2008年8月28日木曜日

エモーショナル・ドローイング、壁と大地の際で、を見てきた

近代美術館に、現代美術への視点6 エモーショナル・ドローイング展を見に行ってきた。

今日は天気も悪く、おとといから始まったばかりなのと、奈良美智といった著名な作家の作品はあるものの、現代アートの範疇の展示で、あまり一般的でないからか、ガラガラでゆっくりみることができた。他の展示もがらがらだった。

レイコイケムラの絵はぼやっとしたというか、にじみでかかれたような顔の絵や、もやもやっとした感じのものが多く、顔がへんなところにあったりだし、奈良美智のドローイングは、封筒の裏や、切れ端のようなものに書いた小品が多く展示されていたり、奈良美智の世界の家が造られていたりで、かなりまとまって作品をみることができるが、最近の絵はまだ、動きというか、なにか言いたげな子供といった感じで、独特の印象を受けるけど、初期の頃?(展示中に年号が入っていたので勝手に製作時期だと思っただけかもしれない)のものは、どうもただのいたずら書きにしかみえない。他のビデオアートやアニメーションもなんだか良くわからない。
とはいうものの、辻直之の2作品はじっくりみて、なんていうか、昔(80年代くらい)のヨーロッパのほうのアニメーションであったような感じもするアニメーションだった。

このような「きもかわいい」系のアートは、理解できないというか、あまりみていて楽しいというか感動するような、なにか引かれるものがあまりない。
けれど、最近の動向とかや、なにがいいのかが気になるので、こういったまとまった展覧会があると見に行ってしまうのだけど、、、

そんな感じで、全般的に良くわからないというか、惹きつけられるようなものや、見ていて楽しいというか見入ってしまうような作品はなかったのだけど、今回の展示の中で気に入ったのは、キム・ジュンウクの作品とアディティ・シンの作品。
キム・ジュンウクは、キモかわいい感じというかかなり不気味な人形のような女の子のようなものを描いていて、今回の展示のなかでは、具体的だったからかもしれない。
アディティ・シンの作品の、鳥が小さく描かれているものはよくわからなかったけど、白黒の花というには不思議な感じの絵が何か引かれるものを感じた。(これも今回の作品のなかでは、従来の抽象絵画っぽいからかもしれない。)



他に、「壁と大地の際で」、と題して、所蔵作品を中心とした30点ほどの展示も行っていた。
平面作品を、壁、大地、という観点から読み解くことを意図した展示。
垂直な壁と水平な大地、第3の平面としての平面美術作品、絵画は窓としての垂直な面から、地面など水平な面となったり、地面が立ち上がることで水平から垂直へ展開することや、いろいろなものを平面に移しこむことなど、平面というものを改めて考える展示だった。
佐伯祐三の作品や、白髪一雄、ジャン・デュビュッフェ、荒川修作、とかなりいろいろな作家が展示されていて、企画展よりこちらのほうが、私的には惹きつけられる絵の多かった。
デュビュッフェ「草の茂る壁際」や高橋秀「月の道」はどちらも、石切場やむき出しの地面や地層の断面のような遺跡のような感じでなんだかひきつけられ、横山操の「ウォール街」はそそり立つビルに圧倒されるような感じがして、見ごたえのある作品だった。

今回の企画展はどうも理解できなかったものの、現代アートの若手の作品を見られ、入場料も安めだったのと、時間があったので他の展示や所蔵コレクション展を見ることができたから良かった。

2008年8月26日火曜日

ゲーム脳の恐怖

だいぶ前に騒がれた、ゲームをしすぎるとキレやすくなるとか、記憶力や脳の機能が悪くなるとかの議論を巻き起こした本。

脳関係の知見に加えて、それらしいデータと理屈付けがされているので、ゲームをすると人格形成に大変な問題が生じるのが明確な事実のように思える。
しかし、内容にはかなり疑問があり、サンプルとしての学生の数など不明で結果を議論するような試験となっているかわからないし、試験方法の正しさがそもそも明確になっていない。さらに、ゲーム脳の根拠として、ゲームをすると脳が活動的なときに出るベータ波が減って、アルファ波とベータ波の比率が痴呆の人と同じになり、小さい頃からゲームを多くやっていた人は普段もベータ波が少ないから、前頭前野をあまり使わないゲーム脳となり痴呆のように記憶力や感情が減るというのは、一見それらしいけど、根拠が不十分で議論がおかしい。以前は集中したときやリラックスしたときにアルファ波が強く出るとかでアルファ波がでる音楽とか集中法なんかがあったと思うけど、この本に従うと、物事に集中したりリラックスすると痴呆にちかづき記憶力や理性的な判断力も落ちてしまうことになってしまう。
この本の根幹ともいえる脳活動の測定と判定方法が疑問な上、著者も特に脳波の専門家でも医学部の教授でもないようで、ゲームをやったからといってゲーム脳などと分類されるような前頭前野の活動低下とそれが人格や記憶力に大きな影響を与えるという根拠は不明確なよう。

