2009年2月22日日曜日

サイボーグとして生きる を読んだ。

マイケル・コロスト 著、椿 正春 訳サイボーグとして生きる(2006.7発行)を読んだ。
先日読んだ、暴走する脳科学で、ブレインマシンインターフェースの関係で、実際の体験をもとに、科学記事を書く作家の本ということで、実際にどのように感じるのかなど興味がわき、読んでみることにした。

内容は、生まれつき難聴だが、両親の努力もあり、補聴器によりながらも通常教育を受け大学院まで進んだが、その後、失聴してしまい、人工中耳のインプラントにより、聴力を得ていくお話(ノンフィクション)。

人工中耳を埋め込むということに対する著者の気持ちは、著者がコンピュータおたくで文学好きなこともあって、人工の異物が埋め込まれ、サウンドプロセッサーにより聞こえ方が調整されるという、サイボーグ化(体の一部が電気機械装置に置き換えられる)という点に、かなり強く反応しているようにも思うけど、異物が体の中に入ることや、マイクが受信した信号を変換してソフト変更で聞こえ方が変わってしまうことなど、もともと自分のなかに存在しないものを自分の一部として取り込むことになるのは、精神的にも影響する面もあるののかもと思った。

科学記者の書いたものということだったので、もっと、客観的に状況が書かれた硬めの本かと思ったが、耳の不自由さを抱えながら彼女を探す、30過ぎの中年男の青春物語といった感じの小説といった感じで、わかりやすく読みやすい本だった。(BMIの実際の状態というか、脳への取り込まれ方や、適応していく様子がもっと書かれているかと思ったが、、、)

とはいえ、人工中耳自体は、マイクで拾った音をサウンドプロセッサーでゲイン調整や周波数分解して、電極アレイにより神経末端をしげきするものであるため、埋め込めばすぐ聞こえるようになるわけではないことや、うまく適応できないと聞こえるようにならない場合もあること、特に雑音との分離などは、難しく、著者も相当苦労したことが伺われ、脳や神経系のすばらしさと、それでも、残りで人工物にも適応していく柔軟性のすごさを感じられ、良かった。



2009年2月20日金曜日

ダイナミックな脳 を読んだ。

津田一郎著、ダイナミックな脳―カオス的解釈 (双書科学/技術のゆくえ)(2002.3発行)を読んだ。
脳関係で、脳は非常に可塑性が高く、近年、ニューロンの相互作用も含めたダイナミックなシステムとしてとらえるのが重要なようなので、タイトルがダイナミックな脳とあり、カオス的解釈とあり、カオス理論を脳へ応用し、脳のカオス的解釈学を提唱した博士と、その反論をデーモン2人が行う対話形式で行っているので、一般向けに、著者の提唱する脳のダイナミックな側面を捉える理論の概要や現状の課題を知ることができるのではないかと思ってよんでみることにした。

内容は、複雑系である脳のダイナミックな側面に関する私なりの考察を対話形式で述べたもの(あとがきにかえて、より)で、対話形式をとることで問題点を浮き彫りにし、著者の提唱する理論を問題点を含め紹介するもののよう。

式を使わない、一般向けの本としてかかれたようだけど、著者の提唱する理論がカオス的遍歴を含み、カントール・コーディングで脳の理解をしようというもののようだが、内容がどんなものなのかイメージすることもできなかった。

著者は、複雑系の数理理論を脳に当てはめることで、脳の解釈学的理論を提唱しているようなのだけど、非線形力学やカオス、ニューラルネットなどを工学面から、ざっと齧ったことはあり、ある程度の議論にはついていけると思っていたが、それでも、いろいろな専門用語が説明なく用いられ、他の人の研究を参照したり、問題点や自分の主張との対比をするときも、その研究内容がわからないし、説明もわからないといったところ多く、ほとんどの読者はついていけないと思った。(どういう読者を想定しているのかわからないし、自分が理解できないからといって他の人が理解できないということはもちろんないが)
かなり著者の理論や周辺分野を理解していれば、なにを言っているのかわかるかもしれないが、これなら、論文やより専門的なものを調べながら読んだほうがわかりやすいのではないかと思った。

結局、最初の方の、脳を理解するための適切な言語をみつけることが必要なことや、脳は解釈学的に議論することも必要という部分が少しわかったような気がするが、他の部分はほとんど良くわからず、字面だけを追っている感じだった。

