2009年9月22日火曜日

ゼロから学ぶ超ひも理論 を読みました。

竹内薫 著ゼロから学ぶ超ひも理論 (ゼロから学ぶシリーズ)(2007.12発行)を読みました。

この本は、狙いは「難しい教科書への橋渡し」とあり、先日読んだ、イラスト「超ひも理論」のように数式を使わずトピックを紹介した概説本とは異なり、イメージを伝える助けに数式を用いているものの、一般初心者向けに超ひも理論を説明した本です。

構成は、
最初の章は超ひも理論の概説となっていて、2章でひも理論に入る準備としての、ローレンツ変換と質量エネルギー式(相対性理論)、不確定性原理の適用(量子化)、およびプランク長さについて、3章でひも理論の導出過程を、4章で超対称性を考慮した超ひも理論について、5章ではDブレーンとひもの関わりで説明する素粒子のモデルやブラックホールとの関係などが説明されています。

超ひも理論について、基礎となる相対論や量子論との関わりや導出過程の説明には、簡略化した式を用いて説明されていて、文章だけよりも正確なイメージがつかめるような気がするし、対話形式での補足説明などもあり、丁寧さと正確さを兼ね備えた説明となっているように思うものの、交換関係の演算処理や、特に4章での超対称性の部分や調和振動子の量子化などはイメージがつかめなくて、良くわかりませんでした。
しかし、くりこみの話や、ひも理論から超ひも理論、Dブレーンの導入により実際の素粒子との関連付けがされることなどは、よりイメージが深まり理解が深まったような気がするので、十分読む価値はあったと思います。

内容についてもう少し詳しく書くと、
1章では、物質の成り立ちを点ではなくひもとして捉え、その挙動が物理現象を表すように特殊相対性理論や量子論と整合をとることで出来ることが説明され、
対称性と物理量の対応(ネーターの定理)により重力など様々な物理量がひもから導出できることや、ひもの境界条件がむしろ重要でDブレーンと呼ばれる平面もにひもがつながったような状態により電子やクォークが表現されること、超ひも理論はホログラフィー原理で次元が落ちたものがクォークを記述する量子色力学と対応すること、力を伝えるボソンがDブレーンから出て戻るひもで、物質の素であるフェルミオンがDブレーン同士をひもでつないだ状態であることなど、超ひも理論により力の統一的枠組みが可能になりさまざま現象が説明できることや、
一方で、超ひも理論が様々な可能性を予測してしまうため、これまでわかっている現象を説明できるものの、実験的に検証可能な予測ができていないため、検証された理論とはいえないことや、可能性としては無限の閉口宇宙を予測してしまうことなどの課題、
さらに、最近は重力理論を量子化する方向から導かれるループ量子重力理論が提唱され、ブラックホールのホーキング放射などの問題について結論が一致していることなどが紹介されています。
2章では、
まず光速不変とローレンツ変換で表される時空間の現象(特殊相対性理論)について、時空図を用いて観測者ごとに時間の進み方が異なり観測者ごとに同時が異なることや、質量とエネルギーの等価などが説明され、
次に不確定性原理と量子化を当てはめることの数学的表現や、ひもに当てはめたとき測定精度に最小値が存在すること、
さらにひもの時空図上での振舞いやひもの境界条件となるDブレーンについて説明され、Dブレーンとひもとの関係性から様々なものが表現されることが解説されています。
続く3章は、
まず、ひもの方程式を時空間上で表現して、振動をフーリエ展開して分解することで、ひもの挙動が記述され、開いたひもの場合にエネルギー保存則を満たす境界条件としてDブレーンが説明されています。
そして、不確定性を導入して量子化し、振動部分についての交換関係を表す生成演算子と消滅演算子が導出され、ひもの解をエネルギーと質量の関係式に適用して、くりこみ処理により無限級数の解を求め、相対性理論と整合性をとると、時空の次元が26次元となることが説明されています。
そして4章が、超ひも理論の説明部分で、最初に複素解析の解析接続という概念でオーバーラップしている関数系は同じ関数となることから、級数展開の定義域によって関数を変えることで無限を有限にくりこむことができ、ひもの質量とエネルギーの式に用いられるζ関数のくりこみについて説明され、次に、フェルミオンに掛けるとボソンになりボソンに掛けるとフェルミオンになる演算子Qを考え、この演算操作が超対称性を表していて、ひも理論にフェルミオンの状態を対応させるために超対称性を組み込むことで、5つの10次元の超ひも理論ができるようです。
5章はDブレーンにより、実際の世界を構成している素粒子モデルを説明するもので、Dブレーンの交差する付近に素粒子が存在すること、10次元のうちの6次元が極小のトーラス状にまとめられていること、2つのD6ブレーンが交差することで、交差点が3箇所生まれ3世代の素粒子が生じていることなど、Dブレーンとそれにつながるひもから素粒子の生成が説明され、超ひもがブラックホールの性質を持つこと、超ひもの状態量の取りうる範囲から算出したエントロピーが熱力学的に算出したブラックホールのエントロピーと一致することなどが説明されています。

巻末には、さらに正確にあるいは詳しく知る人のために、相対論や量子力学、素粒子論、超ひも理論とDブレーン、などに関する本が紹介されているので、参考になるのではないかと思います。

2009年9月11日金曜日

イラスト「超ひも理論」 を読んだ。

イラスト「超ひも」理論-図解でいっきにわかる!宇宙論の最先端(2002.9)発行を読みました。

すべてのものの基本が「ひも」から出来ているといった「超ひも理論」は、量子論や宇宙論に関わっているし、昨年関連する内容で日本人がノーベル賞をもらったこともあって、以前にも簡単な入門書を読んだり、雑誌やドキュメンタリー番組などで取り上げられたのを見聞きしたこともあったものの、改めてどんなものだったかと思いながらも調べることなくそのままになっていました。先日、何か本でも借りようと思って図書館にいって、ひも理論のことを思い出してもう少し中身を知りたいと思い、関連の入門書などをいくつか借りることにしました。この本は借りてきた本のなかでも超入門といった感じの本です。

この本の構成は、
見開きで1トピックになっていて、どの見開きもページの半分以上はイラストでイメージが表現されていて、下1/3くらいに文章で超ひも理論やそれに関係する話題について説明(紹介)されています。

入門書とはいえ、内容は非常に多岐にわたっていて、
超ひも理論の誕生まで、素粒子論、宇宙論、超ひも理論で宇宙の謎を読み解く、といった4つPartにわかれています。
最初のPartは、超ひも理論とはどんな感じのものかが説明され、
超ひも理論にいたるまでに発見された量子力学が説明する物理学現象(光の波と粒、光電効果、不確定性原理、トンネル効果など)や相対性理論について、
次に、物質を構成する素粒子をつくるクォークやレプトン、バリオンや中間子、さらに、4つの力の概略や、ゲージ粒子に、力の統一論を目指している、現在の標準理論モデルや、理論の状況について、
Part3では、宇宙論として、宇宙の構造や星の一生、定常宇宙論やビッグバン理論、平坦性問題やインフレーション理論を、
最後のPart4では、ダークマターやダークエネルギー、現在膨張が加速しているという第2のインフレーションや無限の宇宙生成、26次元のひも理論に超対称性を取り入れた10次元の超ひも理論やコンパクト化された次元、超ひも理論を用いた宇宙創生期やブラックホール蒸発時の様子、さらに高次元の膜を用いて超ひも理論を統合するM理論まで、

といったように、量子論や宇宙論の主要なトピックが網羅されています。

数式はなくイラストを用いて説明されているので、素粒子とか宇宙とかに興味はあるけど、数学は苦手だし、難しい話は良くわからないといって敬遠してしまいそうな人にも、読み物として楽しめるのではないかと思います。

ただ、トピックスを集めているだけという感じになってしまうのも仕方ないところだとは思いますが、個人的な感想としては、超ひも理論から考える宇宙の始まりやM理論など知らないトピックスもありましたが、これまでに読んだ宇宙論の本などで聞きかじったことを改めて確認したものの、知らないトピックスはそういうものがあるというのわかっただけという感じです。

とはいえ、
この本は、なぜそうなるのか、とか、どのように理論的に導かれ証明されたかということは置いといて、物質や宇宙の成り立ちに関連して、どんなことになっているか、どんな不思議な点があり、物理学者の間でどのように考えられているかといった、キーワードや様々なトピックを知るにはいい本だと思います。

出版社が宝島社で、いろんな分野をざっと捉えるような本や雑誌などを多数出している宝島社らしい本とも思いました。

2009年9月5日土曜日

音楽は自由にする を読んだ。

特に理由これといった理由はないのですが、前回まで月に何回かは観に行った展覧会などの感想と何冊かの読んだ本の感想を書いていたのに、今回は、4ヶ月以上という間隔が空いてしまい、久しぶりのブログ書きです。

坂本龍一著、音楽は自由にする(2009.2発行)を読みました。

内容は、雑誌「エンジン」の企画に基づいていて、編集長によるインタビューで坂本龍一が自ら人生を振り返った、2年以上にわたる27回の連載をまとめたものです。
幼稚園の頃から始まり、育った環境やその頃の様子、さらに、現在につながる出来事や最近のことまで、順を追って書かれています。
人との関わりや出来事への関心などについて、実際には気難しそうな人のようなので、いろいろもめたこともあっただろうと思われるようなことも、淡々と書かれていて、最後には年表まで載せてある坂本龍一の自分史です。
音楽のバックボーンをしっかりと身に付ける一方、ポップの領域でも活躍し、最近では環境関連の活動など多方面で活躍するアーティストの自分史として、そういうものに興味ある人には面白い本なのではないかと思いました。

全体としては、自伝なので、淡々と様々な記憶に残っている出来事が書かれていて、特に訴えかけてきたり、いろいろと考えることを促すようなも感じではない本だと思いますが、
坂本龍一の活動や交友範囲が広がっていく80年代の部分は、その時代のアーティストや文化人との関わりで出てくる人に、私もよく読んだ思想家や作家が出てきて、20世紀の芸術運動ともいえる芸術自身や概念に対する見直しなどといった興味のある部分が重なって、そのような分野の人と関わることは私にはなかったので、うらやましい気もしました。
また、後半では、ニューヨークで9.11テロに遭遇した時のことなどは、かなり極端な印象を受ける部分もありましたが、恐怖がまさに身近におそい、その後もどうなるかわからないといった緊迫感に包まれたときの人の状況について書かれていて、出来事が人に感情や考えに与える影響について、ニュースなどで見聞きしたときのものとは別の見方というか感覚が伝わってくる感じがしました。

坂本龍一はこんな自分史を出すようなことはしたがらないように思っていたので、最初に、あまり気が進まないと書いてありましたが、57才という年齢にもなって、丸くなったように思いました。