ただ、なんとなく、ゲームばかりやっていると、脳の発育に良くないような気がするし、子供の頃には5感をフルにつかって活動的に育つほうが良いような気はするので、ゲーム脳のようなことが起きる可能性があるかもしれないっていう感じがするあたりに、こういう本が話題になるのはわかるような気がした。

2008年8月25日月曜日

永遠の旅行者

経済小説「永遠の旅行者 上・下」を読んだ。

Perpetual Traveler(PT,永遠の旅行者)とは、どこにも定住地を持たずに、旅行した状態を続けることで、住民票を除き税金を合法的に払わないという(各国の法の変更などによって、税金の問題は変わるが、、、)生き方で、この小説では、弁護士をやめPTをしながら生活する主人公が、引き受けた遺産相続に関する依頼を遂行するなかで遭遇する出来事を、贈与税や相続税、海外や国内、個人や法人などの資金の流れや課税方法などを交えてミステリー調に書かれている。

著者の橘玲は、経済というか税金や社会保障費などの国と個人の金の流れのあまり表立っては言われていない歪や、それを利用した儲けの可能性、合法で情報不足から損をしないようにする資金の蓄え方などについて、一般向け投資本やフィクションの形にした経済小説を書いている。以前、「お金持ちになれる黄金の羽の拾い方」を読んだことがあり、税金の知識や情報収集力の差が資金を増やす上で大きいことなどが書かれていて面白かったので、小説にも興味がわいたので読んでみた。

この小説は、経済や法律を駆使した物語や経済知識を得る取っ掛かりとして考えると、ミステリー調のストーリーにハワイや伊豆、ニューヨークなどの生活環境や雰囲気がわかるし、経済用語が多く出きて、オフショア市場やタックスヘイブンを利用した税務上のテクニックなどが、詳細に書かれており、課税や節税はこのように考えるのかと勉強になるように思う。(あくまでもフィクションで金融機関は基本的に架空、内容はあくまで創造上のもので、コメントも私的見解との但し書きはあるが、、、)最も、私の場合税金対策の効果があるほどの資産があるわけではないのだが、、、

ただ、小説として考えると、上下2冊にわたる大作となっていて、風景や状況説明が丁寧といえば丁寧なのだが、冗長な感じで、そんなところの描写はどうでもいいから早く物語をすすめてほしいと読みながら感じるところが多かった。特に第1章は登場人物やその背景の書き込みをしているのわわかるけど、長すぎて少し飽きてしまう感じだった。
ストーリーとしては、遺産を税金を払うことなく孫娘に相続させたいという依頼が舞い込み、その依頼者の息子と孫娘は外国へ行方をくらましたのち孫娘だけを依頼者が連れ帰って息子の死亡宣言をしていたり、依頼者は病気で入院していて、その娘は精神が崩壊しかけて閉じこもっているし、さらに死亡宣言された夫は多額の借金を抱えて行方をくらましていたり、その不良債権をめぐって暗躍する人がいるなど、様々な登場人物がでてくる。また、娘がさらわれたり、借金や娘の父などをめぐって隠された謎がでてくる。さらには、ニーチェのツァラトゥストラはかく語りきを引用したり、ストーリー展開をいろいろと工夫している感じもするけど、このところ、続けて読んでいた小説と比べると、丁寧な描写だが説明書を読むようで、感情をゆさぶるというか、引き込まれるようなすごさや面白さは少し足りないと思った。

とはいえ、このようなPTとして時々都市によりながら、南の島や海などを渡り歩くような生活が、丁寧に書き込まれていて、このような生活ができたらいいと思った。最も、一人でずっとふらふらしてると老後が心配。PTできるようならお金もあって老後も安心かもしれないけど、、、

2008年8月22日金曜日

東京国立博物館

木曜日に、フェルメール展を見た後、時間があったので東博に平常展示を見に行ってきた。平常展とはいっても、特集陳列のひとつに「六波羅蜜寺の仏像」があったので、見たいと思っていたので丁度よかった。

東博は、薬師寺展や対決巨匠たちの・・・展などの特別展で行ったけど、それだけで時間がかかるし、大抵混んでて疲れてしまって、企画展が行われる平成館の、それも特別展示室にしか行かずに終わってしまうけど、考古展示室もあるし、敷地内には、本館や東洋館、法隆寺宝物館などもあって、見所はたくさんある。