哲学の本とかで、なにをいっているのかわからない本はときどきあるけど、理系の一般向けの本で、イメージすらつかめなかった本はあまりないと思った。

ダイナミックな機構のなかで情報を保持していくといった、カオス的脳解釈というのは、興味深いのだが、イメージもつかめず残念だった。

2009年2月16日月曜日

暴走する脳科学を読んだ

河野哲也著暴走する脳科学 (光文社新書)(2008.11発行)を読んだ。
副題に、哲学・倫理学からの批判的検討、とあり、脳科学者ではない哲学者の立場からの検討ということで、そういった違う立場の人のものも読んでみることにした。

内容としては、
哲学は、一般市民が非専門家の立場から、既存の知識や常識に対して正しいのか、役立つのかを問いかける作業、
ということで、問いかけと、それに対する筆者の立場を表明した内容で、6章構成。
1章は続く章の予告も含めたこの本の内容の紹介ともいえ、
脳科学の進展とそれに関連して生じる、脳科学が心の解明につながるのか?、心と脳が同じなのか?、脳を調べ心の状態を読めるのか?、脳のメカニズムと自由意志の関係は?、社会的インパクトや倫理的問題は?といった疑問に答えるものとして、脳科学の応用を含めた最近の進展や社会的状況、リテラシー教育や倫理的問題に触れている。
2章は脳と心の関係について、これまでの考えや、近年注目され普及しつつある、身体性や環境も考慮した「拡張した心」の概念について説明され、3章ではマインドリーディングといった心を読む技術を、4章では心は本質的に社会的であり、研究のための分類が社会的影響を受けること、脳は可塑的で社会的環境に適応する臓器であることを、5章では意識をする前に無意識の活動が先行するというリベットの実験結果が巻き起こした、自由意志の可否から、意志や意図、意思決定などについて、6章では脳科学研究の社会への影響性と倫理性の議論の必要性について、著者の立場からの見解を交え語られている。

拡張した心の概念は、最近の脳科学でも環境との相互作用が言われたり、そもそも外界と自分の境界がどこかなどの議論も聞いたことがあり、より正しく脳や心の機能を捉えるうえでいい概念だとは思った。しかし、そのように広げることで研究が難しくなるだろうから、このような概念からどのように研究の方向性が変わったり知見を得られるのかが気になった。

また、心的機能の分類(ラベリング)が社会的環境に影響されることや、意図的な行為とはなにかとか、意図的行為に決意は不可欠ではなく時間的にも空間的にも幅をもって動機付けられることなどは、とても興味深かった。
意識や意志、意図、決意の瞬間、など、用語が丁寧に使い分けされていて、論理的に話が進められているが、読む私のほうが明確に分け切れていないため、読んでいる間は納得感があるものの、自由意志などの議論について理解しきれない部分も多かった。

ただ、心と意志の問題については、内省的な観点からの議論のようには思えるけど、哲学的な議論のほうが、用語の定義や、意志決定とはなにかなどについての考察が深く、むしろ技術者や科学者のほうが、研究対象自身については詳しいものの、それらの結果からの考察については、用語も感覚的に使用している面が多く、両者の議論の重要性をあらためて思った。

他に、倫理的な検討は必要だと思うし、科学技術リテラシーに関して、関係者がみずから積極的に忠告や示唆を与え、相互に批判もし、一般の注意を喚起する ようにすべきというのもその通りだとは思う。しかし、自分も理系の研究者としてやってきて、無責任かもしれないが、研究者はやはり内容そのものに興味が あって、研究内容やその影響について隠すつもりはなく、むしろ聞かれれば喜んで情報は開示するものの、自ら積極的に相互批判や倫理的検討をするというの は、煩雑な事務処理がどうしても増えてしまうことが予測され、研究することそのもののモチベーションがそがれてしまったり、形だけになってしまいがちなの で、難しいところだと思った。

2009年2月12日木曜日

スルメを見てイカがわかるか!を読んだ。

養老孟司、茂木健一郎、著スルメを見てイカがわかるか! (角川oneテーマ21)(2003.12発行)を読んだ。
このところ、脳や心関係に興味があるので、養老さんと茂木さんの脳とか意識とかに関係した話のようなので、読むことにした。