2009年4月23日木曜日

真贋 を読んだ。

吉本隆明著、真贋(2007.1発行)を読んだ。

戦後最大の思想家とか、思想界の巨人といわれる吉本隆明氏の本は学生の頃に少し読んだけど、ほとんど覚えていないくて、難解な印象だけど、図書館のエッセイ書のコーナーでみかけ、たまには、そういう人の考えにふれるのもいいかと思いよんでみることにした。

内容は、「善悪二元論の限界」「批評眼について」、「本物と贋物」、「生き方は顔に出る」、「才能とコンプレックス」、「今の見方、未来の見方」の6つに分かれ、

いい面と悪い面は見方により異なるが、明るいのはいい、暗いのは駄目などのように単純に結び付けられて、価値が強制されてしまいがちで、何事にも利と毒があること、一方的な視点で見る危険性などといったことから、

いい作品と悪い作品の見分け方、歩くなどからだの動きを伴う思考が、文章に強弱をつけよいものとなること、身近な感覚を重視することや起源をみて本質を理解することなど批評眼の鍛えかたや、批評する上で心がけているようなこと、日本人の精神活動を考える上では起源は神道にあり、前思春期までの成長過程が性格や人となりに大きく影響するという考え、

いい人悪い人とか好き嫌いはある主題を限定した上ではあって、そこから全人格を判定するようなことをしないようにしたほうがいいこと、人の偉さと役職の偉さが日本では一緒になってしまっている人が多いこと、現代は日常のスピードと円熟のスピードがずれてしまって、才能や感覚の磨かれかたに人間性の円熟味が付いていかず、どっしりした大家というタイプがうまれにくくなっていること、善意の押し売りや相手の状況も考えず、悪いことを指摘しせめるような状況はよくないこと、

外見や性格や気風でも常識的に美点とされる見た目を気にするのは動物性の名残でないかとか、

戦争中は社会事態は国家全体がある倫理観や正義感で戦っている一方、庶民は戦争の緊張感から身近な凶悪犯罪はなくて倫理的だったこと、その倫理や健康というのが押し付けになり極端にすぎるととんでもない事態になってしまうこと。

などのようなことが述べられていた。

あとがきを読むと、ふだん考えたこともない視角からという注文をつけて、問いを提起してもらい、それに呼応することに心がけたインタビューを取りまとめたもののようで、マルクスをはじめいろんなことが言及されたりしているものの、文章自体は読みやすく、深く考えるとなにを言っているかわからない部分も多いが、吉本隆明の考えがわかりやすく説明されているように感じられる本だと思った。

最後のところで、
物事がいろいろな面や角度からみることが、正しく物事をとらえる上では重要だということ、
衣食住足りて、基本的欲求にみたされた現代において、閉塞感があったり人間として劣化しているように思われ、道徳の回復がよのなかを良くするというのは正しいかもしれないけど、そんなことが出来るくらいなら既にできているだろうから、今の状況を越えられるところを考え見つける必要があって、思想や政治システムというものより、人間性や人間の本質が生みだすものがとわれ、いいことをいいというのではなく、考え方の筋道を追って本質をみていき、人間とはなにかを根源的にかんがえる必要があるのではないかというようなことがかかれているが、
漠然とはそのように思っている人は多い一方、いい面悪い面併せ持つ不完全な人間が、現状は悪い面で指弾されてしまい、なぜ、悪いことをしたかとかが深く考えない状況になっていて、閉塞感がただよってしまっているように思った。
基本的な欲望がみたされた、夢のような時代ともいえる状況になったというのに、また悩み始めている人間自身について考えていくことは重要に思い、そのようなことが無意識下で作用して、脳や意識に対する興味や、一方で、芸術への感動、日本人として特に宗教観を持っていないものの、神道から来る歴史の中にいることもあって神社仏閣や仏像に惹かれるのかと思ったりさせられた本だった。

2009年4月22日水曜日

阿修羅展をみてきました。

先日(4/17)東京国立博物館で開催されている「興福寺創建1300年記念 阿修羅展」を見てきました。

その憂いのある少年の顔と三面六臂の独特の姿でとても有名な阿修羅像は、私も好きな仏像のひとつ。その仏像が見られ、同時に興福寺にある八部衆と十大弟子の仏像が露出展示されるとのことで、普段は興福寺までいってもガラスケース越しに、ほぼ正面からしか見ることが出来ない仏像たちを良くみることができるそうなのと、知り合いからチケットをもらったこともあったのでで観に行ってきました。

展示は、3章構成。
第1章は「興福寺創建と中金堂鎮壇具」、興福寺の中金堂基檀中から出土した、創建時に地鎮のために埋納されたと考えられる鎮壇具類を最近の発掘調査での出土品も含めて展示されていて、ケース越しの展示と、水晶筒や唐草文鋺などいくつかのものは、薄型テレビによりハイビジョンでの説明もありました。
第2章が「国宝 阿修羅とその世界」、第1章の展示室から移動していくと途中に、国宝の法隆寺阿弥陀三尊像とその厨子、華原磬(金鼓)、などがあって、次の部屋に入ると右側に十大弟子像が、左側に八部衆像が並んで展示され、その部屋を出ると、阿修羅像がスライドショーされている手のひらサイズの画面画並んだトンネルがあり、それを抜けて進むと阿修羅像を拝顔できます。阿修羅像は高めの位置と、像の近くを回りこんでみることが出来るようになっていました。
第3章は「中金堂再建と仏像」、展示室に入ると、 見上げる大きさの持国天をはじめとする四天王像があり、その先に、さらに大きな薬王菩薩像。その隣には薬上菩薩像があって、他に、釈迦如来像頭部などが展示されています。最後の部屋では、VRシアターとなっていて、興福寺中金堂を再現した場合の様子や、阿修羅像を大型スクリーンで上映していました。

最初の宝物類は国宝だらけで、資料的にもきっと非常に価値の高いもののように思われます。しかし、奈良時代といった昔に、水晶を緻密に切り出したり、装飾を施した杯などをどのように作ったかなど、考えると興味深いところもありますが、展示品自体はそのような技術や歴史的背景などを知らない私には価値がよくわかりませんでした。

法隆寺の所有する阿弥陀三尊像は伝橘夫人念持仏ということで、八部衆や十大弟子像、華原磬は光明皇后が亡き母橘三千代の一周忌供養のために作ったものだそうで、橘夫人とのつながりで特別出品されているようです。
この三尊像は比較的小さいのでケース越しで近寄れないこともあり良く見えませんでしたが、面長で角ばった顔の仏像で、背景などが細かく装飾されているような感じで、隣に展示されていた華原磬も竜の彫刻が優美な感じのする見事な鳴物だと思いました。

八部衆像はもともとはインドの神様なので、阿修羅像の三面六臂をはじめ、角や牙など人とは違った特徴を持っているものが多く、特に迦楼羅像は伝説上の鳥が神格化したものらしく、嘴や鶏冠を持っていて、とても変わった仏像で、この像は以前なにかでみて気になっていたので、見ることができてよかったです。
十大弟子はどれが誰かとかは書いてあるけど覚えられないのですが、それぞれ幼い顔をしたものから落ち着いた感じのものなど異なった顔立ちで、それぞれ、仏の道を歩む仏弟子たちらしい徳の高い僧といった感じがしました。
どちらも台の上に載せられて露出展示されているため、横に回り込んでみることができ、正面のほうからだけでなく、横や斜め後ろからもみることができ、普段はみることのできない方向からもみることができ、よりお近づきになれる感じでした。

阿修羅像は特に今回の目玉でもあり、阿修羅像のみで一つの展示室になっていて、部屋の片側のスロープを下りながら、部屋の中ほどに展示された阿修羅像に近づくようになっていて、やや高めの位置からみることができ、さらに、像の周囲どの方向からもみることが出来るため特に背面など普段見られないし写真等でもあまり見かけない方向からみると、像から受ける印象も異なり、いろいろな感じを受けました。
また、三面の顔は違っていて、正面の憂いのある少年の顔と比較して、両側の顔は表情が抑えられた感じですが緊張感のあるような顔に感じられました。
阿修羅像をはじめとするこれらの仏像はどれも、天平年間に作られたもので、表情が写実的で人間味が感じられました。(八部衆は人間ではないですし、鶏の顔していたりしますが)

中金堂を再建した際に移される予定の仏像たちは、鎌倉時代の作で顔立ちは私のもともとある仏像のイメージに近く、見慣れた顔つきの仏像だと思いました。
四天王は康慶作で、邪鬼を踏みつけ懲らしめている像はその大きさもあって迫力があるものでした。また、薬王・薬上の両菩薩像は3mの大きさとのことでしたが、台座の上に載っていることもあり、かなり大きい印象を受け、2対を並べてみると、薬師寺展でみた日光・月光菩薩像を思い出しました。今回のものは、木製で漆や金箔で仕上げているので、年数をへた痛み方や仏像としての印象はかなり異なりますが、控えめの照明のなかで見上げるほど大きい仏像2対が並んで配置されていて、どちらも荘厳な印象を受け敬虔な気持ちになります。

阿修羅像をVR技術によりデジタル化したものや、現存しない中金堂を再現したものを、ハイビジョンの4倍の解像度を持つシステムを用いて、300インチの大きいスクリーンで紹介していて、画像でみると阿修羅像の模様や細かい表現がよりわかりやすく紹介されていた。

流されている映像をみるだけだと、この場所を良く見たいと思っても次に写ってしまうところがあるけど、最近は解像度も高く、本物を見るよりも綺麗だったりするし、わかりやすく、しかも本物ではそこまで近寄れないようなところまで近づけたり違った見方ができていいと思った。

最初の展示室の宝物とかも、実際のものはガラスケース越しで良くわからないので、映像の展示のほうが印象に残った。
ただ、映像でみると本物を見るというありがたみが、どうも薄くなってしまうし、展覧会を観に行く醍醐味みたいなものが変わってきてしまうように思うけど、、、

平日の開館時間も延長されるほどなので、混雑状況から比較的好いていそうな時間帯の金曜の夕方を選びましたが、結構な人の数でした。宝物類はガラスケース越しにみるのですが人が多くて、少しずつケース越しに進むとすごく時間がかかりそうなので、仏像を中心にみて、閉館時間に近くなった頃に改めて宝物類をみたりして、結局2時間半ほどかけて、展示を3周してきました。