表慶館以外の建物は、常設展示があるので中に入れ、最初に東洋館に入った。
こちらは、東洋といっても、インド・ガンダーラの彫刻や西アジア地方からエジプトの考古美術まで展示してある。
入ってすぐのところにある、インド・ガンダーラ彫刻は、仏頭や如来像、菩薩像などもあったが、パキスタンとかアフガニスタンのほうの仏像は、顔つきが目鼻立ちがすっとしていて、西洋人っぽい顔つきで、仏像の顔もいろいろだと思った。
階段をのぼってエジプトなどの考古美術が展示されている部屋に移動すると、入った正面にミイラが、棺が開かれて状態で置かれていて、ガラスケース越しだけどミイラが見えるようになっていて、グロテスクで驚いた。他にも、エジプトや西アジア、東南アジアの考古美術品から、クメール時代やアンコール時代の金属器や彫刻、最近のものではバティック染めなどもあり、他にも、中国の考古遺物から、陶器や漆、朝鮮の彫刻など、多くの部屋に様々な物が展示されていて、広く、アジア地域の考古学的な出土品から美術品や工芸品を興味深く見た。
また、東洋館はつくりとしては3階だてのようだけど、途中に階段で少し上ると別の展示室となっていて、少しずつ上ると部屋があるような感じの立体的な部屋構成で、建物としても内部構造が変わっているように思った。

次に本館に移動したところ、「六波羅蜜寺の仏像」(これは、本館に垂れ幕とかかかっていて企画展のような目立ち方をしていた。)以外にも、「仏像の道 インドから日本へ」とか、「二体の大日如来像と運慶様の彫刻」などの特集陳列が行われていた。
東洋館をのんびりみていたら、4時過ぎになってしまったため、特集陳列を先に見ることにした。
「六波羅蜜寺の仏像」は宣伝(垂れ幕など)に乗っている地蔵菩薩立像は、私の持っている日本の仏像のイメージに相応しい、落ち着いた静かな感じでいて、居並ぶ仏像の中でも印象深いものだった。この地蔵菩薩像は左手に宝瓶ではなくて髪の毛の束を持っていて、右手も何も持たず印を結んでいるところが特徴的ならしいです。髪の毛はちょっと気持ち悪いですが、、、
他に、運慶とその息子の像もなかなか写実的で良い像だったし、運慶の地蔵菩薩坐像(これは、先日までの企画展の運慶・快慶対決で展示されていたものと同じよう)などもあった。他の特集陳列の「仏像の道 インドから日本へ」には、インドから日本へ仏教が伝わっていき、各地で造られた仏像が展示されていた。パキスタンや中国西域?の仏像があって、これは、東洋館でみた西洋人っぽい顔をした仏像で、中国の仏像にもいろろあるんだと思った。最も日本の仏像も顔つきがいろいろあるが、、、また、模造だけど、薬師寺の聖観音菩薩立像があって、薬師寺展のときみたものを思い出した。

博物館の平常展を見たのは、たしか、学生の時以来なので、もう15年以上前になるから、本館、東洋館とも入ったことがあるような気もするけど、本館は少し記憶にあるが東洋館まったく覚えがなく、さらに展示品については、見たことのあるものもあるんだろうけど、ここでみたという記憶はなく、どれも初めて見るような感じで、楽しかった。

東洋館では、考古遺物の年代などを見て、紀元前5~4千年頃の打製石器はまあ、サルのような動物状態だった人間が何かの拍子に石でものを砕いたり、動物を倒したりして、さらに割れた部分で肉を裂いたりすると便利なのを知って、そんなことをするように進化していったというのは、まあ、ありそうな感じがするけど、そういった状態から、千年程度あとの前4千年ごろには土器とかを使っていて、しかも、そこに飾りつけをしたり、持ちやすいようにとってをつけたりしているし、前3~2千年頃には、土偶や人形を作るなどの文化を持っているのがとても不思議な感じがした。今の時代、サルとかが道具を使ったりするとか、オランウータンは3歳児程度の知能を持つとかってニュースがあるけど、ああいった動物が1世代を10年として、数百世代ぐらい生まれ変わったところで、人形を作ったりするような文化まで形成するとはイメージしにくくて、そんな勢いで進化していったのが不思議。なんというか、今の人間と数千年前の人間の間にそれほどの差を感じないけど、そこからさらに数千年前とでは、人種としてというか知能レベルというか外界の認識や考える能力において大きな溝があるように思える。

都美術館のフェルメール展とは異なり、企画展をやっていないため、夏休みシーズンとはいえ平日なので、展示室は閑散としていてゆっくり見られた分、最初に東洋館からじっくりみたため、本館の半分以上と平成館と法隆寺宝物館は見る時間がなかったので、また今度行ってこようと思う。

2008年8月21日木曜日

フェルメール展を見てきた。

都美術館で開催されている、「フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち」を見てきた。
フェルメールは、光の天才画家とあるように、光が窓から差し込むような絵が多く、光の扱いがたくみで、評価の高い17世紀のオランダの画家。今回の展示は、数少ないフェルメールの作品のから、7点も展示され、他に同じ頃活躍して互いに影響を与え合ったと思われ、デルフトにゆかりあるというか、デルフトスタイルといわれる画風の巨匠たちの作品を展示した展覧会。

