2008年8月11日月曜日

中陰の花

このところ、続けて読んでいる芥川賞受賞作、今回は「中陰の花」(第125回、2001年上期受賞作)を読んだ。
作家の玄侑宗久については、雑誌などに載せられたエッセイというか対談のようなものは、時々読んでいて、心の時代とかって叫ばれる、現代における宗教の位置づけというか、問題や悩みに対する向き合い方のような話だったと思うけど、仏門の立場にいながら積極的にメディアへかかわっているように見えて、寺などでの説話をするだけでなく、小説が芥川賞を受賞しているということから興味深く、今度読んでみようと思いながら、これまで、小説を読んだことがなかった。
この作品も、主人公は地方の寺の住職で、不思議な力を持つウメさんの亡くなる少し前から葬儀や四十九日の法要の頃に、ウメさんに関することや近所の人の不思議な宗教的とも言える経験の話や、住職夫婦が感じた不思議な体験と水子への供養などが絡まって、死んでからどうなるといったことを、住職自身死んだことないしわからないとか、そのようなことを聞かれた場合は相手次第で説明しているとはいいながらも、光が見えたりといった宗教的ともいえる体験や死後や成仏ということが、取り扱われている作品。すべてにつながったり光や音が聞こえたりする人の話なども織り交ぜられているが、虫の知らせのような夢見や、のっかられるといった体が重くなる現象を主人公の住職自身が体験しながら、それが、ウメさんとの関係が思い当たるフシとしてあるが、関係性が良くわからなかったりで、不思議な体験といっても、実際にもたまたまという感じで、ありそうな出来事でもあり、様々な出来事が強引に結びつけられることもなく、現実的な範囲に近づけられていて、死後とか成仏とかいったことが、理解はできないけど、なんとなく納得しやすい形になっていると思った。
題名にある中陰というのも仏教用語で、死後、魂がまだあの世に行かず、途中にある状態のことだそうで、ほかにも仏教用語がでてきて、よくイメージがつかめないところもある。かといって、難しくて読みにくい話というわけではなく、小説として読みやすい。
特に仏教の用語での極微や空が素粒子やエネルギーとして捉えられる説や、極楽浄土までの距離を49日で行くにはちょうど光の速度になる話などは、たまたまというか、そのように設定したのではないかっていう気もするけど、あまりに理由もなくただ不思議なことを理解しろというのは現代的でないこともあって、面白いと思った。
ただ、エッセイとか対談などを読んで、現代における心のおき方などのような仏教で、いろいろな考えなどを期待すると少し物足りない感じがするかもしれない。

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