2009年4月19日日曜日

平泉~みちのくの浄土~展を観てきました。

世田谷美術館で今日(4/19)まで開催の特別展「平泉~みちのくの浄土~」を観てきました。

中尊寺金色堂西北檀の仏像十一体が堂内の配置のままに公開されるのと、みちのくを代表する仏像が展示されるということなので、見ておきたいと思い観に行ってきました。

入り口を入ると、平泉が全盛の頃の建物の配置などがわかる古図や中尊寺建立の願文などがあってその先の部屋に金色堂の仏像たちが置かれ、隣の部屋には、中尊寺の大日如来坐像や、岩手の天台寺のご本尊である聖観音菩薩立像や如来立像など、他にも東北のお寺から四天王などの仏像が展示されていました。
他に、毛越寺の阿弥陀如来坐像もあり、通常は常設展示の場所らしい、2Fの展示室では、入ってすぐのところに中尊寺大長寿院の騎師文殊菩薩半跏像と四眷属が置かれていました。
仏像以外には、藤原氏が築き上げた仏教文化の特に浄土思想に関連する当麻曼荼羅図や阿弥陀浄土図などの展示、金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図や金銅迦陵頻伽文華鬘をはじめとする中尊寺の宝物や、藤原清衡の発願により書写された金銀字一切経といった平安時代後期を中心とした中尊寺ゆかりの宝物や毛越寺や達谷西光寺の宝物、平泉地域の遺跡からみつかった平安時代後期の出土品、桃山時代や江戸時代に描かれたみちのく平定に関わる絵巻や坂上田村麻呂や藤原三代画像、平泉諸寺参詣曼荼羅図、金色堂の柱などの復元模型といった、貴重な資料や宝物が多数展示されていました。
また、中尊寺や毛越寺などに伝わっている宝印や版をはじめ、江戸時代や現代まで引き継がれている行事などに使われる品々や衣装の展示もされていました。

展示数としては、宝物類が多く国宝・重文90点以上を含め200点を越えていて、遺跡や平泉の歴史などに興味があれば、かなり見ごたえがあるように思う。

目的としていた金色堂の仏像は、印象より小さめでしたが、照明の関係か思った以上に保存状態が良く、しかも落ち着いた色合いでした。チラシの写真では金色の色味が強い上、良く光っているところと暗いところのコントラストが強くいかにも歴史を経てきた仏像といった印象でしたが、実物を見ると最近になって複製したような感じがするくらい、金色の輝きは控えめでしかも表面が滑らかで驚きました。金色堂内に安置されているときは、あまり近くまで寄れまないと思いますが、今回はケースに入れられていましたが、それなりに近づくことができ、横から見たりじっくり鑑賞できました。
また、騎師文殊菩薩半跏像と四眷属も、金色堂の仏像以上に保存状態が良く、色もはっきりしていて、まるで最近作られたもののようでした。
他に、天台寺の仏像は比較的大きいことや、ノミの跡を残し独特の風合いを持ったものや、素朴な感じの仏像で印象に残りました。
宝物類や遺跡の出土品はあまり詳しくないため、博物館でいろいろなものを見るのと同じ程度には興味深く見ましたが、どういう点がすごいのかなどは良くわかりませんでしたが、鉄樹や金銅五鈷杵など毛越寺の所蔵するものや、仏像のレリーフのような御正体、金銅迦陵頻伽文華鬘などの金色堂堂内具などはあまり見たことのないもので印象深く、金字宝塔曼荼羅は紺地に金字で一切経が宝塔の形で描かれており、信仰の強さや信仰対象としての曼荼羅のありがたさを感じられ、金銀字一切経は展示数も多く、経を大量に金銀字で書写するといったその信仰心などが印象に残りました。
他には、金色堂の柱を再現したものや、須弥檀も復元模型でしたが螺鈿の装飾がされ見事でした。

金色堂の仏像を見るのが主目的でしたが、天台寺の仏像など、印象深い仏像に拝顔することができてよかったです。

2009年4月11日土曜日

人間科学を読んだ。

養老孟司著、人間科学(2002.4発行)を読んだ。

養老氏の本は、バカの壁などが有名だけど、それよりも少し前に発行された本。
引き続き、脳関係に興味があるので、養老氏の本を図書館で探していて目に付いたので読むことにした。

内容は、1章の「人間科学とはなにか」に始まり、ヒトの情報世界、差異と同一性、都市とはなにか、人とはなにか、シンボルと共通了解、自己と排除、男と女、といった、ヒトとはなにかを情報系として捕らえつつ、脳の特性や進化や発生の過程などを踏まえて、養老氏の見解として、途中補足のような文章を交えながら述べられている。

人が知っていることというのは、自分の脳のなかにある「なにか」だけで、情報系としてヒトを見ると、細胞というシステムが遺伝子という情報を利用するように、脳がシステムとして情報である言葉などを利用し、ヒトは単なる物質とエネルギーの塊ではなく、この2種類の情報系がヒトをなしていること。
情報は固定されたもので、それを使うシステムは変化するものであり、都市化はすべてのものを情報として固定化していく社会で、自然はもともと絶えず変化するものであるから都市において排除されること。
言葉はコミュニケーションをとるために、聴覚と視覚の両方に共通する要素を抽出し、外界のものに共通了解性をもたせ、情報として固定したもの。
というようなことが考えの中心にあるようで、固定と変化、同一性と差異、言語というシンボルが強要する共通了解性とクオリア性、といったことについての養老氏の見方が述べられていて、以前読んだ本にも同様のことが語られていて漠然と把握していたこともあって、言語や意識に対する私なりの漠然とした考えと近い感じがして、文章中に注釈のように入れられた補足説明をしたくなる感じがわかるような気がして面白かった。

2009年4月8日水曜日

多世界宇宙の探検を読んだ

アレックス・ビレンケン著、多世界宇宙の探検 ほかの宇宙を探し求めて、(2007.7発行)を読んだ。

久しぶりに読んだ宇宙論関係の本。宇宙論を研究し世界的に知られる著書が一般向けに書いた本で、現在の宇宙論から考えられる宇宙のモデルやそのモデルがもたらす世界観を解説した本のようなので、興味を持ち読んでみた。

構成は、宇宙創世記、永久インフレーション、「平凡の原理」、始まりに先立つ、の4部で、それぞれが、4から6の章立て。
第1部では、グースの提案したインフレーションする反重力物質の崩壊がビッグバンとして現れるというインフレーション理論からはじまり、この反重力物質と同様の考えがアインシュタインが導入し後に撤回した宇宙定数にあること、アインシュタインの理論以降に導かれた宇宙の構造やビッグバン後の物質や銀河など宇宙創世のモデル提案と、観測結果による裏付けられてきた様子を踏まえて、再び、現在の宇宙ができるのに必要となるビッグバンの初期状態がどのように決まったかを示すインフレーション理論の、緩やかなランドスケープを持つスカラー場を偽の真空が移動し、最小値の振動により崩壊してエネルギーが火の玉のビッグバンとして現れる宇宙ができるという内容について、現在に至るまでの検討状況を含めてより詳しく説明されている。
続く第2部では、インフレーションする偽の真空の膨張速度は、その崩壊速度より速く、偽の真空の指数関数的な膨張の海の中でインフレーションの終わった島宇宙が形成され、その島宇宙が次々形成される永久インフレーションモデルや、1998年に宇宙の膨張が加速しているという観測結果から、真の真空もゼロでない質量密度を持ち、アインシュタインの導入した宇宙定数に対応するものが存在すると考えられること、宇宙の平坦度や小さな密度のゆらぎがマイクロ波や背景放射の観測からも裏付けらてきていることなど、最近の動向や著者の提案した永久インフレーションモデルの時空の構造について、すべてのビッグバン事象は空間的(光速で移動しても到達できない)間隔で隔たれていること、島宇宙の内部的な視点からはビッグバンは同時に起こり島宇宙は無限大に見えるが、インフレーションする巨大な領域全体からみた視点では、ビッグバン群は島宇宙の境界で進行して島宇宙は時間と共に成長するようにみえ、空間的な無限が別の視点から時間的な無限にみえることや、島宇宙の数も時間と共に増え続けることなどが書かれ、さらに、観測可能な地平線内の宇宙と同じ大きさを持つ無限のО領域で島宇宙を分割し、量子力学的な不確定性によりО領域の物質が取りうる構成の数が膨大ではあるものの有限であること、さらに、二重スリット実験により可能な近接した歴史が干渉して事象は確率的に表現されることから、歴史も区別される構成の数は有限となること、一方で無限個のО領域が存在することは、すべての歴史がどこかで起きていると考えられることなど、量子力学的な確率の性質が宇宙の構造に関わり、量子力学の解釈のように多世界解釈が生じることなどが述べられている。
そして、第3部では、
真空が量子物理学においては、量子ゆらぎを持ち、スケールを小さくすると揺らぎの強さと振動は増加していくこと、スケールを小さくすると時空の幾何構造もゆらぐなど、とてもダイナミックでエネルギーは大きくなる一方、真空のエネルギーに対応する宇宙定数がインフレーション理論からは決まる上限値はとても小さいことから、まだ発見されていない素粒子の対称性から説明されることを期待していたが、真空の質量密度が宇宙を平坦にするのに対応した量と導く観測結果が出てきたこと。
その数値が、偶然にしては出来すぎていて、それは、観測者が存在できるような適度な時間存在できる宇宙がたまたま観測されるからというような人間原理に関わる議論や、物質や相互作用のより統一的な理論として期待される、ひも理論とそのランドスケープから様々な真空に対応した領域が永久インフレーションの進行する間に生み出されるといった話がされ、
最後の第4部では、
宇宙のさらに始まりについて、時空の存在しない無から量子トンネル効果によって偽の真空が生まれるモデルや、終わりについては、従来は宇宙の密度が臨界密度より大きければ収縮に転じビッグクランチが、小さければ膨張を続け冷えた星の残骸が増え、さらには、分解し、ひたすら薄くなるニュートリノと放射の混ざったものになるといったものから、インフレーションにより宇宙の密度が臨界密度に近く、構造形成が長く続くこと、インフレーションは永久に続き宇宙全体は終わらないという考えになり、最近では宇宙定数が存在する証拠が出てきているため、膨張を続けることが予測され、さらに宇宙定数が定数ではなく真空のエネルギーは減少して行き、負となる場所もでき膨張は停止しして収縮が始まる可能性もあること、ひも理論のランドスケープから、真空が泡核形成を通じて崩壊し、負のエネルギーを持つ真空の泡が時折出現して膨張し、それとぶつかり消滅するシナリオなども考えられることが述べられていた。

前回読んだ宇宙論の本、暗黒宇宙で銀河が生まれる ハッブル&すばる望遠鏡が見た137億年宇宙の真実 (サイエンス・アイ新書)では、一般向けに宇宙論を基本的な知識からインフレーション理論や暗黒物質の存在まで、広く技術的な内容をわかりやすく説明していたものだったが、こちらは、量子論やビッグバン宇宙論を踏まえ、現在の宇宙の状態やビッグバンの初期状態がなぜいまのようになっているかなどの問題が暗礁に乗り上げていたところに出てきたようなインフレーション理論の提案とその問題点やそれを解決するための新たな提案など、最新の宇宙論の発展してきた様子や、人間原理なども含めその理論が導く世界観に話の中心があり、物語的に書かれた本。