なにしろ、フェルメールはフェルメール作とされているものが30数点ほどしかなく、贋作とされるものも時々ニュースになるし、昨年はわずか1点だけで、企画展のタイトルが「フェルメール『牛乳を注ぐ女』とオランダ風俗画展」となってしまう展覧会を国立新美術館が開いてしまうぐらい(まるで、”モナリザ展”のような1品を見るために大勢集めてしまうような展覧会)だから、今回7点も展示されるのは、確かにめったにない機会だとは思う。
なので、私も美術検定を受けようと思い始めたところでもあるから、あまり、好きな分野というわけではない(決してきらいというわけではないけど、違いがよくわからないのであまりみていて楽しくない感じ)が、見に行ってきた。

フェルメールの絵については、印刷物やポストカードで見ると明暗や色彩が少し濃い目になっているが、実物は、比較的、色が薄いというか淡くて柔らかな風合いを感じさせ、確かにいい絵だと思った。
解説などで言われるように、窓から差し込む光が建物の中の人や物、床に作る明かりや陰がとても自然で、全体にわたって丁寧に描かれているし、日常のある風景のような場面ではあるものの、そこには物語性を暗示するようなものが描かれていたり、いわゆる絵を読み解くという時の要素が配置されているし、少し離れてみたときの全体のバランスもいいというか、不自然なところがなく、色合いも多少淡いけど、それも建物内の空気感を感じさせ、色がきつかったりしないので、目にした時にいい感じだと思う。
ただ、このように日常を自然にうまく描く画家というのはフェルメールだけに限らないように思う。そうは言うものの、他の作家があまり思いつかないのでやはりすばらしいのかもしれないけど、私があまり知らないだけで、同じようなうまい絵はあるのではないかと思う。

絵を書く人は日常的に常に絵を描いていて、そのなかから、独自のスタイルがあったり、いくつか出来のいい作品が認められて世にでていくのだと思うから、30数点しか残っていない評価の高い画家というのは良くわからないというか、それほど、フェルメールの絵が他と違って見るものの心を打つというか、評価が高いのが良くわからない。少ないからこそ有名なような気がしてしまう。最近フェルメールのだと認められたようなものもあることから、もともとは多数の絵があったのに、なくなってしまったのかもしれないから、今ある絵だけで、評価が決まったわけではないのかもしれないけど、、、、

フェルメール以外のデルフト・スタイルの画家ということで、私は知らない名前ばかりだったけど、デ・ウィットの「ヴァージナルを弾く女」は、以前英語の勉強をしようと思って買った、英語のテキスト、The Universe of English のなかで、絵の鑑賞方法だったかそういったテーマの文章で出てきた絵で、この手の絵はそういう風に物語を考えながら見るのかとか思った覚えがあって、本物をここで見にするとは思わなかった。(勘違いしているかもしれないけど、多分この絵だったと思う)

デルフト・スタイルは、それまで、貴族の壁を飾るための、宗教画などから、建物や日常の家庭などを主題として、透視法や空気遠近法を駆使した遠近感のある絵を描いていることが特徴らしく、今回、ほぼ同じところを別の時期に書いた作品を並べて展示していたり、同じ建物の中を描いた違う作家の作品や、さらには、最近撮影した写真などとの比較もあって、見たままに描いたものや、絵としてのバランスを考え柱の配置や感覚を変えて描いたものなどが並んでいて、少し興味深かった。



まあ、フェルメールは作品数が少ないのに関連する本は多くて、解説や評論家の話とかを読むと、光の取り扱いがたくみで、見るものに静かな感動を与えるとか、謎解きがどうこうとか、光の当たった衣の襞の様子かどうこうとか、たくさん解説されている評価の高い画家なので、見る価値はあるかなって感じ。

2008年8月17日日曜日

スティル・ライフ

第98回(1987年下期)芥川賞受賞作である「スティル・ライフ」を読んだ。
内容は、主人公がバイト先の工場で、どこかつかみどころのない佐々井と知り合い、システマティックな株の売買を、表向き主人公が行う形で手伝う3ヶ月の間に交わされる会話や主人公の空想によって、独特の世界がつむがれたもの。
読後感としては、本文中にも、世界がどこかに上昇していくようなイメージや、「高い軌道のうえから自分たちを見ていたみたい」とか、「別の星から送り込まれた」、といったような表現に引きづられたわけではないと思うが、静かに離れたところから世界を見るような、独特の感覚が表現されているように感じた。この静かに観察するような感じが、タイトルのスティル・ライフ、訳すと静物?にあらわされているのだろうか?
この感じは別の言い方をすると、上からというか離れたところから物事を理知的にみるというか、理系的(理系、文系とかって分け方はあまり好きではないでけど、、、)なというか、どこか突き放したような感じで、静かに美しく広がり進行する世界が語られているイメージ。
読み手が引き込まれていくような激しさとは違って、静かに迫ってくる感じで、一緒に収められている、ヤー・チャイカにも共通しているように思え、作者の持つ世界観や文章表現によるものと思うが、この感じは私好みだと思った。
このところ、芥川賞って、特定の型にはまるものではないものの、こんな印象を与えるものだったっけ?という感じがしたけど、この作品は受賞作品にふさわしい感じがした。とはいうものの、この作品はすでに20年以上前のものになるから、最近の賞の傾向というか、文学の方向性についていけてないというか、理解できていないだけなのかもしれないと思ったりしてしまう。