構成は、おわりにに書かれていたが、養老さんの講演と、茂木さんと養老さんの2回の対談、茂木さんの書き下ろしからなっているそうで、章立てとしては、1章が養老さんの話で、2,3,4章が対談、5章が茂木さんの書き下ろし。
1章では、心や意識、言葉と脳での認識、言葉や情報はその瞬間で停止したもの(タイトルにある、停止したスルメを見てイカのことがわかるのかということに関係)、個性やアイデンティティと強制了解性などの話がされ、そのはなしを受けた感じで、
2章では、意識の働きを言葉の理解や、同一性、強制了解性や、社会や世代間のコミュニケーションに絡めた話を、3章ではイデオロギーや原理主義と都市化や経済成長ということに関して、4章では人間自身も自然の一部として「手入れ」される自然といった思想と、人工と自然を対比アメリカ的な思想の対比や文明のことについて、対談が行われ。
5章では、脳も自然も完全にコントロールするのは本来無理で、あるがままに受け止める必要もあり、手入れという適度であいまいな調整がいいというような話。

この本を読んで、
オリジナルとか個性も他人と共感されない限りそれは排除の対象となることや、
言葉の意味するものの同一性について、本来、他人とまったく同じかわからないというか異なっているはずだのに、共通だという幻想であいまいなまま成り立っていることについて、
考えたり、
共通了解に基づいて強制了解性をもってしまうことや、
楽になろうとすることが、合理化や進歩を生み出しているように思えるけど、その一方で、本来不合理で不確定なものを排除することで都市化が進み、閉塞感が生まれてきているようにも思ったり、
エピソード記憶から意味記憶へ変わっていく仮定そのものも含めて、意識は言語として意識されるし、
脳内の現象だけど、脳だけにとどまらず、環境との関係性なども含めて、無意識レベルの動きも含めて意識ともいえると思ったり、
と、そんなことを考えさせられる本だった。

2009年2月10日火曜日

すばらしい新世界を読んだ。

池澤夏樹著、すばらしい新世界 (中公文庫)(2000.9発行)を読んだ。


このところ読んでいる、池澤夏樹さんの本。先日読んだ「光の指で触れよ」でも触れられていた、主人公たちの数年前の物語ということで、読んでみた。

内容は、1999年から1年間読売新聞に連載された小説で、風力発電の技術者である主人公、林太郎が、環境関連のボランティア組織で働く妻アユミの知り合いからの頼みをきっかけに、ヒマラヤにある村に灌漑用電力をまかなうための小型風力発電を設置し、現地の精霊に引き止められ、小学生の息子が迎えにきて、最後には知り合ったチベット人から頼まれたことなどをして帰ってくるという話。

長編小説で、最後の1/3くらいで、精霊に引き止められて家族が迎えに来ないと帰れなくなってしまったり、埋蔵経を運ぶことになったりと、話が急展開するところは不自然な感じだし、小説としても中途半端な感じもした。連載物をまとめたからとも思うけど。

作家が主人公を創造して、物語をつむぎだすという作家の独白とも言える部分や、主人公同士がやりとりするメールを通して、主人公たちの考えなどが描かれる場面があり、小説とはい え、少し離れた位置から、現在の先進国と呼ばれる日本の現状や、チベットの小さな国の人々の考え、それらに対する著者?の考えが語られている感じ。

いまでこそ、金融危機でアメリカ型というか市場原理とグローバル主義が反省されはじめているように思うけど、この本が書かれた99から2000年はグローバル化が伸展し、疑問に思うことが、なんとなく時代に取り残された古臭いものとされてしまいがちだったように思う。
ブータンのような、住む人の幸せを目指すのがいいことだとは思うけど、田舎暮らしがいいと思うような感覚で、チベットなど自然とともに生きるのがいいと思ってしまうが、ことはそう簡単じゃないだろうし、自然の中で生きるのは、ときとして猛威にさらされたり、予期せぬことや不条理なことに巻き込まれることでもあるから、それを制御している今の便利さや快適さはなかなか捨てられない。でも、今の先進国というか、日本のどことなく不安感につつまれ、便利だけどなんか幸せを感じられない環境も、もともとは快適な生活など幸せを求めた結果なのに、なぜ、こんな閉塞感につつまれた感じがするのだろうとか、そんなことを考えてしまう物語だった。