インフレーション理論の描く宇宙の始まりは、
エネルギーが高い偽の真空が持つ張力に対する反発力としての重力が質量に起因する引力よりも大きい場合、質量密度が一定のまま膨張していき、膨張率一定のまま指数関数的に膨れ上がっていき、その過程のなかで、不安定な偽の真空が崩壊してエネルギーがビッグバンの火の玉となる。インフレーションの中での崩壊は泡の発生のようなもので、その衝突によりエネルギーが高温の粒子となるが、その崩壊は、平坦なエネルギー密度のランドスケープを持つスカラー場の変化で表され、高いエネルギー密度の偽の真空が低いエネルギー密度の方向へ移動し、最小値を持つ真の真空の位置で振動して、場のエネルギーが粒子の熱い火として放出されることでインフレーションが終わりビッグバンとなることのよう。
また、このりろんにより、不安定でエネルギー密度の高い偽の真空のかけらがインフレーションを続け膨張しながら一方で崩壊したところがビッグバンとなり、十分空間が広がってから崩壊して火の玉となることから宇宙が高い精度で臨界密度と一致しビッグバンの初期状態と現在の宇宙の平坦性などの問題を解決するよう。

こういったインフレーション理論のイメージがこれまでよりわかったように思う。
また、量子力学的な効果から膨大とはいえ、観測可能な範囲の宇宙が取り得る状態が有限で、そこにある歴史も有限で、観測者からは宇宙が無限大にみえることから、すべての取りうる状態や歴史がありうるという考えは、非常に不思議な感じがした。
他に、真の真空が質量密度を持つ可能性が出てきたことなど、最近の宇宙論の変遷をしることができて良かった。

わかりやすくするためにイラストなども交えて説明されているが、どうしても時空間の境界や閉じた空間、ローカルな観測者からは無限大の空間に見える事象がグローバルな観測者からは有限の空間が無限に進行する様子にみえることなど、なかなかイメージがつかめない。
しかし、複雑な理論の雰囲気はわかるような気になり、研究者の意気込みや論議のなかから理論が生まれる様子も伝わってくる良い本だと思う。

2009年3月27日金曜日

源氏物語千年紀 を観てきた。

そごう美術館で、3/29まで行われている展覧会、「源氏物語千年紀 石山寺の美 観音・紫式部・源氏物語」を観てきた。

紫式部が源氏物語を書くなど、紫式部や源氏物語と関連の深い古刹・石山寺の関連した宝物や、同寺の所蔵する源氏物語を題材とした絵画や工芸が展示されているということで、以前石山寺にお参りしたことがあったこともあり、観に行ってみることにした。

入り口を入ると、寺を開いた良弁僧正、および、紫式部の肖像が描かれた掛け軸、少し進んだところに、如意輪観音像があって、隣の区画には、石山寺縁起絵巻(模本)や仏像、水晶の小さい宝塔や両界曼荼羅などといった宝物が展示されていた。
そして、次の区画が今回の中心的な展示といえる、源氏物語に関連した絵画や工芸品で、最も古様の紫式部像を描いたもの、源氏物語の場面を描いた屏風や色紙、源氏物語絵巻に、同じく源氏物語の場面を描いた蒔絵すずり箱など、主として江戸時代のものが展示されていた。出口よりの区画にも工芸品などが展示されていた。

石山寺の本尊である如意輪観音坐像は秘仏で、展示されているものは本尊厨子の前に安置されている如意輪観音坐像で江戸時代の作だが、写真が展示されていた本尊と同様の姿の仏像で、台座の部分も凝っているし、袈裟?の部分にも丁寧な装飾が施された様子も見て取れ、なかなか荘厳な仏像だった。
石山寺の宝物では、獣頭人身の弁財天像の掛け軸があって、蛇のような3つの頭を持ち、10本ほどの腕のあるとても奇妙な弁天さまが眷属や童子を従えている奇妙なものだけど、印象に残った。

室町時代に描かれ最も古様を示す紫式部の絵は、大きい絵で、ほとんど白黒のかなり痛んだ感じのものだったけど、かえって時代を感じ趣があった。
また、源氏物語に題材をとった蒔絵すずり箱は、非常に細かく丁寧に蒔絵が施されていて、なかなか見事なものだと思った。
屏風や色紙などは多数展示されていて、大和絵自体にあまり詳しくないので、描き方の違いなどは説明を読んでも良くわからなかったけど、源氏物語に興味がある人には、いろいろな場面が描かれていて、その様子などをたのしめるのかもしれない。

2009年3月25日水曜日

アジアとヨーロッパの肖像 展を観てきた。

神奈川県立近代美術館葉山館で、3/29まで行われている、「SELF and OTHER アジアとヨーロッパの肖像」を観てきた。

アジアとヨーロッパの出会いを背景に、広い意味での肖像、すなわち人物表現を伴う絵画、彫刻、工芸、写真などにおける自己像と他者像の展開を辿ります。神奈川県立歴史博物館との同時開催。(Webより)

展示構成は、
1章:それぞれの肖像、2章:接触以前-想像された他者、3章:接触以降-自己の手法で描く、第4章:近代の目-他者の手法を取り入れる、5章:現代における自己と他者
の5章構成。

王族など権力者の権威を示す肖像画から、異人や蛮人として異国の人物を想像で書いているものから、現代アートに見られる肖像までを、絵画だけでなく、彫刻、象嵌の根付や陶磁器、バティック、インドネシアの影絵人形、写真やビデオアートまで、人間の関心の対象あるいは表象として作られた様々な肖像作品をみることができる展示。

王族などの肖像画は、所持品が威厳や特徴を示していたり、想像の異人や、いろいろな技法による表現、写真が発明されて以降の肖像としての意味や、肖像とレッテルなどと本質の差や意味を問うような現代アートなど、肖像画の様々な背景や特徴をみることができる展覧会だと思った。

異国の人物としての偏見や互いの見方の違いなども、詳細に見ればわかるのかも知れないし、そのような差異を改めて知ろうというのも展覧会の意図のようにも思うが、その点については、ロートレックやミュシャなど確かに異なる文化での相互の影響を感じられるものもあったが、全体として知見を新たにするほどにはわからなかった。

ただ、普段あまり見かけない、東南アジアの作家の作品があり、写真のように非常に緻密に書かれたものが多く、西洋のほうが遠近法などを駆使し写実的な絵画を指向している感じはするが、そのような写実的表現技術がアジアにくると、非常に緻密な作品となり、よりリアルな作品を作り出しているような気がする。最も単に写実的な表現になってしまって、写真に駆逐されてしまうようなところもあるような気もした。

想像の異人には、腕長族ともいうような腕の長い人種をはじめ、小さい人種、足の長い人種など、実際にありそうなものから、腹に穴が開いていて、その穴に棒を通して運ばれる人種や、頭が無い人種、足が1本の人種などといった、奇妙な想像上の人種が異国に居ると思われていたことを知った。

個人的には、近代から現代アートよりに関心があるので、5章での、ビュッフェの作品や、草間彌生の自画像は初めて見たものだと思うし、ウォーホールのマリリンにボルタンスキーのモニュメントや、トーマス・ルフ、ジュリアン・オピー、といった作家の作品や、舟越桂の作品が見られたのは良かった。

2009年3月15日日曜日

関合正明展を観てきた。

先日、鎌倉の県立近代美術館に伊庭靖子展を観に行ったあと、鎌倉別館で3/22まで行っている「慈しみのまなざし 関合正明展」を観に行ってきた。
初めての公立美術館での回顧展だそうで、油彩や水彩、素描、などが90点以上、他に、スケッチや関連資料、挿絵や装丁の仕事などがケースに入れられ、合わせて150点を超える展示により、画業を振り返る構成。

70年代から80年代頃にかかれた、欧州や日本の家や風景画が多く展示されていたが、空は灰色がかった色で表現され、寂寥感の漂うような感じの作品が多く、また表面を荒く捉えたような塗りかたで、フォービズムの作品のようなタッチで特徴を捉えたような印象がした。

知らない作家だったし、どちらかというと、私の好きなタイプの絵ではないのだけど、静かで落ち着いていながら、昔ながらの温かみがあるような部屋に飾るのによさそうな感じの絵だと思った。

鎌倉館では伊庭靖子さんの、スーパーリアリズムのようなリアルな中に質感を再現したようなものを見た後だったので、粗いタッチで表現されて、見た目そのものとは異なりながら、その場の特徴というか風景の独特の雰囲気を伝えるような作品は、見た目にはまったく異なる性質の絵画で、絵を見ているときに感じるものが大きく異なっていて、なんか不思議というか絵を見る楽しみはこのあたりにあるかなと思ったりした。

2009年3月13日金曜日

伊庭靖子展を観てきた。

昨日(3/12)、鎌倉の神奈川県立近代美術館に行ってきた。
美術検定合格者向けのメールマガジンの抽選で当たった招待券で観に行ってきた。

鶴岡八幡宮の入り口に程近い鎌倉館は、3/22まで「伊庭靖子展 -まばゆさの在処-」を行っている。
クッションなどのリネンや、果物、プリンといったものを自然光のもとで撮影し、その写真を元にキャンバスに油彩で描いた近年の約40点の作品が展示されていた。
写真に固定された瞬間をさらに絵として描いているので、もともと動くものではない対象だけど、光の加減を含めた、ある瞬間をとてもリアルに捉えた感じの作品たちだと思った。
近づいて見るとキャンバス表面や絵具の跡などが見える一方、写真と同じようにボケ味も表現されていて、磁器の表面に写りこむ光の反射やクッションの微妙な陰影などがとてもリアルに感じられた。
大きいキャンバスに描かれた作品は、そのリアルな質感を感じ、静かな中に綺麗で清らかな印象を受けるものが多かった。
この絵を飾ることを考えると、あう場所のイメージが沸かなかったけど、絵自身はどれも綺麗な感じで、身近なものの持つ美的なものを引き出している感じがして、いいと思った。

2009年3月6日金曜日

マーク・ロスコ展を観てきた。

川村記念美術館で、6/7まで行われている「マーク・ロスコ 瞑想する絵画」展を観てきた。
マーク・ロスコは好きな作家で、川村記念美術館は昨年増改築して広くなり、ロスコの絵画を飾るロスコルームなどもあって、一度行って見ようと思いながら、少し遠いので行く機会がなかったけど、今回マーク・ロスコの展覧会とういことで、見逃せないと思い行ってきた。