2008年8月16日土曜日

ハリガネムシ

第129回(2003年上半期)芥川賞受賞作、ハリガネムシを読んだ。
主人公は、どうでもいいようなソープ嬢と関わって、だんだん破壊的な暴力行為に目覚め、一方、暴力行為に巻き込まれ、堕ちていくような話。
どうも、最近は精神が弱っているのか、暴力的な部分を読むと痛々しくてつらいところがあって、その部分の印象が強くなってしまって、ストーリ全体のイメージが薄まってしまう。
ソープ嬢やヤクザが属する破滅的な暴力的世界へ直接入っていくような作品ではないが、主人公の内なる乱暴な気持ちがソープ嬢との関わりのなかで明確になっていく一方、主人公は高校の倫理の先生であったり、高校では以前にリンチ事件をもみ消していたり、最近のリンチ事件の生徒指導をしていたりで、表向きの正義と内に秘めた悪との対応であったり、正義の表面的な部分などを揶揄しようとしているような気もするけど、今ひとつ明快さというか、訴えるものが少ないように思った。
蛇にピアスを除くと、このところ、さらっとした淡白な感じの小説を多く読んでいたせいかもしれないけど、話の展開がうまくつながらないっていうか、つながらなくても妄想シーンが広がったりして、読んでてイメージが膨らむようならいいんだけど、どうも読んでいる流れが止まるというか痞えてしまうような感じで、話のつながりが悪い感じがした。
それでも、人間の内に秘められた暴力の表れや、暴力的行為への傍観ー参加、加害者ー被害者など変化して展開し、人の内面の変化や、激しい描写など、なんていうか、私の持っている芥川賞のイメージに当てはまる作品だった。

2008年8月14日木曜日

脳と創造性

脳と創造性「この私」というクオリアへ、を読んだ。
ここ数年というか、もう少し前からかもしれないけど、いろいろな番組や対談などで、見かけるようになった茂木さんの本。

内容は、コンピュータやITが発達した今、人間の創造性はこれまでにないくらい重要なものとなっている、創造性というのは、一握りの天才がすばらしいものを生み出す能力として捉えるのではなく、生物として人間が発展してきた過程で生成、獲得してきた能力であり、日々の会話も非常に創造的な現象であって、創造性は誰でも持っている能力である。しかし、創造性の現れ方は様々であるのに、社会的な文脈に落とし込んでしまうことで、天才などに限られたものと認識されてしまっている。脳科学などの最新の知見を参考に創造性というものを捉えなおし、常に変化し新しいものを生み出している創造的な脳も、進化というか自己組織化といった自然界の傾向の上で存在していて、創造性も脳も特別なものと捉えるのではなく、誰もが脳を使って創造していて、創造的に生きることが良く生きることにつながる。というようなことが1章までに書かれていて、この本の主題のよう。以降の章では、コンピュータのような予定調和的な論理的推論とは脳の働きは大きく異なり、ある特定状況からの逸脱とも言える直感や、不確実で複雑な状況を限られた知識や状況データから決断する際の感情システムの役割、外部や他者との関わりの必要性、苦しみや悲しみから破綻の淵、退屈な状況、といったさまざまな状況と脳の認識と創造性との関連、いろいろな現象をリアルなものとして感じるクオリアをその時代や背景といった三人称的文脈でなく、一人称的文脈でとらえることの重要性、つかず離れずの外界との関わりが、ノイズや偶然の外界からの刺激を脳内のダイナミズムに適度に取り入れられ、創造的なものを生み出す契機となること、など、創造性と脳のかかわりやそのような脳ができてきた、自己組織化という自然の特性について語られている。

茂木さんは脳科学者の立場から本を多く書かれていて、少し興味はあったものの、なんか、テレビとか雑誌に良く出てくるような人は、大衆におもねっているような感じがして、これまで読もうとはしていなかったのだけど、最近時間的余裕があって、本を良く読むようになったのと、認識することや脳の働きに興味があって脳科学関係の本を読み出したのと、絵をみることとか美術鑑賞についての本とか読むうちに、美術鑑賞することを創造的行為としてとらえると、脳で認識するということ、特に感覚系から入って言語化されて意識で認識される過程にいたるまでの、無意識レベルの重要性などに興味が沸いてきたこともあって、先日の横浜美術館所蔵作品からの企画展の選者の一人であったり、脳と見ることや創造性に関する比較的一般向けの本を探すと茂木さんの本が多く、図書館でみかけたので借りて読んでみた。わりと読みやすく、感情が進化の過程で残った制御されるべきものや、選択の際の要素のひとつではなく、決断や判断といった脳の高次システムに強く関わっているという最近の脳科学の知見なども散見され、それなりに面白かったが、一般的な話に抑えられているため、少し物足りなかった。


