというタイトルの木造彫刻が飾られていて、入るときは、さっととおりすぎてしまったが、中の展示室内に戦争を見るスフィンクスIIというタイトルのものも飾られていて、帰りに再度良くみると、中に展示されていたIIほどには、悲しみかなにかで顔をひずめた様子はないものの、さびしげな、額の皺をイメージさせるような額のへこみというか皺がある作品で、代表的な作品とも思えるものであった。中に入ると、最初の広間には、森に浮かぶスフィンクスというタイトルの作品が飾られ、4本の木でできた棒状のものに彫像が支えられ、もともと不思議な感じの彫像がいっそう不思議というか、なんでこんな形にしたんだろうと考えてしまう作品が置かれていて、他の部屋には、顔などのドローイングを中心に展示した部屋や、木彫とそのための秀作としてのドローイングが置いてあったり、2階にのぼったところには、風をためてというタイトルの、どこか考えにふけりながら遠くを見つめているような青年の彫像が置かれて、お風呂場にも、独特の首が長くて、すっとした感じの女性像で、肩越しから別の手が生えているようなものが展示されていたりで、庭園美術館のアールデコ調の独特の内装とあいまって、美術館全体は不思議な空間が構成されていた。
彫像は、首が2つあるものや、手が変なところから生えていたり、両性具有であったり、頭からさらに小さな人が飛び出していたり、側頭部に顔があったりと、構成自身は、この表現からなんとも不気味な感じがしてしまうが、実際には、非常に美しく素敵な作品が多い。最も、なぜ此処から手が?とか思うし、顔もどこかで見たことがあるようなないような、きれいな顔だけど、現実にもいるような顔でありながら、首はやけに長かったりで、なんとも不思議な彫像だと思う。
また、版画も展示されていて、彫像と同様に、すっとした感じや、懐かしいような、それでいて、なんともいえない静かで不思議な感じのする作品だった。
立体作品はとらえどころが良くわからなくて、これまで、あまり興味をを引く作品に会うことがなかったが、具象的な顔自身がきれいで、なんだかいい感じなこともあって、思っていた以上に満足できた展覧会だった。

舟越桂全版画1987-2002
舟越 桂
青幻舎

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村上隆のポスター展

(別サイトと同じ内容)
昨日、半月ぶりくらいに都内にでかけ、ギャラリーや美術館をいくつか回ってきた。
最初に広尾から有栖川公園のちょっと先までいったところにある、kaikakikikiギャラリーに、村上隆ポスター展をみてきた。
16億円フィギュアやなので、なにかと話題に上る村上氏の作品をあらためて、まとめて見るのは初めてで、テレビや雑誌で目にする作品からは、あまり好みの作品ではなかったのだが、「マイ・ファースト・アート」シリーズということで、ポスターといった平面作品がそろうので、見に行ってみる事にした。
相変わらずの、ミッキーのまねようなものや、カイカイ、キキのキャラクターや達磨やら、かわいい感じのキャラクターというかマークが、ごちゃごちゃっと埋め尽くした感じのものなどが2001年から最近までのものを順に展示されていた。
作家の署名やエディション入りのアートを、比較的安価な値段で提供することを目指す一方、箔などの新たな素材を用いて、より豊かな表現を追求しつつ、妥協することなく、日本の高い印刷技術を用いて、高いレベルの作品作りを行った。というようなことが説明されていたが、村上氏の作品は既存のアニメ文化などから切り抜いてきたものを、概念的に加工して、美術作品として位置づけることで、価値観を揺さぶり、新たな価値を生み出した点や、商業ベースと強くかかわることで、美術とデザインの境界にも揺さぶりをかけている点にあるような気がする。
それに、作品自身は美術作品というよりは広告などのグラフィックに近く、純粋な視覚的美しさといったものは、概念や価値観に影響を与えるために精密に検討されるとしても、ポスター上での髪の毛1本のずれを生じさせないととか、より豊かな表現を目指して新たな素材を用いながら、高い技術レベルでの印刷を行うというようなものとは思えず(グラフィックであるとしても自分の行いたい表現をする上での技術的な要望はあると思うが)、印刷技術者自身も最高のものを目指し、これまでの版画とは異なる、新しい価値観を創造した。というのはなにか方向が違うような気がした。
とはいうものの、達磨シリーズは、明るく楽しい感じになる漫画やアニメ的なキャラクター表現でも、全体的に暗い色調で金メラ状の背景に達磨の目の明るさが強調され、それなりに面白い作品で、実際に村上隆の作品をまとめてみたのは初めてであって、これまで、多少食わず嫌いのところもあった感じがした。