今回の展覧会は、ヨーロッパでロスコルームを持つ、テート・モダンとの共同企画で、両者とナショナル・ギャラリーにあるものを含めて、シーグラム壁画と呼ばれる大型の連作30点中15点が展示されるのが目玉。
展示構成としては、展示室に入るとすぐに「赤の中の黒」という、ロスコらしい、もやもやした色調のオレンジというか茶色がかったような赤い中に、境界がにじんだような感じの黒い四角が上半分に、下側には背景と同系色で少し濃い目の四角がぼんやりと浮き上がるといった感じの作品が設置され、次の部屋はテート・モダンに絵を渡す際のやりとりの書簡やシーグラム壁画に関連した作品、シーグラム壁画を設置する際の配置を検討したらしい模型などがあった。
続く部屋が、シーグラム壁画の展示室となっていて、通常目にする展示とは異なり、見上げるような比較的高めの位置に壁面を埋めるような感じで隙間は少なめで並べられていて、四方の壁全体が作品のような感じだった。
他に、晩年の作品で濃紺というか黒っぽい中に黒という感じの作品4点からなる部屋と数点の展示といった展示構成。

入り口を入ったところに抑え目の照明のなか「赤の中の黒」があり、展示室に入ったらそこはロスコの世界、シーグラム壁画への前段階といった感じの2室目があって、シーグラム壁画たちによるロスコ空間といった感じで、こういった絵の好きの私としては、とても満足できた。

目玉のシーグラム壁画は、天井も高く空間の広い展示室の壁を埋めるように15点の作品が配置され、独特の空間が生み出された感じだった。
配置も普通にひとつひとつが一定の間隔で展示されるのと異なり、高めの位置に隙間が少なく並べて配置されていて、頭上の高いところから絵のほうが見下ろしているというか、壁一面の窓から光が差すように、絵が降ってくるような、なんというか崇高な感じのする空間だと思った。

シーグラム壁画は、赤褐色というか濃い赤紫色を基調にした作品が中心で、同系色や少し青みがかった色やオレンジ色で境界のはっきりしない四角や四角い枠がかかれた、なんともいえない作品たち。単品でも大型で迫力のある作品が、壁全体を覆うような窓といった感じで飾られ、この空間を体験するのに佐倉まできた甲斐があった。

書簡から、マークロスコは、自分の作品が他の作家の作品と並ぶことなく、また常設展示されれることを強く望んでいたようで、このような展示空間ができることを望んでいたのではないかと思えるような空間となっているように思う。

晩年のほとんど黒といった感じの藍色というか濃紺のものは、全面が黒っぽく見えるものの良く見ると微妙に内側の四角が浮かび上がってくるような感じのもの。全体が黒っぽい作品は初めてみたけど、こちらも小部屋3面に4枚の黒っぽいものが配置され、ホワイトキューブの展示室に置かれていることもあって、存在感がすごく、中央にはベンチが置かれていたので、のんびりと鑑賞させてもらった。

画面が大きいこともあって、作品点数自体はそれほど多くはないことと、晩年の作品が中心で鈍い赤紫から茶色やオレンジ、赤、黒、濃紺といった色あいのものが中心で、マーク・ロスコの本などの表紙を飾っているような黄色や緑などカラフルなのものはないものの、ロスコの作品をこれだけまとめて見られる機会はなかなかなく、素晴らしかった。ロスコの作品が好きな人には見逃せない展示だと思う。

2009年3月2日月曜日

脳は美をいかに感じるか を読んだ。

セミール・ゼキ著、河内十郎 監訳脳は美をいかに感じるか―ピカソやモネが見た世界(2002.2発行)を読んだ。
脳と美術といった、どちらも興味を持っている分野を、脳の働きの観点から繋ぐ本のようなので読んでみようと思った。

内容としては、
全体は終章を含め22の章立てとなっていて、脳と美術の役割(1~10章)、受容野の美術(11~16章)、美術形式の神経科学的検証(17~21章)の3部に分かれた構成。
1部では、「美術の目的は脳機能の延長にある」という筆者の考えをもとに、脳の機能や美術の機能について、物の形や本質をいかに表現し理解するかというような観点から、それぞれの働きとその共通性を画家自身の言葉と、神経科学の知見とを交えながら述べられている。
2部では、特にモダンアートの特徴が、単一細胞の受容野の特徴と似ていることが述べられていて、神経科学的というか神経機構における選択性細胞(ここの細胞の受容野における傾きや方向など、特定の要素に選択的に反応する細胞)の役割や、抽象画やキネティックアートなどが、最小要素を目指したり、動作、色、傾きなどといった、視覚に関わる要素のうち特定のものを抽出していて、選択性細胞の機能や脳の特定部位を活性化させることなどが述べられている。
3部では、美術の形式に対応して、肖像画と脳における顔の知覚や認識についてや、色彩の生理学と色彩の解放を目指したフォービスムとの脳機能から見た対応関係、抽象画と具象画で異なる脳の活性部位、さらに、モネの色彩感覚について脳機能から考えられることなどが書かれている。

優れた美術は多様な人の心を動かすもので、それは人の心理構造に関わる根本的な何かをとらえたものだから、心の動きは神経科学的機構に依存していて、美術と神経科学が関係することや、
脳機能、特に視覚の脳機能は「この世界についての知識を得るためのもの」であり、脳の機能は物体の真実の姿を表現することにあって、これは、画家自身が本質を捉えようという態度と共通のもの、といった観点が、「美術の目的は脳機能の延長にある」という作者の考えにつながるよう。

本質を取り出すといった恒常性の追求は、色や形に限らず、物体間の関係、顔や状況、正義や名誉、愛国主義といったより抽象的な概念にも適用できると考え、共通する特徴を抽出するものが美術の特質であるという捉え方を元に、脳機能との対応などが語られている。
単に概念的な話にとどまらず、特徴を抽出する基となる選択性細胞の存在や、
物体を見ることが近年、見る部位と理解する部位があるのではなく、見ることと理解することは切り離せない一方で、色や形など要素ごとに独立して脳で処理され、独立した小さい意識ともいうものが集まって、物や外界を意識的に認識することといった、
神経生理学的な見解も踏まえて述べられていて、説得力のある内容だと思う。

説明の難しいテーマのように思い、意味が良くわからない部分も時々あるものの、全体として記述は丁寧でわかりやすく、見ることと理解することが別個ではない一方で、要素ごとに見て理解する機能が分かれていること、そのような機能の分化とモダンアートの目指したものとが脳を考慮していないにもかかわらずとても似ている関係にあることなど、興味深く読むことができた。特に、紫外線のアートがないように、脳で認識できないものは美術としても存在しえないことは、当たり前のようで、美的体験も脳で認識するということを改めて明確にされ田感じがしたし、フェルメールの絵のような具象画についても、その表情や情景が同等の有効性を持つ多数の状況に当てはまり、状況の恒常性を抽出しているといった観点は、考えたことのない視点だった。
また、肖像画と顔認識や、色彩の部分で得られている波長自身より、周囲の光源を差し引く機能とフォービスムの色彩に対する考えなど、脳機能との対応の不思議さを改めて考えさせられた。

科学的な正確さという点では、サンプル数や実験方法など不明な点も多いが、
美的体験も脳内で処理されて生じていることであり、情動や情感まではまだまだ踏み込めないものの、視覚的な体験が対応する脳機能に応じて、分化したアートがあり、美術は外界の情報を得るために本質的なものの抽出するという脳機能の延長という考えは興味深く、読む価値の高い本だと思った。

2009年2月22日日曜日

サイボーグとして生きる を読んだ。

マイケル・コロスト 著、椿 正春 訳サイボーグとして生きる(2006.7発行)を読んだ。
先日読んだ、暴走する脳科学で、ブレインマシンインターフェースの関係で、実際の体験をもとに、科学記事を書く作家の本ということで、実際にどのように感じるのかなど興味がわき、読んでみることにした。

内容は、生まれつき難聴だが、両親の努力もあり、補聴器によりながらも通常教育を受け大学院まで進んだが、その後、失聴してしまい、人工中耳のインプラントにより、聴力を得ていくお話(ノンフィクション)。

人工中耳を埋め込むということに対する著者の気持ちは、著者がコンピュータおたくで文学好きなこともあって、人工の異物が埋め込まれ、サウンドプロセッサーにより聞こえ方が調整されるという、サイボーグ化(体の一部が電気機械装置に置き換えられる)という点に、かなり強く反応しているようにも思うけど、異物が体の中に入ることや、マイクが受信した信号を変換してソフト変更で聞こえ方が変わってしまうことなど、もともと自分のなかに存在しないものを自分の一部として取り込むことになるのは、精神的にも影響する面もあるののかもと思った。

科学記者の書いたものということだったので、もっと、客観的に状況が書かれた硬めの本かと思ったが、耳の不自由さを抱えながら彼女を探す、30過ぎの中年男の青春物語といった感じの小説といった感じで、わかりやすく読みやすい本だった。(BMIの実際の状態というか、脳への取り込まれ方や、適応していく様子がもっと書かれているかと思ったが、、、)

とはいえ、人工中耳自体は、マイクで拾った音をサウンドプロセッサーでゲイン調整や周波数分解して、電極アレイにより神経末端をしげきするものであるため、埋め込めばすぐ聞こえるようになるわけではないことや、うまく適応できないと聞こえるようにならない場合もあること、特に雑音との分離などは、難しく、著者も相当苦労したことが伺われ、脳や神経系のすばらしさと、それでも、残りで人工物にも適応していく柔軟性のすごさを感じられ、良かった。



2009年2月20日金曜日

ダイナミックな脳 を読んだ。

津田一郎著、ダイナミックな脳―カオス的解釈 (双書科学/技術のゆくえ)(2002.3発行)を読んだ。
脳関係で、脳は非常に可塑性が高く、近年、ニューロンの相互作用も含めたダイナミックなシステムとしてとらえるのが重要なようなので、タイトルがダイナミックな脳とあり、カオス的解釈とあり、カオス理論を脳へ応用し、脳のカオス的解釈学を提唱した博士と、その反論をデーモン2人が行う対話形式で行っているので、一般向けに、著者の提唱する脳のダイナミックな側面を捉える理論の概要や現状の課題を知ることができるのではないかと思ってよんでみることにした。

内容は、複雑系である脳のダイナミックな側面に関する私なりの考察を対話形式で述べたもの(あとがきにかえて、より)で、対話形式をとることで問題点を浮き彫りにし、著者の提唱する理論を問題点を含め紹介するもののよう。

式を使わない、一般向けの本としてかかれたようだけど、著者の提唱する理論がカオス的遍歴を含み、カントール・コーディングで脳の理解をしようというもののようだが、内容がどんなものなのかイメージすることもできなかった。