2008年8月13日水曜日

蛇にピアス

第130回2003年下半期芥川賞受賞作である、蛇にピアスを読んだ。
いきなり、スプリットタンや身体改造などの言葉や、舌のピアス、拡張とかって、もう痛々しいイメージが突き刺さって、気持ち悪いというか痛い印象を引きずってしまう。
スプリットタンの蛇のような舌を持つマッドな男と、その舌に引かれスプリットタンに惹かれ、刺青も入れてしまう女、顔中にピアスをした人を殺すのに快感を覚えるようなサディスティックな男など、破滅的で危険な性格の若い男女の世界。それでいて、相手を守ろうとするようなある意味まっすぐな感じや、単純なあどけなさというか無邪気さも感じるようなやり取りがあるような本。ただ、痛かったり危ない印象が強くて、この手の内容の本はイメージが先行してしまい、本の中とはいえ、私の日常にはない世界で危なくて、弱い私には、あまり近寄れない世界。

2008年8月11日月曜日

中陰の花

このところ、続けて読んでいる芥川賞受賞作、今回は「中陰の花」(第125回、2001年上期受賞作)を読んだ。
作家の玄侑宗久については、雑誌などに載せられたエッセイというか対談のようなものは、時々読んでいて、心の時代とかって叫ばれる、現代における宗教の位置づけというか、問題や悩みに対する向き合い方のような話だったと思うけど、仏門の立場にいながら積極的にメディアへかかわっているように見えて、寺などでの説話をするだけでなく、小説が芥川賞を受賞しているということから興味深く、今度読んでみようと思いながら、これまで、小説を読んだことがなかった。
この作品も、主人公は地方の寺の住職で、不思議な力を持つウメさんの亡くなる少し前から葬儀や四十九日の法要の頃に、ウメさんに関することや近所の人の不思議な宗教的とも言える経験の話や、住職夫婦が感じた不思議な体験と水子への供養などが絡まって、死んでからどうなるといったことを、住職自身死んだことないしわからないとか、そのようなことを聞かれた場合は相手次第で説明しているとはいいながらも、光が見えたりといった宗教的ともいえる体験や死後や成仏ということが、取り扱われている作品。すべてにつながったり光や音が聞こえたりする人の話なども織り交ぜられているが、虫の知らせのような夢見や、のっかられるといった体が重くなる現象を主人公の住職自身が体験しながら、それが、ウメさんとの関係が思い当たるフシとしてあるが、関係性が良くわからなかったりで、不思議な体験といっても、実際にもたまたまという感じで、ありそうな出来事でもあり、様々な出来事が強引に結びつけられることもなく、現実的な範囲に近づけられていて、死後とか成仏とかいったことが、理解はできないけど、なんとなく納得しやすい形になっていると思った。
題名にある中陰というのも仏教用語で、死後、魂がまだあの世に行かず、途中にある状態のことだそうで、ほかにも仏教用語がでてきて、よくイメージがつかめないところもある。かといって、難しくて読みにくい話というわけではなく、小説として読みやすい。
特に仏教の用語での極微や空が素粒子やエネルギーとして捉えられる説や、極楽浄土までの距離を49日で行くにはちょうど光の速度になる話などは、たまたまというか、そのように設定したのではないかっていう気もするけど、あまりに理由もなくただ不思議なことを理解しろというのは現代的でないこともあって、面白いと思った。
ただ、エッセイとか対談などを読んで、現代における心のおき方などのような仏教で、いろいろな考えなどを期待すると少し物足りない感じがするかもしれない。

2008年8月9日土曜日

対決 巨匠たちの日本美術展(別サイトに記録したものと同じ)

先月から行く機会をどうも逃していた、対決 巨匠たちの日本美術展を昨日見に行ってきた。朝から陽射しも強くて、夏休みに入っている人も多く、ものすごい人で入場待ちとかするようだったらどうしようとか思っていたけど、人が多く混んではいたものの、入るまでに並んで待つようなこともなく、薬師寺展のときに比べると楽に入ることができたのでよかった。

展示内容は、ネットやチラシなどにあるように、日本美術史の中で巨匠と呼ぶにふさわしい中世から近代までの芸術家を、関係性に着目して二人ずつ対決させる形で展示されていて、創作に直接関係はないが同じような背景や作品に類似性あるいは対照性をもつもの、一方が他方を参考にした関係や師弟関係、実際のライバル同士、など、関係性もさまざまであるものの、日本美術を語るうえで比較対照されるような作家同士あるいは作品同士が並べられ、本物を比較して見ることのできる貴重な機会と思う。作品も仏像から、水墨や濃彩の掛け軸、屏風絵や襖絵、陶器、浮世絵、さらに日本画と、日本の芸術作品史ともいえる内容で、ちょっと教育的過ぎる感じがするけど、一同にすぐれた名品を見ることができる。ただ、範囲が広い分、解説もわからない用語がいくつかあり、見方がわからないというか、どこがいいのかがよくわからないというか、あまり興味のない分野もあり、個人的には浮世絵はどうも良さがわからないし、水墨画も詳しくないので、違いがあまりよくわからない。見ている人のなかからも陶芸のところでは、「わからない」とかっていう声が聞こえていた(よくあることだし、一方では、見事だとかすばらしいとか言うような声も聞こえていたけど、、、)。