いづれにしても、作品そのものというより、美術作品や文化、商業の関係性や、概念、価値、といったものに揺さぶりをかけ、議論を巻き起こす作家であるのは間違いなく、作品のイメージが嫌いというだけで、食わず嫌いであったのを見直すきっかけとなった点ではよかった。


芸術起業論
村上 隆
幻冬舎

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2008年7月21日月曜日

絵をみること

(別サイトと同じ内容)
絵を見ることとか、楽しいとか嫌いとかってどういうことかと思ったりして、アート・リテラシー入門という本を読んでみた。

アート・リテラシー入門―自分の言葉でアートを語る (Practica)

フィルムアート社

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この本は表現方法や知識情報があふれ、ジャンルも多様化したアートを自分の力で読み、語るための指針やヒントを与えるもの。
アートの楽しみは、アートによって日常からの逸脱や価値観の揺さぶりが引き起こされ、日常にはない時空間を感じることにあって、鑑賞行為を受身な趣味的な行為ではなく、ひとつの直接体験としての能動的で創造的な行為として、自分の力で読み解き表現するというような主張は、私も興味のあるところ。
中身は、単に絵画や彫刻を例にした批評や読み解きだけではなく、写真や映画、音楽、ダンス、建築、文学など様々な側面を扱っている。
中心的な内容は、アートについて読み解き自分で書くための指針やヒントとしての解説で、読み解くという点では、それぞれの専門家が、感覚、あるいは、コンセプチュアルというか見方の多様性といった観点から、感じ方捕らえ方を解説や例示し、書くという点では、批評そのものや批評家の批評内容を批評し、自分の力で読み取り感じたものを表現するヒントを与えているように思う。
また、
フランスのアートリテラシーとして、フランスで定番となっているイメージ文化の入門書を元にした議論(議論というよりは、入門書の中身のイメージや概要の紹介)、
アメリカでの美術館のあり方の議論からでた、鑑賞者のための鑑賞者あっての美術館として、美術教育の重要性、美術館のありかたに関する報告、
生活領域へのアートの拡張などといったアートの周辺領域についての解説、
アートの必要性や現代アートとは?といったことのQ&A式での解説
などが書かれ、
比較的興味の薄かった分野や、言っていることが理解できない部分も多々あったが、全体としては、興味深く読めた。

印象派に続く抽象表現主義の絵画は好きなものの、絵を見てもつまらないとか、絵を見るのがだめだとかつまらないとか言う人に対して、きれいとか汚いとか、隙とか嫌いとかいろいろなことを自由に感じればいいんではないかとか言ったり思ったりしていたが、最近の現代アートがあまりにもコンセプチュアルというか、とってつけた屁理屈のように感じてしまう部分が多く、興味の薄い分野も食わず嫌い的なところが多く、絵が嫌いな人と同じ態度になっていたと自己認識したり、

アートの分野が広がり境界があいまいになっている現状や、アートの見方についてさらに考えようかという気になった。(本の中で言っていることが良くわからなくて、さらにほかの本も読んでみようかという気になったという面もあるが、、、)