著者は、複雑系の数理理論を脳に当てはめることで、脳の解釈学的理論を提唱しているようなのだけど、非線形力学やカオス、ニューラルネットなどを工学面から、ざっと齧ったことはあり、ある程度の議論にはついていけると思っていたが、それでも、いろいろな専門用語が説明なく用いられ、他の人の研究を参照したり、問題点や自分の主張との対比をするときも、その研究内容がわからないし、説明もわからないといったところ多く、ほとんどの読者はついていけないと思った。(どういう読者を想定しているのかわからないし、自分が理解できないからといって他の人が理解できないということはもちろんないが)
かなり著者の理論や周辺分野を理解していれば、なにを言っているのかわかるかもしれないが、これなら、論文やより専門的なものを調べながら読んだほうがわかりやすいのではないかと思った。

結局、最初の方の、脳を理解するための適切な言語をみつけることが必要なことや、脳は解釈学的に議論することも必要という部分が少しわかったような気がするが、他の部分はほとんど良くわからず、字面だけを追っている感じだった。

哲学の本とかで、なにをいっているのかわからない本はときどきあるけど、理系の一般向けの本で、イメージすらつかめなかった本はあまりないと思った。

ダイナミックな機構のなかで情報を保持していくといった、カオス的脳解釈というのは、興味深いのだが、イメージもつかめず残念だった。

2009年2月16日月曜日

暴走する脳科学を読んだ

河野哲也著暴走する脳科学 (光文社新書)(2008.11発行)を読んだ。
副題に、哲学・倫理学からの批判的検討、とあり、脳科学者ではない哲学者の立場からの検討ということで、そういった違う立場の人のものも読んでみることにした。

内容としては、
哲学は、一般市民が非専門家の立場から、既存の知識や常識に対して正しいのか、役立つのかを問いかける作業、
ということで、問いかけと、それに対する筆者の立場を表明した内容で、6章構成。
1章は続く章の予告も含めたこの本の内容の紹介ともいえ、
脳科学の進展とそれに関連して生じる、脳科学が心の解明につながるのか?、心と脳が同じなのか?、脳を調べ心の状態を読めるのか?、脳のメカニズムと自由意志の関係は?、社会的インパクトや倫理的問題は?といった疑問に答えるものとして、脳科学の応用を含めた最近の進展や社会的状況、リテラシー教育や倫理的問題に触れている。
2章は脳と心の関係について、これまでの考えや、近年注目され普及しつつある、身体性や環境も考慮した「拡張した心」の概念について説明され、3章ではマインドリーディングといった心を読む技術を、4章では心は本質的に社会的であり、研究のための分類が社会的影響を受けること、脳は可塑的で社会的環境に適応する臓器であることを、5章では意識をする前に無意識の活動が先行するというリベットの実験結果が巻き起こした、自由意志の可否から、意志や意図、意思決定などについて、6章では脳科学研究の社会への影響性と倫理性の議論の必要性について、著者の立場からの見解を交え語られている。

拡張した心の概念は、最近の脳科学でも環境との相互作用が言われたり、そもそも外界と自分の境界がどこかなどの議論も聞いたことがあり、より正しく脳や心の機能を捉えるうえでいい概念だとは思った。しかし、そのように広げることで研究が難しくなるだろうから、このような概念からどのように研究の方向性が変わったり知見を得られるのかが気になった。

また、心的機能の分類(ラベリング)が社会的環境に影響されることや、意図的な行為とはなにかとか、意図的行為に決意は不可欠ではなく時間的にも空間的にも幅をもって動機付けられることなどは、とても興味深かった。
意識や意志、意図、決意の瞬間、など、用語が丁寧に使い分けされていて、論理的に話が進められているが、読む私のほうが明確に分け切れていないため、読んでいる間は納得感があるものの、自由意志などの議論について理解しきれない部分も多かった。

ただ、心と意志の問題については、内省的な観点からの議論のようには思えるけど、哲学的な議論のほうが、用語の定義や、意志決定とはなにかなどについての考察が深く、むしろ技術者や科学者のほうが、研究対象自身については詳しいものの、それらの結果からの考察については、用語も感覚的に使用している面が多く、両者の議論の重要性をあらためて思った。

他に、倫理的な検討は必要だと思うし、科学技術リテラシーに関して、関係者がみずから積極的に忠告や示唆を与え、相互に批判もし、一般の注意を喚起する ようにすべきというのもその通りだとは思う。しかし、自分も理系の研究者としてやってきて、無責任かもしれないが、研究者はやはり内容そのものに興味が あって、研究内容やその影響について隠すつもりはなく、むしろ聞かれれば喜んで情報は開示するものの、自ら積極的に相互批判や倫理的検討をするというの は、煩雑な事務処理がどうしても増えてしまうことが予測され、研究することそのもののモチベーションがそがれてしまったり、形だけになってしまいがちなの で、難しいところだと思った。

2009年2月12日木曜日

スルメを見てイカがわかるか!を読んだ。

養老孟司、茂木健一郎、著スルメを見てイカがわかるか! (角川oneテーマ21)(2003.12発行)を読んだ。
このところ、脳や心関係に興味があるので、養老さんと茂木さんの脳とか意識とかに関係した話のようなので、読むことにした。

構成は、おわりにに書かれていたが、養老さんの講演と、茂木さんと養老さんの2回の対談、茂木さんの書き下ろしからなっているそうで、章立てとしては、1章が養老さんの話で、2,3,4章が対談、5章が茂木さんの書き下ろし。
1章では、心や意識、言葉と脳での認識、言葉や情報はその瞬間で停止したもの(タイトルにある、停止したスルメを見てイカのことがわかるのかということに関係)、個性やアイデンティティと強制了解性などの話がされ、そのはなしを受けた感じで、
2章では、意識の働きを言葉の理解や、同一性、強制了解性や、社会や世代間のコミュニケーションに絡めた話を、3章ではイデオロギーや原理主義と都市化や経済成長ということに関して、4章では人間自身も自然の一部として「手入れ」される自然といった思想と、人工と自然を対比アメリカ的な思想の対比や文明のことについて、対談が行われ。
5章では、脳も自然も完全にコントロールするのは本来無理で、あるがままに受け止める必要もあり、手入れという適度であいまいな調整がいいというような話。

この本を読んで、
オリジナルとか個性も他人と共感されない限りそれは排除の対象となることや、
言葉の意味するものの同一性について、本来、他人とまったく同じかわからないというか異なっているはずだのに、共通だという幻想であいまいなまま成り立っていることについて、
考えたり、
共通了解に基づいて強制了解性をもってしまうことや、
楽になろうとすることが、合理化や進歩を生み出しているように思えるけど、その一方で、本来不合理で不確定なものを排除することで都市化が進み、閉塞感が生まれてきているようにも思ったり、
エピソード記憶から意味記憶へ変わっていく仮定そのものも含めて、意識は言語として意識されるし、
脳内の現象だけど、脳だけにとどまらず、環境との関係性なども含めて、無意識レベルの動きも含めて意識ともいえると思ったり、
と、そんなことを考えさせられる本だった。

2009年2月10日火曜日

すばらしい新世界を読んだ。

池澤夏樹著、すばらしい新世界 (中公文庫)(2000.9発行)を読んだ。


このところ読んでいる、池澤夏樹さんの本。先日読んだ「光の指で触れよ」でも触れられていた、主人公たちの数年前の物語ということで、読んでみた。

内容は、1999年から1年間読売新聞に連載された小説で、風力発電の技術者である主人公、林太郎が、環境関連のボランティア組織で働く妻アユミの知り合いからの頼みをきっかけに、ヒマラヤにある村に灌漑用電力をまかなうための小型風力発電を設置し、現地の精霊に引き止められ、小学生の息子が迎えにきて、最後には知り合ったチベット人から頼まれたことなどをして帰ってくるという話。

長編小説で、最後の1/3くらいで、精霊に引き止められて家族が迎えに来ないと帰れなくなってしまったり、埋蔵経を運ぶことになったりと、話が急展開するところは不自然な感じだし、小説としても中途半端な感じもした。連載物をまとめたからとも思うけど。

作家が主人公を創造して、物語をつむぎだすという作家の独白とも言える部分や、主人公同士がやりとりするメールを通して、主人公たちの考えなどが描かれる場面があり、小説とはい え、少し離れた位置から、現在の先進国と呼ばれる日本の現状や、チベットの小さな国の人々の考え、それらに対する著者?の考えが語られている感じ。

いまでこそ、金融危機でアメリカ型というか市場原理とグローバル主義が反省されはじめているように思うけど、この本が書かれた99から2000年はグローバル化が伸展し、疑問に思うことが、なんとなく時代に取り残された古臭いものとされてしまいがちだったように思う。
ブータンのような、住む人の幸せを目指すのがいいことだとは思うけど、田舎暮らしがいいと思うような感覚で、チベットなど自然とともに生きるのがいいと思ってしまうが、ことはそう簡単じゃないだろうし、自然の中で生きるのは、ときとして猛威にさらされたり、予期せぬことや不条理なことに巻き込まれることでもあるから、それを制御している今の便利さや快適さはなかなか捨てられない。でも、今の先進国というか、日本のどことなく不安感につつまれ、便利だけどなんか幸せを感じられない環境も、もともとは快適な生活など幸せを求めた結果なのに、なぜ、こんな閉塞感につつまれた感じがするのだろうとか、そんなことを考えてしまう物語だった。

2009年2月9日月曜日

元永定正展を観てきた

先日、Bunkamuraザ・ミュージアムに行った後、新宿の損保ジャパン東郷青児美術館で、2/22まで行われている、元永定正展を観に行ってきた。

チラシやWebを見た感じだと、色彩にあふれた抽象画のようなので、気になっていたので、観に行ってきた。
2006年の損保ジャパン東郷青児美術館大賞受賞記念として、開催されていて、受賞作「いろ いきてる!」をはじめとして、初期の大画面に絵具をたたきつけたような抽象画から、イラストの図案のようなもの、それらを組みあわせたようなものなど、約60点が展示されていた。

初期の抽象画は、絵具の厚さやざらつき感のある、前衛的?な抽象画で、わりといい感じのものだった。
その後の作品も、絵本など小さい作品もあるが、大画面に幾何学的な図柄に光が当たって、CGでグラデーションをつけたような感じの作品や、絵具が流れることで画面に動きがあるようなものなど、綺麗な感じの作品が多かった。

当初漫画家を目指して、洋画家に転向した方で、絵本の作家とも知られているそうです。
そのためか、どことなく温かみと面白みを感じさせるイラストのような絵やタイトル付けがされているように思った。

この作家のことは知らなかったけど、まとめてみることができ、入場料も500円と良心的で良かった。

2009年2月6日金曜日

展覧会、ピカソとクレーの生きた時代 を観てきた。

先日、Bunkamuraザ・ミュージアムで、3/22まで開催されている、「20世紀のはじまり、ピカソとクレーの生きた時代」を観てきた。

この時代の抽象画が出現したころの平面作品が好きなので、楽しみにしていた展覧会。

この展覧会は、ドイツにある、ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館が改修工事で休館する機会に、そのコレクションを借り受けた展覧会。
その州立美術館については、初めて知ったのだけど、近代美術コレクションのその質の高さと、ピカソとクレーのコレクションで知られているそうです。