個々の作品については、快慶の均整がとれ衣にも模様がついていて、端整で細やかな仏像、狩野永徳のうねるような檜図屏風絵、野々村仁清の細かくそれでいて絢爛な感じの色絵茶壷、若冲の鮮やかな色彩と精密な鳳凰画に蕭白のごてごてして、おどろおどろしい感じさえしながら、丸い目の竜のような生き物や仙人のどこか可笑しげな群仙図、応挙や芦雪の飛び出してきそうな、また、迫力のある虎画、鉄斎や大観の富士、など、見るものに強く訴える作品が多く、見終わっても印象に残っているものが多数あった。長谷川等伯の松林図屏風が展示期間を過ぎていたのと、俵屋宗達と尾形光琳の風塵雷神図が11日からの展示で見られなかったのが残念だった。

今年に入ってから、日本美術に触れる機会を多くとったので、だんだんと、日本美術の魅力を感じるようになってきたこともあり、今回の展示は、国宝級のすぐれた名品も集められていて、なかなか興味深くみることができた。

また、この展示をみて、日本の芸術は中国の水墨画などを基本に始まったのだと思うけど、色の濃淡で描く水墨画は、当たり前だけど、塗り残すことで明るい部分を描くわけで、色を塗り重ねて描いていくのとは異なるし、見たものや創造の産物を視覚的にそのまま正確に表現するのではなく、空気感を感じさせるぼんやりとした表現と精密な描写の同居、太い描線で力強く単純化した描写など、見るものあるいは見たものの印象を強めるためとも思われる抽象的な構成などもある。
西洋では教会などを飾る宗教画が絵画として独立し発展していったようだけど、基本的には、印象派がでてくるころまでは、視覚的にリアルに描くことが重視されていたのに比べると、日本では単に見た目だけでなく想像力や感性を必要とする作品が、たまたまプリミティブアートのような形で受け継がれていたのではなく、西洋で抽象芸術がでてくるよりもずっと前から、いろいろな表現が試され、時代を超えて受け継がれるようなものとして認められて今日まで残っていることを思うと、日本文化の奥行きの深さを感じ、いろいろなものの見方の基準が西洋の基準にのっとってしまっていて、絵画や美術も西洋美術を中心に絵の位置づけや、良し悪し、印象を語ってしまいがちで、それ以外は亜流や傍流になってしまっている現状などを考えさせられる展示だった。

googleでブログ始めました。

某ブログを利用して、展覧会に見に行った感想や、読んだ本の感想、株主優待でもらったものを中心に、日々の出来事を書いていたのですが、お小遣い稼ぎに、アフィリエイトをしようとしたところ、scriptとかのタグが利用できなくて、Google Adsenseの広告が貼り付けられないので、こちらに引っ越そうかと思い、とりあえず、作成してみました。

2008年8月7日木曜日

どんな仕事も楽しくなる3つの物語

(別サイトと同じ内容)
先日、 働くのがイヤな人のための本を読んだけど、それと同じジャンルというか多分自己啓発の部類に入る本。といっても、先日の本とは方向性が違うというか、まったく逆と言ってもよく、はじめに、のところで書かれている、

”生き方、考え方を変えればよい”、
”つまらない仕事はありません、仕事をつまらなくする考え方があるだけです。意味のない仕事はありません、意味のない仕事にしてしまう考え方があるだけです。”

の2文に、言いたいことのほとんどは集約される。
基本的にはいい話だし、仕事を感動に変える人は尊敬に値するし、仕事を感動に変わる五つの心構えって章も、その通り。

なんだけど、それって、今の世の中、正しいことはほめられるべきだし、ポジティブシンキングで前向きになるのが、いいっていっていうような話を聞くときのような、確かに、良いか悪いかで言えばよいことなんだけど、表現のしにくい違和感を感じてしまう。

社会で成功したり活躍したり輝いている人から得られる、前の本の中の言葉でいうところの「鈍感で善良な市民」による教訓といった感じ。決して非難するつもりはなく、いい本ですので、誤解なく。
前の本に共感するような人は、そう感じるのではないかと思い、あまりおすすめできないけど、逆に先日の本が働くことがイヤにならないための方策が書いてあるかと思ったのに、かえって悩めって感じでまったく良くないとか、前の本が気に入らなかった人には、この本は逆におすすめなように思う。