2008年7月15日火曜日

木喰展

(別サイトと同じ内容)
そごう美術館で行われている、木喰の展覧会を見てきた。
年をとってから、日本全国を廻りながら、数千体の仏像を彫ったようで、仏像の顔立ちから微笑仏と呼ばれる木喰仏を中心に書画も展示されていた。
仏像というと、薬師寺の薬師如来像や菩薩像など、穏やかなやや丸みをおびた顔立ちに、目が半眼ですっとしているもののを、多くの寺で目にすることが多いが、木喰仏は頬骨が厚いものや、微笑仏の名のとおり微笑んだような顔立ちのものが多く、これまでにあまり見たことのない仏像ばかりで、小さい物に細かく彫ったものもあったが、多くはそれなりの大きさのもので、削りあとも残っている荒削りな表現の仏像や、3面大黒天のようなキュビズムのような表現のもの(解説にもそうあってなるほどと思ってしまった。)など、菩薩や観音、天、如来など仏様を木喰の感性で図案化したような、型に縛られない仏像で、柳宗悦が見出さなければ、ただの素人が彫った仏くらいの扱いだっただろうけど、プリミティブなものにある、強さとほほえましさのような情感が感じられるもので、円空仏と対比されることもあるのも納得がいくものだった。
これまで、仏像は博物館や寺の宝物館とかで、部屋の壁に沿ってケースに入って置かれているような展示はみたことがあるが、美術館での仏像の企画展示を見たことはあまりなく、今回の展示では多くの仏像が所有者の厚意によって、ケースなしで設置されていて、壁沿いだけでなく、部屋の中にいくつも仏像が置かれている雰囲気は、微笑んだ親しみやすいような感じの仏とはいえ、なかなか荘厳な感じがした。それらの仏像は、寺や庵の立替時に見つかったりあるいは忘れ去られていたものや、子供がそりに使って削れてしまっているものから、厚く信仰されて丁寧に保存されているものなど、いろいろな扱いを受けていて、実際、その辺の寺などで転がっていれば、何か変わった仏像だなとか思いあまりじっくりみないだろうに、今回、美術館で台座の上に設置され丁寧に扱われ、一同に会していることもなんともいえない不思議な感じがした。
そごう美術館はミレニアムカードで200円引きになることを初めて知った。次回くることがあれば、ミレニアムカードを忘れないようにしようと思った。

円空と木喰 (NHK美の壺)

日本放送出版協会

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2008年7月11日金曜日

コローの展覧会

(別サイトと同じ内容)
国立西洋美術館の企画展示、コロー光と追憶の変奏曲を見てきた。
コローというと、濃い目の緑の淡いようなこまかいような木々が画面の半分からそれ以上を覆い、それでいて、柔らかな光に包まれた感じの森の風景画のイメージが浮かび、主としてそのような風景画の作家というイメージを持っていた。
今回の展示を見て、建物を正面あるいは真横から捉えて面的に描かれたものや、少しくすんだようなかすれたような色あいのセザンヌの絵のような作品や、強い遠近法で描かれた作品など、これまでに知らなかったコローの作品を見ることができた。特に、代表的な作品でもある肖像画は頼まれて書いたのではないものばかりだそうで、淡いような静かな感じの絵からは、やわらかいまなざしというか、穏やかな感じを受ける肖像画が多く、見ているとこちらまで気持ちが和らぐような良い感じの作品あることを知れてよかった。
また、コローは18世紀末に生まれて19世紀の3/4を生きた画家で、時期的には印象派以前の作家で、コローがモネやセザンヌなど印象派以降の作家に影響を与えていることや、風景に神話などからとったモチーフを加えたり、バランスを考えて人を配置するなど、単に風景を模写するのではなく、バランスのよい構図や見るものの視線の動きを考えて描かれたものであることを知って、コローは絵が単なる模写や目に見えたものを忠実に再現するのではなく、その場所で受けたイメージなどをあらわすために、絵画のあらたな方向性を目指した点でも優れた画家だったのだと思った。
展示内容も、セザンヌ、ピカソ(1点だけだったと思うが)やドラン(こちらは数点)など影響を与えたといわれる画家の作品や、コローが師事した画家の作品なども展示されていて、お互いの影響についても考えながらみることのできる展示だった。