2009年2月9日月曜日

元永定正展を観てきた

先日、Bunkamuraザ・ミュージアムに行った後、新宿の損保ジャパン東郷青児美術館で、2/22まで行われている、元永定正展を観に行ってきた。

チラシやWebを見た感じだと、色彩にあふれた抽象画のようなので、気になっていたので、観に行ってきた。
2006年の損保ジャパン東郷青児美術館大賞受賞記念として、開催されていて、受賞作「いろ いきてる!」をはじめとして、初期の大画面に絵具をたたきつけたような抽象画から、イラストの図案のようなもの、それらを組みあわせたようなものなど、約60点が展示されていた。

初期の抽象画は、絵具の厚さやざらつき感のある、前衛的?な抽象画で、わりといい感じのものだった。
その後の作品も、絵本など小さい作品もあるが、大画面に幾何学的な図柄に光が当たって、CGでグラデーションをつけたような感じの作品や、絵具が流れることで画面に動きがあるようなものなど、綺麗な感じの作品が多かった。

当初漫画家を目指して、洋画家に転向した方で、絵本の作家とも知られているそうです。
そのためか、どことなく温かみと面白みを感じさせるイラストのような絵やタイトル付けがされているように思った。

この作家のことは知らなかったけど、まとめてみることができ、入場料も500円と良心的で良かった。

2009年2月6日金曜日

展覧会、ピカソとクレーの生きた時代 を観てきた。

先日、Bunkamuraザ・ミュージアムで、3/22まで開催されている、「20世紀のはじまり、ピカソとクレーの生きた時代」を観てきた。

この時代の抽象画が出現したころの平面作品が好きなので、楽しみにしていた展覧会。

この展覧会は、ドイツにある、ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館が改修工事で休館する機会に、そのコレクションを借り受けた展覧会。
その州立美術館については、初めて知ったのだけど、近代美術コレクションのその質の高さと、ピカソとクレーのコレクションで知られているそうです。

展示構成は、マティスやブラック、シャガールなどの、20世紀初頭の表現主義的傾向から始まり、ピカソを中心に、ブラック、ファン・グリスのキュビズム的傾向、マグリット、イヴ・タンギュー、エルンストからミロまでのシュールレアリスム的傾向、カンディンスキーとクレーの展開という4章構成。


ピカソもキュビズム的なものから、ボリューム感のある人物、多方面の視点をいれた肖像画など、ピカソらしいものが展示されていたし、
クレーは今回の展示の中心にもなっていて、キュビズム的なものから、スプレーで描かれてやわらかいイメージのもの、点描調のもの、太線の記号のようなものや、晩年の簡素な線描まで、クレーらしさのある作品が展示されていて、良かった。

全体の作品点数自体は60に満たず、クレーの小品が占める割合も多いことから、やや少ない感じもしたけど、どれも、見ごたえのある質の高い作品が多く、エルンストやイブ・タンギュー、カンディンスキーなど、私の好きな作家の作品で、初めてみたものもあって良かった。

2009年2月5日木曜日

ブリジストン美術館にコレクション展を観てきた。

先日、パソナO2の地下植物工場?を観に行くことにしたので、近くのブリジストン美術館に行ってきた。

1/24-4/12までは、ブリジストン美術館のコレクションから、「名画と出会う 印象派から抽象絵画まで」と題して展示が行われている。

この美術館は昨年の今頃に現代美術よりの展覧会を、昨年の秋には今回とほぼ同じ印象派から抽象絵画までのコレクション展を観に行っている。そのため、展示位置も含めて見覚えのあるものも多かったが、コロー、クールベ、シスレーから、モネ、ルノワールなどの印象派、セザンヌ、ゴーギャン、ボナールから、マティス、デュフィ、ルオーやモディリアーニ、それに、ピカソ、クレー、からキリコ、レジェ、ジャン・フォートリエ、菅井汲、ピエール・スーラージュや、白髪一雄、斉藤義重といった、近代から現代のいい作品が多いので、見飽きないというか見ごたえがあっていい。

特に私の好きな抽象絵画は、その大きさや画の質感なども含めて、いろいろなイメージを感じるものが多いので、今回も、ザオ・ウーキーやエミリー・ウングワレーの絵などを見ることができてよかった。