2008年8月6日水曜日

パーク・ライフ

(別サイトと同じ)
すでに文庫化している、吉田修一の第127回(2002年上半期)芥川賞受賞作、パーク・ライフを読んだ。
営業の途中、日比谷公園の噴水広場のベンチで遅いランチを取るのを日課としている主人公、同じく晴れた日は大抵公園でランチを取る女、地下鉄での偶然の会話をきっかけに知り合って、公園で交わす、意味が深いような、話が途切れて飛ぶような会話や、ベンチに座ってみているうちに現れるイリュージョンのような光景などを中心に話が進み、人間の中身と外、自分の家と住む場所のずれ、公園に来る人の入れ替わりといった、箱の内と外のようなずれが、人間関係のずれや会話のずれも含めて重層的に重なりあうことを意図しているようにも思えるけど、淡々と進んでしまう感じ。

学生の頃(もう20年以上前)に、一時期芥川賞作品をまとめて読んだことがあったけど、そのときは、社会や人生などの問題を抉り出すように書いたものや、卓越したこれまで読んだことがないような表現による描写など、読み応えというか読みにくい作品が多かったけど、昨日読んだ伊藤たかみの「8月の路上に捨てる」と同じく、読みやすいというか、あまり考えずに読めて、あっさりした感じがの本で、深みがない感じもするし、最後もどういうこと?って、取り残される感じもするけど、微妙にすがすがしい。
パーク・ライフ
吉田 修一
文藝春秋

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2008年8月5日火曜日

八月の路上に捨てる

(別サイトと同じ内容)
このところ、評論っぽい本を読むことが多かったので、たまには、小説でも読もうかと思って、ならば芥川賞作品がいいかと思い、伊藤たかみの「八月の路上に捨てる」(第135回、2006年上半期受賞作)を読んだ。
夏の暑い中、トラックでルートを回りながら、自販機の中身入れ替え作業をする二人の間で交わされる、主人公の離婚話。作業しながらの会話や主人公の回想といった形で、展開していく。
お互い夢を追いかけながら実現できず、近づいて生活しても分かり合えない部分があったり、なんでもいえるようでいえなかったりといった、いろいろな感情のせめぎあいというか、感覚が描かれ、本気で精一杯生きているのに、だからこそ、衝突してしまうような、人間関係と気持ちのゆれが、切れ味のよい読みやすい文体で書かれているように思う。
主人公が30歳で、新しいことを始めるのには難しく、夢の実現は難しいことがわかっているものの、あきらめきれず、結婚してお互いに責任をなすりつけたりできれば楽なのに、相手の気持ちまでわからず、気持ちが離れていくといった、話の筋としては、比較的ありがちだけれど、もがきながらも、夏の暑い中にけりをつけていくさまが、会話と回想を通して、淡々とした感じで伝わってくるように思う。


八月の路上に捨てる
伊藤 たかみ
文藝春秋

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(追記)一緒に掲載されている「貝からみる風景」は、30くらいの共働き夫婦の日常に起きるちょっとした出来事を、主人公の思いや感情を独特の感覚で切り出していて、それでいて、あっさりとした表現で文章がつづられていて、さわやかな感じのする短編で、文章の構成という点では拙い感じはするが、こちらのほうが、感情の機微やちょっとした出来事での人との衝突や愛情のようなものが感じられていい感じがする。

2008年8月4日月曜日

アート・ウォッチング「現代美術編」

(別サイトと同じ内容)
最近、節約モードなため、図書館に行って、借りてきた本。
20世紀後半の90年代初頭までの代表的な作品について、素材感や、構成や、コンセプトなど、それらの作品が発する印象や、鑑賞者や作者、社会との関係性などへの疑問や意味合いなどの論評がされている。

アート・ウォッチング〈現代美術編〉
中村 英樹,谷川 渥
美術出版社

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図書館で借りた本なこともあって、発行は1993年なので、現代美術編といっても、もう15年も前になってしまっていて、今まさに、現れていたり現れつつあるものや方向性は網羅されていないものの、印象派やフォービズム、キュビズムといった20世紀初頭に出現してきた抽象絵画より後、50年代以降(取り上げられた最も古いものは1944年の作品なので、正確には44年以降だけど、、、)の一般的に良くわからないと評されやすい、現代美術の作品について、その見方や考え方のヒントとなる本だと思う。
現代美術は、鑑賞者が積極的に作家がなにを言いたかったのかを考えたり、創られるプロセスを楽しんだり、あるいは、絵画や芸術、社会といった既存の枠組みに対する考えを迫るものとして捉えるなど、わからないというのではなく、楽しめばいいと思うので、くだらないとか、どこがいいんだかわからないとか、好き、嫌いといった単純な感想をもつだけでもいいと思うし、評論家等の意見は意見として、そういう見方もあるのかとか思うことで、いろいろなことを思ったり考えたりするのをより楽しめるようになるのではないかと思う。
序章は、アートウォッチングを始めよう。ということで、自由に見て感じ、感動しましょう。みたいな感じの始まりな割には、中の作品解説では、美術評論にありがちに思うけど、どうみれば、そこまで話が膨らむんだっていう感じや、言い回しが複雑で言っていることが良くわからない部分もあるけど、比較的、一般向けな読みやすい解説となっていて、それなりに、面白く読むことができた。