2008年7月9日水曜日

横浜美術館の展覧会

(別サイトと同じ内容)
今日は横浜美術館に行ってきた。
企画展としては、茂木健一郎・はな・角田光代・荒木経惟4人が創る「わたしの美術館」展を行っていて、横浜美術館コレクション展も行っていた。
6月の中旬ごろ、横浜美術館に行こうとして、企画展がすぐ始まることから、企画展と一緒に横浜美術館コレクション展をみたほうが、お得かなと思って、今回の訪問となった。
企画展は4人それぞれが、それぞれの視点で、横浜美術館コレクションのなかから、作品を選んで展示されていて、角田氏は絵画の中に神や光が感じられるような作品を、はな氏は可愛さやちょっとしたおかしさを感じるもの、荒木氏は複写という観点からと、浮世絵のような雑誌口絵を撮影したものなど新たな自作を、茂木氏は人間の体験が顔ににじみでるといった観点から作品を選択しているようなことがメッセージとして添えられていた。
いわゆる古典や歴史的な流れなどのような統一的な流れはないものの、独自の観点で選んでいる点で、各コーナーごとに独特のイメージのようなものは感じられたように思う。
個人的には、入り口にいきなり中上清の大きい作品が置かれていて、好きなタイプの絵なので、それを選んだ角田さんのコーナーに少し親近感を感じ、コーナーも光や神に触れようとしたような印象のものを選んだということで、なんともいえない不思議な感じを与えるような作品が多く、いい感じだった。
はなさんのコーナーは、可愛いという点での絵はあまり共感がもてなかったけど、前に薬師寺展でみた日光菩薩の写真など仏像の写真や関連した図案など、興味深かった。
荒木氏の作品は、最近写真に興味がでてきたものの、どうも、写真はなにがいいのかよくわからない。
茂木氏のコーナーは、奈良美智からはじまってセザンヌ、岸田劉生やフランシスベーコン、水槽をスクリーンにしたビデオアートなどの現代美術まで、見ごたえのある作品が抽出されていて(有名な作家だから見ごたえがあるっていうわけではないけど、やはり有名な作家はそれだけで、印象にも残りやすいし、、、)、この中では、松井冬子の「世界中の子と友達になれる」という作品が印象に残った。この作品は、藤棚のなかで左の方向に向かっている女性が花にぶつからないようにか少し身をかがめているように見え、淡い色彩感のなかで、少しさめた感じの無表情な女性が捕らえられた、淡いようなせつないような感じの印象を最初に受けたが、良く見ると足は裸足で、しかも、手の先や足の先は薄い朱色に描かれていて、血とみるには薄い色だが、なんか不気味な感じもする。さらに、腕のところには蜂のようなものが止まっていて、よくみると、画面のいろいろなところに蜂がいるのがわかり、さらに、藤の花と思っていたのは、上のほうは確かに花だが、したに行くほど花びらに蜂が重なり、下のほうの花びらと思っていたのもどうやら蜂が集まって花びらのように見えていることがわかってくる。右のほうの花の陰には乳母車があって、でも子供はいないので、子供がいなくなってそれを必死に探している様子にみえてきて、蜂のような虫からできた藤棚の不気味さもあいまって、非常に不気味な作品に見えてきて、さらにこの作品は大きい作品で、女性の大きさは等身大ともいえるような作品で、藤色の淡くてきれいな感じの印象から、一気に不気味な印象に変化して、なんともいえない作品だと思い、今回の展示のなかで強く印象に残った作品だった。
横浜美術館コレクション展は、もう十数年前にもなるが美術館の年間会員になっていて、良く実に来ていたので、以前にみた覚えのあるものも多数あったが、ダリやマグリット、エルンストなど、小学校や中学校のころに好きになって絵をみるのが好きになるきっかけとなった作家の作品や、1点だけだけど、カンディンスキーやブラックの絵などをみることができてうれしかった。