2009年2月4日水曜日

パソナO2に行ってきた。

先日、最近、水耕栽培や農業に少し関心があるのでパソナO2に行ってきた

ビルの地下2Fに6つほどの栽培ルームがあって、3つずつつながって大きく分けると2箇所に区分されていて、その間にカフェのような休憩所というフロアになっていた。

花畑となっている部屋ではいろいろな観葉植物などが栽培されていて、部屋に入ったとたん、空気が違った。(温湿管理のためが大きいと思うけど)
バラ・ハーブ園となっている部屋は、入った瞬間ハーブの香りなどで空気が違っていた(ハーブの香りとはいえ、いろいろな種類のものが混じっているためか、すがすがしいというものではなかったけど)。
他にトマトの部屋や稲穂を育てている部屋、野菜の部屋にサラダ菜などを栽培している部屋があって、サラダ菜などのベビーリーフはカフェのような感じの休憩所で試食できるようになっていた。

観葉植物は室内で育つ植物も多いし、特に印象に残るようなこともなかった。植物の光合成と形態形成では必要な波長領域が異なるのを示すために、赤・青・緑のLEDでイタリアンパセリを育てている例があって、大きさが違っていたりしたけど、あまり明確ではなく、情報提供に過ぎない感じだった。
ハーブはそもそも、育てやすいだろうから、地下で育てるのには向いているような気もした。
トマトはそれなりに立派に育っていたけど、実の付き具合は少ない感じで、光量不足なのではないかと思った。
野菜畑は、いろいろ植えてあり、それなりに育っているみたいだったけど、あまり印象に残るようなものはなかった。
サラダ菜の栽培は、植物工場らしい感じだったけど、ネットや本で見聞きした水耕栽培の様子から想像したものと変わらず、あまり驚くようなこともなく、むしろ、蛍光灯で栽培しているし、サラダ菜などはスーパーなどでも既に良く売っているわけだし、確立した栽培を単に小規模にやっているようにしかみえなかった。

他にパソナの取り組みとして、農業経営支援セミナーのようなものの開催などの説明もあったけど、パソナ自身が農業に乗り出すというわけではなく、都会の人が農業を考えるきっかけになったり、農業への関心を高めるためのショールーム的な位置づけだそうです。

以前、報道などで見聞きしたときは、都会 のこのような場所でも農業ができ、空調や水質を管理して農薬などを用いない安全な栽培が可能となる、新しい農業の可能性を提案していたように思っていたけど、パソナ自身が新しい農業の拡充に力を入れているのかと思っていたので、少し印象が違った。

2009年2月2日月曜日

ジム ランビー 展を観てきた。

先日、原美術館で、3/29まで行われている展示、「ジム ランビー アンノウンプレジャーズ」を観てきた。

品川に用事があったので、久しぶりに原美術館に行ってみようと思っていったので、この作家のことはなにも知らなかったけど、床全体にテービングを行って幾何学的なパターンで独特の空間を作るのが特徴らしいです。

チラシなどでは、カラフルなテーピングの様子が写っていたけど、今回の展示では、白黒のラインで床面が埋め尽くされていて、ところどころに、レコードを箱に整理したような四角いキューブ状のものが傾いて転がっていて、独特の空間の中に、ありふれたものがあったりして、それがアンノウン プレジャーズ(未知の快楽)を感じさせるのだそうだけど、なんだかよくわからなかった。
部屋ごとに、写真に花とかを添えたものが壁にかかっていたり、少し開いたドアがあったり、椅子を多数組み合わせたオブジェが部屋の中央にあったり、枕の巨大なのが赤く塗られて絵具が下に流れているようなもの階段にかかっていたりしていた。
他には、常設なのだと思うけど、森村泰昌、宮島達男、奈良美智のそれぞれ部屋全体を使ったものがあった。

原美術館は邸宅を現代美術館にしたこともあって、元は邸宅なので、広い家に招かれて美術品を展示している部屋を見るような感じもあって、その邸宅が幾何学模様の床で埋め尽くされ、奇妙な感覚を感じを覚える展覧会となっていた。
ただ、美術館はそれほど大きくはないことから、観るものとしてはそれほどなく、入場料が1000円なのはちょっと高い感じもしてしまう。
ただ、カフェも利用して、原美術館の雰囲気を含め、独特の空間を楽しむにはいい感じだし、現代美術は体験することが重要なんだろうから、そういう点ではインパクトもあるようにも思った。