展示構成は、マティスやブラック、シャガールなどの、20世紀初頭の表現主義的傾向から始まり、ピカソを中心に、ブラック、ファン・グリスのキュビズム的傾向、マグリット、イヴ・タンギュー、エルンストからミロまでのシュールレアリスム的傾向、カンディンスキーとクレーの展開という4章構成。


ピカソもキュビズム的なものから、ボリューム感のある人物、多方面の視点をいれた肖像画など、ピカソらしいものが展示されていたし、
クレーは今回の展示の中心にもなっていて、キュビズム的なものから、スプレーで描かれてやわらかいイメージのもの、点描調のもの、太線の記号のようなものや、晩年の簡素な線描まで、クレーらしさのある作品が展示されていて、良かった。

全体の作品点数自体は60に満たず、クレーの小品が占める割合も多いことから、やや少ない感じもしたけど、どれも、見ごたえのある質の高い作品が多く、エルンストやイブ・タンギュー、カンディンスキーなど、私の好きな作家の作品で、初めてみたものもあって良かった。

2009年2月5日木曜日

ブリジストン美術館にコレクション展を観てきた。

先日、パソナO2の地下植物工場?を観に行くことにしたので、近くのブリジストン美術館に行ってきた。

1/24-4/12までは、ブリジストン美術館のコレクションから、「名画と出会う 印象派から抽象絵画まで」と題して展示が行われている。

この美術館は昨年の今頃に現代美術よりの展覧会を、昨年の秋には今回とほぼ同じ印象派から抽象絵画までのコレクション展を観に行っている。そのため、展示位置も含めて見覚えのあるものも多かったが、コロー、クールベ、シスレーから、モネ、ルノワールなどの印象派、セザンヌ、ゴーギャン、ボナールから、マティス、デュフィ、ルオーやモディリアーニ、それに、ピカソ、クレー、からキリコ、レジェ、ジャン・フォートリエ、菅井汲、ピエール・スーラージュや、白髪一雄、斉藤義重といった、近代から現代のいい作品が多いので、見飽きないというか見ごたえがあっていい。

特に私の好きな抽象絵画は、その大きさや画の質感なども含めて、いろいろなイメージを感じるものが多いので、今回も、ザオ・ウーキーやエミリー・ウングワレーの絵などを見ることができてよかった。

2009年2月4日水曜日

パソナO2に行ってきた。

先日、最近、水耕栽培や農業に少し関心があるのでパソナO2に行ってきた

ビルの地下2Fに6つほどの栽培ルームがあって、3つずつつながって大きく分けると2箇所に区分されていて、その間にカフェのような休憩所というフロアになっていた。

花畑となっている部屋ではいろいろな観葉植物などが栽培されていて、部屋に入ったとたん、空気が違った。(温湿管理のためが大きいと思うけど)
バラ・ハーブ園となっている部屋は、入った瞬間ハーブの香りなどで空気が違っていた(ハーブの香りとはいえ、いろいろな種類のものが混じっているためか、すがすがしいというものではなかったけど)。
他にトマトの部屋や稲穂を育てている部屋、野菜の部屋にサラダ菜などを栽培している部屋があって、サラダ菜などのベビーリーフはカフェのような感じの休憩所で試食できるようになっていた。

観葉植物は室内で育つ植物も多いし、特に印象に残るようなこともなかった。植物の光合成と形態形成では必要な波長領域が異なるのを示すために、赤・青・緑のLEDでイタリアンパセリを育てている例があって、大きさが違っていたりしたけど、あまり明確ではなく、情報提供に過ぎない感じだった。
ハーブはそもそも、育てやすいだろうから、地下で育てるのには向いているような気もした。
トマトはそれなりに立派に育っていたけど、実の付き具合は少ない感じで、光量不足なのではないかと思った。
野菜畑は、いろいろ植えてあり、それなりに育っているみたいだったけど、あまり印象に残るようなものはなかった。
サラダ菜の栽培は、植物工場らしい感じだったけど、ネットや本で見聞きした水耕栽培の様子から想像したものと変わらず、あまり驚くようなこともなく、むしろ、蛍光灯で栽培しているし、サラダ菜などはスーパーなどでも既に良く売っているわけだし、確立した栽培を単に小規模にやっているようにしかみえなかった。

他にパソナの取り組みとして、農業経営支援セミナーのようなものの開催などの説明もあったけど、パソナ自身が農業に乗り出すというわけではなく、都会の人が農業を考えるきっかけになったり、農業への関心を高めるためのショールーム的な位置づけだそうです。

以前、報道などで見聞きしたときは、都会 のこのような場所でも農業ができ、空調や水質を管理して農薬などを用いない安全な栽培が可能となる、新しい農業の可能性を提案していたように思っていたけど、パソナ自身が新しい農業の拡充に力を入れているのかと思っていたので、少し印象が違った。

2009年2月2日月曜日

ジム ランビー 展を観てきた。

先日、原美術館で、3/29まで行われている展示、「ジム ランビー アンノウンプレジャーズ」を観てきた。

品川に用事があったので、久しぶりに原美術館に行ってみようと思っていったので、この作家のことはなにも知らなかったけど、床全体にテービングを行って幾何学的なパターンで独特の空間を作るのが特徴らしいです。

チラシなどでは、カラフルなテーピングの様子が写っていたけど、今回の展示では、白黒のラインで床面が埋め尽くされていて、ところどころに、レコードを箱に整理したような四角いキューブ状のものが傾いて転がっていて、独特の空間の中に、ありふれたものがあったりして、それがアンノウン プレジャーズ(未知の快楽)を感じさせるのだそうだけど、なんだかよくわからなかった。
部屋ごとに、写真に花とかを添えたものが壁にかかっていたり、少し開いたドアがあったり、椅子を多数組み合わせたオブジェが部屋の中央にあったり、枕の巨大なのが赤く塗られて絵具が下に流れているようなもの階段にかかっていたりしていた。
他には、常設なのだと思うけど、森村泰昌、宮島達男、奈良美智のそれぞれ部屋全体を使ったものがあった。

原美術館は邸宅を現代美術館にしたこともあって、元は邸宅なので、広い家に招かれて美術品を展示している部屋を見るような感じもあって、その邸宅が幾何学模様の床で埋め尽くされ、奇妙な感覚を感じを覚える展覧会となっていた。
ただ、美術館はそれほど大きくはないことから、観るものとしてはそれほどなく、入場料が1000円なのはちょっと高い感じもしてしまう。
ただ、カフェも利用して、原美術館の雰囲気を含め、独特の空間を楽しむにはいい感じだし、現代美術は体験することが重要なんだろうから、そういう点ではインパクトもあるようにも思った。

2009年1月20日火曜日

芸術の神様が降りてくる瞬間 を読んだ。

茂木健一郎 他、芸術の神様が降りてくる瞬間(2007.10発行)を読んだ。


アートと脳の関係などに興味があるので、先日読んだクオリア降臨と一緒に図書館で借りていたので読んでみた。

内容は、BS日テレで2006年4月から9月まで放送された「ニューロンの回廊 ~潜在能力の開拓者たち~」の一部を再構成して書籍化したものだそうで、ミュージシャンで作家の町田康氏、ダンサーで演出振付家の金森穣氏、ジャズピアニストで作曲家の山下洋輔氏、落語家でタレントの立川志の輔氏、コーデノロジスト(芸術、哲学、科学の総合に向かい、その実践を推し進める創業家だそうです。)の荒川修作の5人の、芸術といっても幅の広い分野の第一人者ともいえる人との対談が収められていて、創造の過程やそれぞれの物事に対する感じ方や捉え方などが披露されている。

一般向けの番組での対談が元になっているので、先日読んだクオリア降臨とは違って、読みやすいし面白かった。もっとも、言葉に表しにくいものを表現しようする面がたぶんにあるので、なんとなくイメージが浮かぶだけで、よく考えるとわからなかったり難しかったりする部分も多々あった。
特に、荒川修作氏との対談のように、生命の構築とか有機体や位相に分身、哲学や科学や芸術を現代のように狭いものではなく枠組みを取っ払うような身体感覚に基づいた世界を築こうというような、訳わからない対談もあるけど、それはそれで、荒川修作氏という人のパワーというか人となりが感じられるように思った。

絵を見るのは好きなものの、ダンスとかジャズや落語など、普段はあまり興味を持たない分野の人の対談が多かったが、第一人者ともいえる人の話は、物事の感じ方や捉え方などに日ごろ注意深く観察しているようなところが多く、個性的である一方で共通するようなところもあり、いろいろな見方というか考えを聞けたように思った。

例えば、小説の場合に言葉を配置する技術があったり、共通の認識領域とその外側を縫うようなものを考えたり、ダンスの場合には肉体の動作を思い通り動かす技術や、どこかから見るように連続的に意識することなど、他の分野でも、芸術の創造にはベースとしての技術や経験の蓄積が必要だったり、それを外部やいろいろな視点から見るようなことが重要なのだろうというのを改めて思った。

他にも、オリジナルかどうかより、今やる価値があって、自分たちにとって新しいかを模索するだけ、という意見など、いろいろと考えると面白い見方があったり、ミラーニューロンや報酬系の話など、脳科学の観点からみるとどうなるかという話も適宜混じり、芸術を創造することについての手がかりのようなものが感じられるような気がして良かった。

2009年1月17日土曜日

クオリア降臨 を読んだ。

茂木健一郎著、クオリア降臨(2005.11発行)を読んだ。

このところ、読書量が少ないので久しぶりになってしまったけど、引き続き興味のある脳関係ということで、数年前の発行だから中身はさらに古いけど、茂木健一郎氏が書いたものということで、読んでみた。

内容は雑誌、文學界での2004年4月号から1年半近く連載された「脳の中の文学」を順番や一部加筆修正して、まとめたものだそうです。

文学の味わいも無数の神経細胞の活動からなる脳内現象として、意識内にクオリアとして立ち上がるものといった概念が全体を通して感じられるものの、この本では、脳科学という観点はそれほど明確ではなく、有限な生のなかで無限を想起することや、愛情や体験、笑い、現代の文化状況、感情の衝突といった様々なことがらについて、芸術作品や漱石やドストエフスキーなどの文学、小林秀雄などの評論などを参照しながら、文学や芸術を表現することや認識することに関する様々なエッセイといった感じだった。

言葉や色などの共通認識も互いに同じように思っているだろうという前提のうえで、解釈や批評が行われるけど、そもそもクオリアは私秘的で一致しているとは限らないし、芸術のような立ち上がるクオリアの1回性に関する話は、そのように思うし興味深かったものの、前提としている文学や芸術的知識が足りないこともあって、言っていることが理解できない部分が多々あった。
そのため、読み終えたときになんとなく、いろいろな考えに対する新たな観点を得られたような気がしたものの、こういう考えもあるのかとかといった具体的な印象が残らなかった。
私の文章の理解力の足りなさによるところだろうが、、、

2009年1月13日火曜日

奇蹟のエコ集落 ガビオタス を読んだ。

アラン・ワイズマン著、奇跡のエコ集落 ガビオタス(2008.12発行)を読んだ。

このところの流行に乗っているような気がして少し嫌なのだけど、農業などの自給自足や、太陽エネルギーなど環境にやさしい、持続可能な生活に興味が向いていて、環境分野のところで新刊を観ているうち、コロンビアの不毛な土地で、食物からエネルギーまで自給自足を目指し、環境技術を開発しながら、持続的生活を目指した集落についてのこの本に興味を持った。また、著者のアラン・ワイズマンは、人類が消えた世界という、人類が突然いなくなったとしたら、建物や文化的なもののほとんどは数万年のうちに消えるが、化学物質や放射性物質などは影響を与え続け、そのような環境下で生態系はどうなっていくかといった、人類がいなくなった未来を予測した本を書いて世界的ベストセラーになっているようで、読んでないのでわからないけど、そのような著者が書いた本でもあるので、読むことにした。

内容は、理想的な文明を設計しようと、人類の増加により今後厳しい土地にも住むことになる可能性が高いことと、条件の厳しい土地に作れれば他でも可能だろうということで、コロンビアの首都ボゴタから東に離れた、政情も不安定で不毛な土地に、科学者や学生などを巻き込み、水耕栽培や太陽エネルギーを活用する環境技術を試行錯誤で生み出しながら、持続的で自立的な社会を目指す集落ガビオタスを形成しコミュニティとして維持してきたことについて書かれている。
ガビオタスの成り立ちや、機能し続けるために必要な資金の獲得などの現実的な問題、製造時のエネルギーやコストに保守の必要性なども含めた環境技術の検討の様子、国連やNPOなどとの関わりなど、維持していく上での困難などを乗り越えながら、設立者や関わった人々の努力やなどが書かれたノンフィクション。

自然と共生しつつ、技術を排斥するのではなく、サスティナブルな技術を開発しながら広げていくエコ集落、このところの経済破綻やエネルギーや環境問題から、こういった集落は再び注目を浴びるだろうし、私もそういう生活は興味がある。しかも、条件の悪いところで出来たのなら他ではもっと用意に持続的な社会ができるのではないかとも思えるし、現状の急ぎすぎて、規則やお金などで縛られ精神性が失われてしまっている社会ではなく、人がもっと幸福感を感じながら生活できる社会を実現するうえでも、参考になるような気もする。

ただ、技術開発は試行錯誤的で、自前で何でも行いいろいろ工夫するのは楽しいとは思うけど、発展途上国の文明化への寄与という点ではなく、人類が必要とする将来の文明形態がどうなるかという観点で考えると、例えば、量子力学の実験的検証設備を作るような先端科学技術とはかなりの開きがあるし、つながっていく方向性も見えなくて、人類全体の発展という点ではそのような社会でいいのかとも思ったりした。(最も、そういう比較をするつもりはないのだろうが)
現在の科学技術の発展速度が、環境などを無視していて破綻するから、破綻しない範囲で技術進歩を進めていけばいいという考えや、人口の多くは日々の生活を楽しめればいいのだから、自然と共生した穏やかな生活をするような社会を少しでも増やしていけばいいという考えもあるのだろうけど、なんか、完全には賞賛し切れない気がした。
ただ、いろいろな価値観が世界に伝わるくらいに確固として成立するのは、いいことだと思うので、これまでと同様、人的、金銭的、政治的危機を乗り越えて、ガビオタスの社会が持続していくことは重要だとは思った。

2009年1月12日月曜日

光の指で触れよ を読んだ。

池澤夏樹著、光の指で触れよ(2008.1発行)を読んだ。

大きな電機会社で風力発電の専門家として働き、高校生の息子森介は離れた寮でくらしていて、小学校に入る前くらいの娘がいる林太郎。彼の不倫を知って、その妻アユミが娘をつれてヨーロッパに行ってしまい、互いに子供のことや、生活ひいては仕事や人生そのものについて、農業やパーマカルチャーなど、入ってくるお金で縛られるのではなく、もっと持続的な生活や精神性の高い生活を目指し始めるといった感じの内容。

最近の金融危機で、農業の重要性が、LOHAS的な意味からだけでなく、経済効果も含めて語られ始めていて、かなり流行りの様相を呈し始めていて、逆に将来うまく広がらなかったりして、反動がくるような感じもするけど、お金でいろいろなものを計ってしまいがちな世の中に対し、もっと、他にあわせるのではなく、個性を発揮しつつ互いを認め合えるような、やわらかいつながりのコミュニティー的な生活や、精神性を高めあえるような生活、何も与えず何も増やさず植物などの協調で、持続的に自給自足するパーマカルチャーなど、人昔流行ったニューエイジ的な考えが、かなり入った小説だと思う。

自給自足って、社会を信用しないでうちに引きこもっているみたいとか、パーマカルチャーをわがままな農業と言ってみたり、単に心の開放や個性の発揮や精神性の向上などのような考えに迎合するのではなく、お金はそもそも、物々交換の不便さを解消する手段として出てきたことや、コミュニティが始めた地域通貨が結局周辺に広がらずうまくいかなかったことなど、常識的な考えからの見方や、現実的な問題も含めて語られていて、理想的すぎて話しにならないという感じではなかった。(小説なので理想的だったり空想的だったりしてもいいのだろうけど)

林太郎とアユミは、二人とも離れた別々のところで、それまでの会社から給料を受け取り生活していく価値観から、自給自足など農業的な価値観を大切にするような方向に変わっていくが、
林太郎は技術者で(もともと風力発電など環境に関係していたが)、考えも理知的で論理的、妻のアユミは、より精神性が高い。・そのため、同じような価値観にいたる仮定での周囲とのやり取りの様子が異なり、単なるLOHAS思考の賛美に陥っていかない感じがして良かったと思う。(最終的にはシュタイナー教育やパーマカルチャー賛美の方向なのだけど)

この人の本は、これまで読んだものは、もっと詩的な感じがしていたけど、今回は精神性という点で目指す方向は詩的だけど、文章的にはいままでよりは固い感じがした。(読みにくいわけではなくて、これまでの詩的で情緒的な文章から、もう少ししっかりした描写をする文章という感じ)

基本的に技術者というか研究者で、会社で働いてそれなりに地位を作り金をもらうという生活にどうも気が乗らない私にとっては、かなり共感する部分の多い小説だった。

レオナール・フジタ展

年末年始とブログの更新を怠っていたので、昨年のことになってしまったけど、12/30に、上野の森美術館で行われている、「レオナール・フジタ展」(上野での会期は1/15まで、この後福岡と仙台を巡回)を観てきた。

展示構成は、4つに区分され、建物の1階部分でに第1章として、1910年代後半のフランスに渡った頃の初期の作品からスタイルを確立した20年代後半頃までの人物画や風景などが、
第2章として、今回のメインともいえる大作、「ライオンのいる構図」「犬のいる構図」「争闘I」「争闘II]の連作2つと関連する習作、人物や動物に構図の共通性がみられるパリの建物内の壁画に使われていたものや、未完の作品「馬とライオン」など、大作に関連した作品が展示があり、他に猫や動物の絵も展示されていた。
続く建物の2階からが第3章として、晩年をすごしたアトリエを中心に、フレスコ画をはじめとしたいくつかの作品に加えて、アトリエの様子が再現されていたり、パレットや筆などから、アトリエで使用された箱や皿などの雑貨を自分で作ったり装飾したものなども展示されていた。最後の4章では、洗礼を受けキリスト教徒にまでなった、レオナールフジタの宗教画を中心に、普段はギャラリーとして使用している隣?の建物には、フレスコ画からステンドグラスや細部の装飾まで自分で手がけた平和の聖母礼拝堂の模型や、ステンドグラス、壁画やそのための習作などが、展示されていた。

フランスに渡って数年後の初期の人物像は、輪郭線がはっきりした装飾的というか面的な作風だし、風景は色調の抑えられた、さびしくて憂鬱な感じで、中にはムンクの絵のような空や地面が揺らいでいるような感じの絵もあり、藤田嗣治としても、レオナールフジタとしても、まとまった展覧会を観たのは初めてだったので、初期はこのような絵を描いていたことを始めて知った。
もっとも、その数年後には、細い描線と乳白色の宇宙人のような顔をした作品を描いていて、大作を描いた20年代後半につながる作風が見られ、晩年の本の挿絵のような感じの、カラフルな幻想的な細密画(個人的な印象)まで続く、細い線と白っぽい印象の独特の画風の作品がほとんどのようだけど。

個人的には、晩年のものよりも、人物や猫などの代表的な作品も展示されていた、20年代後半から40年代頃の人物や動物の絵がいいように思った。晩年の作品は、細かく書き込まれる一方で肌などは滑らかに塗られ、シュールレアリストっぽい感じもして、面白いのだけど、絵としての見ごたえというか、ひきつけられるような独特の感じというのが弱いように感じた。それと、どことなく不気味で幻想的な感じの人物像はフィニーの絵を思い起こすような感じがした。
最も、今回、いろいろな作風が展示されているものの、他にもいろいろな絵があるだろうから、なんともいえないが・・・

この美術館はそれほど広くはないものの、空間を有効に使って展示されていて、隣のギャラリーも今回は会場の一部となっており、初期の作品から、今回の目玉とも言える、争闘や構図といった大作と関連した習作などや、晩年すごしたアトリエの様子、フレスコ画から装飾まで手がけた、聖母礼拝堂の様子などが模型や、再現したものを含めて展示され、興味深い構成となっていたのに加え、初期から晩年のさまざまな作風の作品が見られて良い展覧会だった。

最も、今回の展示は、宣伝用のチラシやWebページからは、初公開を含む2大連作を目玉に、資料や関連する作品の展示がされているようだったが、他に作品の紹介があまりされていなかったので、資料や習作が多いだろうと思い、大作以外の完成した良品を見ることをそれほど期待していなかった分、いい印象を持ったところもあるかもしれない。

今回、ブログに感想を整理するのが観に行ってから10日ほど経ってしまって、見た直後に比べると、だいぶ印象が薄れてまった感じがした。図録を買っていたので、観ていると、いろんなことを思い出せたけど、最近はすぐに印象が薄れてしまいがちて、細かいことはすぐに思い浮かんでこなくなる。
記憶だけを頼りにしているので、Webをみて思い出しながら書いたものの、整理するならやはり早めにするようにしようと思った。